私が彼の「灯」になるまで ――愛の証明問題(別解)|(5)
第五章:陥落 ――毒の浸透と間接キス
高校3年の5月。
まだ、直哉の決定的なエラーを見たことはなかった。
彼の取り澄ました顔を、完全に壊したくて、ウズウズしてた。
あきらを通じて手に入れた「絶対に解けない数学の問題」――県内の進学校の猛者たちが匙を投げたという、悪名高い難問を餌にした。
私は彼を、放課後の誰もいない理科室へと誘い出した。
解けるとか解けないとか、そんなこと、どうでもいいわ。
彼が逃げなければそれでいい。
あっさり解いたら、コーヒーを出して引き留める。
逃げようとしたら、手首を掴んで「相沢くん、今夜、自己嫌悪になっちゃうよ」と言っちゃう。
解けなくて困る彼を見たい。いじめたい。
密室。
埃っぽさと、理科薬品の匂いが混ざり合う、閉ざされた空間。
問題を示された直哉は、二分程度無言でそれを見つめ、そして静かにペンを置いた。
「……無理です」
「もうちょっと粘ってよ。コーヒー飲んでさ」
私はバッグから缶コーヒーを取り出した。
自販機で買ったばかりの、まだ少し温かい「微糖」のコーヒー。
私はそれを、彼の目の前で一口、ゆっくりと飲んだ。
唇に触れる金属の冷たさと、コーヒーの苦味。
そして、そのまま彼に差し出した。
「……」
彼はあっさりそれを飲んでしまった。
私はハッとして、彼の目を見た。
私は右手で、自分の口を覆ってしまった。
彼も私の目を見た。そして、口を覆った私の顔を見た。
彼、一瞬、ハッとした。
そして、「しまった!」という表情が、血の色とともに顔中に広がるところを私は見た。
彼は震える右手で、缶を机の上にかろうじて載せた。
缶が机に置かれたとき、無機質な音がした。
とっさに私は、その缶を奪い取るように掴んだ。
缶にはまだ重さが残っていた。
私はその重さの元を口に流し込んだ。
彼の脳内にある「倫理(ロジック)」と「潔癖な境界線」が、悲鳴を上げているのがわかった。
「教員の子」として、清廉潔白を厳しく叩き込まれてきた彼にとって、それは禁忌に触れる行為。
――バグった。
彼の完璧な回路が、私の「毒」に侵食された瞬間だった。
間接キスなんて、そんな甘っちょろい言葉で片付けたくない。
私の熱が、湿り気が、私の存在そのものが、コーヒーという媒体を通じて彼の体内を侵食していく。
彼の額から汗が一筋、左頬を伝って流れ落ちていった。
その汗は理科室の床に染みを作った。
理科室の扉の向こう、あきらと何人かのクラスメートの影が動いていた。
わずかな隙間から、彼女たちの息をのむ声が聞こえたような気がした。
「えっ……」
影が後ずさりしていた。上履きの足音が遠ざかっていく。
「これ以上、見ちゃいけない。聴いててもいけない」
そんな風に言ってるのかしら。
居たたまれず、立ち去ろうとする彼の手首を、私は掴んだ。細いけれど、鍛えられた筋肉の感触が指先に伝わる。
汗が薄く滲み出ていた。
彼の肌も私の掌も。
「……このまま帰るなら、私、悲鳴、上げちゃうかも。でも、一緒に帰ってくれれば、今日はいいよ」
その言葉にはいろんな叫びが込められていた。
「私を置いて行かないで!」
「今は私の言葉を聞いて!」
「私を気持ちを感じて!」
「私を嫌いにならないで!」
それらが混じって、「悲鳴、あげちゃうかも」なんて、彼を脅して、追い詰めるセリフになって、口からこぼれてしまった。
こぼれてしまって、後に引けなくなった。
お願い!
今日のこの時間だけ、私の言うとおりにして!
私の心臓は、今にも肋骨を突き破って飛び出しそうだった。
表面上は、獲物を追い詰めた猛獣のように冷やかに微笑んでいるけれど、内側は焼けるような熱さで沸騰している。
正気じゃないわ。
でも、正気で彼を捕まえられるわけがない。
理科室のガラスに映った自分の顔。
上気して目が据わった必死な顔。
泣き出しそうにゆがんだ口元。
余裕なんてない。
彼は私を特別扱いしている。
それはあの日、数列の問題を解いてもらったとき、分かった。
だから脈アリなのは信じてる。
でも、勝ち確じゃない。
この迫り方、嫌われたらどうしよう。
正解が見えなくなった。
もっと緩やかに近づけばよかったの?
ああ、分からない!
理科室の2人の周りには、熱のこもった異様な臭いがした。
私は彼の、彼は私の、臭いに溺れそうだった。
とうとう彼が言った。
「古谷さん、とりあえず、ここを出よう!……暑い」って。
彼の額にも、顔にも、首筋にも、汗が浮いてた。
私も汗ばんでいた。自分の汗の臭いを強く感じた。彼の臭いも。
ひょっとして、私の匂いが彼の脳を焼ききったの?
