私が彼の「灯」になるまで ――愛の証明問題(別解)|(4)
第四章:呪いとしての「10分間」 ――ノートの深淵
高校2年の冬、私はちょっとした勝負に出た。
知識を問う質問では、彼は一瞬で正解を叩き出して会話が終わってしまう。
だから私は、数学の、それもまだ習ったばかりの数列の問題を、わざと彼にぶつけた。
部活(一応、女子バレーボール部員だった)を抜け出したふうを装って、放課後の教室に彼を待ち伏せした。
他にも女子が何人か残ってたけど、気にならなかった。
職員室から戻った彼は、今にもグラウンドへ駆け出そうとしていた。
「相沢くん、これ。さっぱり分からないの。教えてくれない?」
彼は一瞬、明確に不快そうな顔をした。部活へ急ぐ足を止めるのは、彼にとって「ルーチンの破壊」であり、平穏を乱す行為だからだ。
「何分か待ってもらえる? 解くからさ」
彼は自分の机に向かった。
私は彼のすぐ前の席に横座りして、彼が苦闘するところを見つめた。
焦る彼。誰も見たことがない、ゼロから思考を組み立てる「相沢直哉」の剥き出しの苦闘。
いつもは鉄壁の城に籠もって、出来上がった「正解」という弾丸だけを撃ち込んでくるあんたが、私の目の前で、その城の門を少しだけ開けたのだ。
シャープペンシルのノックが鳴る。
カチ、カチ。
「5分くれない?」
私は時計なんて見ていなかった。
彼が必死にペンを動かすそのリズム、紙を削るような音、そして彼の眉間に寄るシワ。
カチ、カチ、カチ。
右手親指で額をコツコツと打つ癖。
そのすべてを、網膜に焼き付けていた。
カチ、カチ、カチ。
軽い舌打ちと一緒に彼が零した。
「5分経っちまった」と。
カチ、カチ、カチ。
彼が黒くなったノートをめくった刹那、白いページに一気にペン先が走って答案が出来ていく!
まるで、バラバラだったパズルが一瞬で完成するような魔術だった。
「あ……マジック?」
思わず声が出た。
「古谷さん、早く写して。間違ってても俺のせいだからさ」
差し出された、真っ白なページの正解。
でも、私の目は、その直前に彼がめくった「黒く塗りつぶされたページ」に釘付けになっていた。
迷い、計算し直し、苛立ちをぶつけたような、荒々しい筆跡。
いつもはあんなに冷たい顔をしている直哉が、私のために、この10分間以上、これほどまでに必死に頭を動かしてくれた証拠。
その「泥臭い思考の跡」こそが、私にとっての真実だった。
「……これ、借りてもいい?」
「返さなくてもいいよ。捨てておいて」
直哉は、使い切る寸前のそのノートを、まるで読み終えた新聞紙でも渡すみたいに、あっさりと私の手に預けた。
信じられない。私にとっては、彼の「剥き出しの思考」が詰まった、喉から手が出るほど欲しかった宝物なのに。
ねえ、直哉。あんた、自分の価値を分かってなさすぎるわよ。
それとも、自分の「一部」を私に預けることに、これっぽっちの抵抗も、照れもないっていうの?
「捨てておいて」なんて言われたけれど、そんなのできるわけないじゃない。
誰にも見せないはずの、あなたの苦闘の跡。
間違えて引き直された二重線。紙が波打つほどの強い筆圧。
それは、あなたが世間に見せている「完璧な優等生」という仮面の下にある、生身の、生々しい、相沢直哉の「抜け殻」そのもの。
私はそれを、自宅の引き出しの一番奥に、誰にも見られないように隠した。
それは、私だけが知る「相沢直哉の弱さ」という名の、一生解けない呪いになったのだ。
ふと、視線をあげて彼の手元のシャープペンシルを見た。
臙脂色に、金の唐草模様が、控え目に描かれた、古いシャープペンシル。
金属製で細身、鈍い光沢を放っている。
親指で押すところ--ノックが噛まれて、ところどころ彼の歯形が付いている。
「そのシャーペン、カチカチするところ噛んでちょっとガジガジじゃない?その柄、女物?」
「あ、これ?中学のとき、母さんが使っていたのを、無理にねだってもらった。こいつと一緒に、高校入試もくぐり抜けた。お守りだよ」
私は思った。
(ひねくれてるわね。お母さんをコントロールしてるくせに、お母さんの持ち物をお守りだなんて。……そのシャーペン、私にもらえないかな。欲しい)
直哉が去った後、残ってた女子達がこっそりと私を見た。
彼女らの顔には、「?」がたくさん浮かんでいた。
私と彼に只ならぬ空気を感じたのは確かみたい。
でも、それが何を意味しているのか、理解できないって顔。
彼女達、私と彼がキスするシーンでも期待してた?
