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私が彼の「灯」になるまで ――愛の証明問題(別解)|(3)

第三章:バレンタインの無記名の「毒」


 高校1年の冬。
 私は生まれて初めて、チョコレートを贈ることにした。

 相手は、相沢直哉。
 彼には苦いものが似合うと思ったから、ビターなものを敢えて選んだ。
 けれど、私はそのパッケージに自分の名を書かなかった。書けなかったのではない。書いてはいけない気がした。

 放課後、彼が部活から帰る前のわずかな時間を狙い、彼の家の郵便受けにそれを投げ入れた。
 名のない贈り物。彼はそれを手に取り、不思議そうな顔をして中身を確認したはずだ。
 本当は見たかったけど、彼の自宅の構造では隠れ場所がないの。こればかりはどうにもならない。

 私の筆跡。小中高を同学年として過ごして10年目。彼なら私の文字を認識しているはず。
 あえて名乗らないことで、彼の脳内に「古谷遥」という存在を強制的に常駐させる。
 「これは誰からのものか?」という問いを、彼の論理的な脳に突きつける。
 それは、純粋な好意などではなく、彼の平穏を乱すための、甘い「毒」だった。

 ……だけど、どうやらそれは虫のよすぎる願いだったみたい。
「君へ」の二文字ではさすがに無理よね。
 私も彼のことになると、バグってしまうみたい。
 我ながら「察してちゃん」みたいになってしまった。
 これじゃ「一軍女子」と同じじゃない(笑)。

 高2になったとき、世界史の授業で彼は先生から「可愛げのない生徒」と言われた。
 先生は滅多なことでは、彼にあてない。正解を即答するからだ。
 さすがにマイナーな問題過ぎて、誰にも当てられないから、先生が仕方なく彼を指名したことが一回だけあった。
 「アウグストゥスの時代、ローマ帝国がゲルマン人に負けた戦いは?」の問いに、彼は何も見ないで、かぶせ気味に言った。
 「トイトブルクの森の戦い」

 クラスの誰もが、その鮮やかすぎる回答に息を飲んだ。
 そして、先生は言った。
「本当に、相沢は可愛げというものがまったくないな」と。
 でも先生、嬉しそうだった。

 彼は世界史の試験、校内でも模試でも満点がデフォだった。模試でマークミスして20点をとったことはある(笑)。

 授業の後、私は教室で彼を捕まえて尋ねた。
「どうして、そんなに覚えられるの?」
 直哉は、まるで社交辞令みたいにこう答えた。
「歴史劇が好きだから。そういう映画が好きだから。好きなことなら努力しなくても、勝手に頭に入る」

 完璧な答えだった。彼のテンプレ。付け入る隙がない。
 でも、私は笑って返した。
「……ふーん。へぇ、そういうのが好きなんだね。いかにも相沢くんらしい」
 彼は一瞬、ほんの少し怪訝な顔で私を見た。
 その表情の変化を、私は逃さなかった。
 優等生の仮面が、一瞬だけ揺らぐその瞬間。
 それこそが、私の求めていた「亀裂」だった。

 そういえば、あきらが小学校の頃の直哉について、こんな話をしてくれた。

 あきらからその話を聞かされたとき、私は怒りよりも先に、彼がどうしてパラノイアじみた、お母さんをコントロールしようとする行動の、本当の動機をきれいに理解できた。そんな感覚があったわ。

 直哉、あんたのあの「正解の暴力」とも言える完璧主義の根っこが、どこにあるのか。
 あきらは「かわいそう」なんて顔をして、小学校の給食の時間に起きた、あの「公開処刑」の話を教えてくれた。

 直哉のお母さんは、普段は別の小学校で教鞭を執っている「先生」。
 その彼女が、参観日の給食の時間、わざわざ直哉の席までつかつかと歩み寄った。
 あきらによれば、当時の直哉の食べ方は上品で、箸の持ち方も何一つおかしくなかった 。
 それなのに、彼のお母さんは無言で直哉の右腕を掴み、その指を無理やり、自分の理想とする形へと「矯正」したの。

 クラスメートも担任も他のお母さんたちも、あまりの異様さに息を呑んだというわ。
 あきらはそのとき、直哉の正面に座っていたらしい。
「彼がダメならクラスメート全員ダメだよ」

 お義母さん、「うちの子は、有象無象の子とはレベルが違うのよ」と誇示したつもりだったの?