彼をバグらせた!
ゾクゾクするような快感が、背筋を駆け上がる。
これは恋なんて可愛いものじゃない。
もっと暴力的で、自分ですら制御できない衝動。
手足がガクガクと震えるようだけど、必死に耐えた。
2人で理科室を出た。
下駄箱から震える手で靴をとった。
うまく履けなかった。
直哉は遠回りを私に促した。
校舎の裏手には石段があって、それは丘の上の神社に続いていた。
神社は古城址の内側にあり、参道と遊歩道が入り組んでいた。
彼と私は神社に向かって歩き出した。彼は私に歩調を合わせてくれた。
数人の級友が遠くから私たちを見ている。
スマホを手に持っている。
実況しているらしい。
私のスマホも鞄の中で震えている。
見世物みたいだけど、だからと言って、逃げるの?
逃げるわけないじゃない。
彼とどんな話をしたのか、記憶にない。
彼の声、遠くから聞こえてくるみたいだった。
彼も私とどういう話をしたのか、覚えていないはず。
彼は歩くことで、ドキドキがおさまっていくみたいだった。
彼の呼吸が深くなっていくのが分かった。
何処をどう歩いたのか、覚えていない。
彼から数歩、後ろを歩いていた。
彼の足跡をトレースした。
彼の残り香がした。
私の手の震えが止まらない。
呼吸が浅い。
頭が強張ったようだった。
背中からゾワソワするものが首筋に駈け上がってきた。
一の鳥居が見えた。
右足が石段を踏んだ拍子に、足元が大きくぐらついた。
とっさに前に身を躍らせた。
少し下を歩く、彼の広い背中に飛び込んでしまった。
「相沢くん!」
「うわっ!」
私は直哉の背中に負ぶさるように、落ちた。
彼は一の鳥居にぶつかったけど、倒れなかった。
私は彼の首に、両腕を巻き付けてしまった。
彼の首すじに私の口がふれて、そのまま滑った。
そこからは、初夏の匂いがするしょっぱい味がした。
「え?」
神社にお参りをしに来たのかな?
このおばちゃんは。
目を大きく見開いていた。
私は彼から身を離した。
彼もおばちゃんを確認した。
白々しく彼は、こう言った。
「あー、びっくりした」って。
私も「滑っちゃった」とか応じた。
おばちゃんは表情を取り繕って神社に向かった。
直哉は言った。
「ここは田舎だから、遅くても明日には学校に連絡が行くだろうね。どうしようか?」
「とぼけようよ」
「俺は無理だよ。古谷さんから背中に突撃されて、両腕を首に巻き付けられて、密着されたんじゃ、追及に耐えられそうにない」
「え、じゃ、どうするの?」
「今から学校の職員室に戻って、自首したらどうだろう」
「そんなの嫌だよ」
「……大丈夫。だって、俺、学校にとって利用価値があるから」
「うわ、性格悪い!」
「黙っていれば、どうして隠れたのかって、余計なことを言わなきゃいけないよ。それに……」
「……それに?」
「今、自首しないと、桑村のときみたいに、おかしな形に加工されて……例えば、俺たちがかたく抱きしめあって、熱烈にキスしてたとか、そういう尾ヒレが付いて学校に知れて、面倒なことになるだろうね。俺はそんなのお断りだよ」
「私だって、そんなの絶対に嫌だよ!……なら、相沢くんのアイデアに賭けるしかないね」
「かなり分のいい賭けだよ。ただ、あまり細かく口裏を合わせないようにしよう」
直哉は完全に落ち着いていた。むしろ、悪戯小僧のような顔で、この状況を楽しんでいるようだった。
「どういうこと?」
「正直に言えばいいよ」
「……缶コーヒーのことも?」
「それしきでは致命傷にならないけど、こちらから言う必要はないさ」
「じゃあ?」
「理科室で数学の問題を解こうとした。古谷さんと北村さんと一緒に。北村さん、ドアの外に居たでしょ?他にも何人か居たんじゃない?」
「……居たね」
「事実だけを並べればいいと思うよ」
「神社に上って、後ろから抱きついたって言うの?」
「話をしていたら、盛り上がって、まっすぐ帰ることがもったいない気持ちになった。だから遠回りした。バス通りに下りていくとき、浮いてた石段がぐらついて、とっさに前に跳んだ。そして、こうなった、で筋は通るよ」
「初犯だしね」
「後は、しばらく恥ずかしい思いをすれば終わりだよ」
「終らせないよ。……終らせるなら、嘘をつくかも。『相沢くんが無理矢理』って」
「……止めて!マジで。痴漢えん罪かよ!」
「相沢くんの案に乗るから、だから」
「だから?」
「その後は、また後で」
私はこうして彼をねじ伏せた。
彼の目論見は見事だった。その通りの展開になった。
あきらが複雑な表情をしてた。
でも、あきら、私は略奪したんじゃないから。
あきらと直哉、付き合っていた訳じゃないでしょ?
でも、私は彼女の思いを知らなかったと、これから先、ずっと言い続けないといけなくなった。
でも、それでもいいわ。