そういうことは2人だけのときにゆっくりやるわ。
私たちは見世物じゃないの。
だけど、私ほど近くで彼の苦闘を目にした人間なんて、他には居ないわ。
そういう意味なら、「ラブシーン」と称してもいいかもね。
距離がゼロに近かったし。
だけど、ちょっと悔しかったのは、私の匂いも、吐息も、今日は彼にバグを起こさせなかった。次は必ずバグらせてやるから。
そんなある日、彼の机にあのシャープペンシルが置かれたままだった。
「置き忘れたのかな?」
私はそう思って、それをハンカチでくるんで鞄に入れた。
教室から出ようとしたとき、彼と鉢合わせしたけど、彼は私には目もくれず自分の机に向かった。
私は下駄箱で、自分の靴をとったとき、閃いた。
(相沢くん、ひょっとして、このシャープペンを探してたの?)
でも、私は意地悪をしたくなった。
そのまま家に帰った。
彼の愛用品は、今夜、私の部屋に一泊する。
泊めるだけじゃない。私の勉強に使う。
明日の朝まで私から離さない。
「これ、結構いいヤツじゃない。デザインといい、触った感じといい、贈り物にするレベル」
「でも、使い込まれて、何となく違和感がある。握り癖っていうの?」
自分のペンよりも、ずっと細くて、頼りない。
なのに、指を這わせると、指先に食い込むような硬さがある。
相沢くんがいつも握っている場所だけ、金属がわずかに体温を吸い込み、磨かれたように滑らかになっている。
――ここね。
私は、彼がいつも力を込めるポイントに、自分の指を重ねてみた。
細すぎる軸。
遊びのないノックの感触。
私の指は、彼の指が残した「型」の中に、吸い込まれるように収まってしまう。
それは、まるで彼に手首を強く掴まれているような、逃げ場のない密着感。
ノックには彼の歯形が小さく残っていた。
原型は保たれているから、加減して噛んでるみたい。
噛むと言うより、固定している感じ。
私は、吸い寄せられるようにノック部分を唇に寄せた。
ひんやりとした金属が、熱を持った唇に触れる。
舌先で、彼が残した微かな傷跡をなぞる。
鉄の味がした。血の味かも。
私はただ、彼が壊したその場所に、自分の体温を塗りつけるように、優しく、深く、唇を押し当てた。
このシャープペンシルのように、相沢くんは歪んでしまった。
このノックのように、決して消えないスティグマが、彼の心にはある。
彼はお母さんを軽蔑し、憎みながらも、愛を捨てられない。ありのままで優しくされたがってる。彼の内面は歪んでしまったけど。
その歪みこそ、彼そのもの。マザコンじゃないわ。飢え?それとも渇き?
歪んだからこそ、彼はほとんど見つけられないほどのレア物になった。
これを知ってるのは、私だけ。
他の女子は一切知らない。
完全に支配したい。彼を。
でも、退学にしたらダメ。
彼の明晰さを失わせてもダメ。
私が彼をプロデュースする。
私なら出来る。私しか出来ない。
お母さんなんかじゃ、絶対に無理。
そうすれば、私の勝ちだわ。
彼のペンはハンカチで包まれて、私のパジャマの胸ポケットに収って、目覚めるときまで一緒に居た。
翌日、私は彼の机に行って、廊下に誘った。
そして、制服の胸ポケットから臙脂色のハンカチを取り出した。
布の中にある彼の愛用品を、返してあげた。
彼は明らかに動揺していた。ちょっと怖がっていたかも知れない。
でも、彼はこう言った。
「探してたんだよ。ありがとう」って。
その日、彼はそのペンを使って、授業を受けていた。
そして、習慣的なものなのだろう。
昨夜、私が唇を当てたノックを、噛んじゃった。