 自分の見栄のために、自分の子の精神を踏みにじったの?

 その口で受け持ちの児童に、「他人への思いやり」を説いていたの?

 直哉が「あの女」と呼ぶ理由が分かる。

 「嘘をついてはダメです」って言葉を、自分の行動で完全に破ってる。

 自分にだってできないことを、他人には平気で求めるっていう偽善。

 それを目の当たりにした思いだわ。

 教員という存在に対する根源的な不信感。

 どうしても拭えない嘘くささ。

 鬼のような顔で自分の子の気持ちを完全に圧殺する一方で、慈母のような笑顔を顔に貼り付けて、余所の子の教育をできるの?

 どうして、そんなことを矛盾なくできるの?

 自分の担任する児童に「他人を思いやれ」と説きながら、自分の子は同級生を殴り倒した。

 これは家庭教育に致命的なエラーがある証拠だわ。

 絶対におかしいわよ。

 でも、何より私の胸を抉ったのは、その時のあんたの反応。
 直哉、あんた、顔を強張らせながら、少し笑っていたんですってね 。

 笑うしかなかった。あるいは、そうやって笑って「いい子」を演じることでしか、その場をやり過ごせなかった。
 あきらは、あんたが当時、授業の発表のときだけ吃音になっていたことも覚えていた 。
 普段は普通に話せるのに、評価される場になると言葉が詰まる 。
 それは、お義母さんの「完璧であれ」という無言の圧力が、あんたの喉を物理的に締め付けていた証拠じゃない。

 私は確信したわ。
 あんたが今、授業中に堂々と居眠りをして、それでも首席を独走してみせるのは、あの日の屈辱に対する、精一杯の、そしてあまりにも孤独な復讐なんだって。
 誰にも文句を言わせない「正解」を叩き出し続けることで、あんたはあのお義母さんの干渉から、自分の領域を守り抜こうとしていた。

 私の目は、きっとあきらのような同情には染まっていない。
 お義母さんが力ずくで教え込んだ「正解」を、私はもっと別の、甘くて逃げられない「毒」で塗り替えてあげたい。

 あんたの右腕を掴んで無理やり矯正したのがお義母さんなら、私はあんたの心にバグを起こして、自らその手を差し出させたい。
 大丈夫よ、直哉。
 あんたの「吃音」は今はほとんどない。でも、心の「歪み」は消えてないように感じる。それも含めて、全部込みで相沢直哉。
 私はあんたの妻であり、あんたの戻るべきところ。

 だから、私を1人にしないで。

 あのときの囁き、忘れてないから。

 放課後の下駄箱で、あんたと2人になったことがあった。
 そのときの直哉、中学生のときの明るい顔だった。私のそばでヒソヒソ言ってくれたよね。

「桑村の噂、災難だったね。キザ男の逆襲かよ。古谷さんみたいに綺麗だと、目立つから変なこと言われるよね。俺から言わせてもらえば、噂が流れていることは事実だけど、内容の真偽は不明ってところかな」

否定してよ!私、そもそも『告白』の場所すら知らないんだけど(笑)」

美少女伝説ってことで、笑って許してやりなよ。その程度でよかったんじゃない?桑村、しつこいからさ」

「そうだよ。しつこいんだよ。名誉毀損だよ(笑)」

「いや、俺が言いたかったのは、暴力沙汰だよ」

「え、怖!」

「冗談だよ。だけどさ、人気のないとこには1人で行かない方がいいかもね。じゃ、さようなら」

 彼はそのまま部活に行った。

 私は、店番の日だったから、家に帰った。
 帰り道、とても嬉しかった。
 1人でニヤニヤしちゃって、どうにも止められなかった。

 お店の常連さんから、「ご機嫌だね」って言われたんだから。
 あんたのせいなんだから。