【官能】崩壊の連鎖反応、あるいは比翼の跳躍|比翼連理のエロティシズム(4):第七章
【閲覧注意】
本作には性愛に関する露骨な描写が含まれます。
18歳未満の方、およびこうした表現に抵抗がある方は閲覧をお控えください。
第七章:断絶のアルゴリズム、あるいは自由への跳躍
私から辞意を聞いた直後、室長の顔から血の気が引くのが見えた。
彼女はまるで火がついたように「偉い人」へ連絡を入れ、私はそのまま、逃げ場を塞ぐかのように総務部長室へと連行された。
そこに座っていたのは、研究開発部長、有象無象と総務部長。研究開発部長の顔だけは知っている、
実際に対峙するのは、今日が最初で最後だ。
彼らの放つ言葉は、市場のノイズよりも価値がなかった。
「水原さん、冗談だろう? 君が抜けたら、うちのアルゴリズム・トレードの屋台骨が崩れる。今の年俸に不満があるなら、再考の余地はある」
致命的な勘違いだ。有象無象たちは、すべてを金銭という単一の変数で解決できると思い込んでいる。私にとって、この組織に留まる期待値はすでにマイナスに振り切れている。私は「再考」という無駄な演算をスキップし、淡々と、しかし研ぎ澄まされた刃のような言葉を連中に投げつけた。
「先日、退職した妻は採用された頃からずっと、クオンツを志望し続け、その能力をこの会社に捧げたいと望んでおりました。しかしながら、会社が彼女に与えた役職は『セキュリティ担当のSE』でした。妻をクオンツにしない理由は、私が知る範囲に限って申し上げれば、『女性にはクオンツの激務は向かない』『SEならバックオフィスで潰しがきく』『奥さんは学士でしかない』というものでした」
総務部長らしい男が、何か言いかけようとしたが、私はそれを視線で制した。
「妻は、私の知る限り、私も含めて、研究室の誰よりも優秀な『クオンツ』でした」
彼女を適正に評価しないという判断は、この会社にとって最大のドローダウン(資産下落)だったはずだ。だが、目の前の無能なポートフォリオ・マネージャーたちは、そのリスクにすら気づかなかった。
「水原! 今、君の退職を認めるわけにはいかない……!」
彼らのトーンが変わった。懐柔から威圧へ。典型的な、無能な管理職による「引き止め」の定石だ。彼は長々と、弁解とも脅迫ともつかぬ戯言を垂れ流し始めた。
もはや、耳を貸す価値もない。私の代わりに連中の言葉を咀嚼していたのは、ジャケットの内側で稼働するスマートフォンだ。入室と同時にサンプリングレートを最大に叩き上げ、すべての音響データを捕捉する。
――ジャケットの隙間に隠したマイクロカメラは、有象無象の無様な表情を栞のPCへ実況し続けていた。物理的な距離を超え、視覚と聴覚を彼女と共有する。この瞬間、私は孤独な退職希望者ではなく、最愛のデバッガーと共にシステムを解体する「執行者」へと変貌していた。
「競業避止義務の契約を忘れたわけじゃないだろう? 辞めるなら、今後三年間はこの業界で働けなくなる。それでもいいのか?」
「部長、法的な根拠に基づかない脅迫は、交渉(トレード)の材料としては下策ですよ」
私は無機質な声で答える。部長たちの顔が、熟しすぎた果実のように赤黒く染まっていく。
「いいか、これは君のためを思って言っているんだ! 奥さんの件だって、あれは彼女の将来を考えた配置だった。セキュリティ担当として、奥さんがあまりに優秀だから、他の社員では代えがきかなかったんだ……」
真の理由を糊塗するばかりのノイズ。彼女がどれほど、数式の美しさに情熱を燃やしていたかを知りもせず、便利な道具として固定した罪を、彼は今さら「賞賛」という名の嘘で塗り固めようとしている。
彼女と結婚して以来、私の中で燻り続けていた会社への不信感は、この瞬間、臨界点を超えて燃え上がり、「ロイヤリティ」とやらを完全に焼失させた。後に残されたのは、組織というシステムへの決定的な失望と、そこから抜け出すための、剥き出しの自由への渇望だけだった。
その時、私の直接の上司である室長が割って入った。
「……ぶ、部長、今日のところはこれくらいで。水原さん、ちょっと頭を冷やして。有給、3日程度冷却期間を設けましょう。ね?……」
私は彼女を冷徹な眼差しで見つめた。
社内では「女性登用」の象徴という政治的ラベルを貼られているが、現場のフィードバックは惨憺たるものだ。実力という裏付けなしに上層部の寵愛を掠め取り、同格以下を軽んじることでしか自尊心を保てない女。彼女の存在そのものが、この会社の評価アルゴリズムが破綻している証拠だった。
今この瞬間も、自分の管理責任を問われるのを恐れて立ち回っている。
(……博士号を持っているらしいが、栞とは次元が違う。クオンツの紛い物だ。部下の言葉を理解できない低能が、人を評価するなど、それ自体がシステム上の致命的なバグだ)
私は一言も発さず、一礼して部屋を出た。その足で、私は「有給休暇」の消化に入った。
その日、私は妻に約束したとおり、15:00には帰宅した。
玄関のドアを開けるやいなや、目に飛び込んできたのは栞の顔だ。
まるで「大満悦!」というポップアップが脳内で点滅していそうな、輝かんばかりの笑顔。
「全裸待機する勢いで待ってた!もうっ!最高のショーだったわっ!」
弾むような足取りで、彼女は私と腕を組んでリビングに向かった。画面越しに私の「戦い」を、そして組織が崩壊していく予兆を共に観測していた彼女にとって、それはどんな映画よりも痛快なエンターテインメントだったのだろう。
ジャケットを脱ぎ、ネクタイを外し、リビングのソファに深く沈み込み、彼女の淹れてくれたコーヒーの香りに包まれてようやく、私は本当の自由へのカウントダウンが始まったことを実感した。
深い溜息が漏れた。
すると栞が、「最高のショーを見せてくれたご褒美(インセンティブ)」だと囁いて、私を寝室に誘った。
だが、扉を閉めた瞬間、彼女の瞳の色が変わった。
「はい、罰ゲーム執行!」
突然の宣言と共に、私は背中からベッドへ押し倒された。
「……これは、私の我慢を限界まで試した罰(ペナルティ)よ。覚悟してね?」
「子供たちは?」
「子供たちは、シッターさんがキッズホテルへ連れて行ってくれたから……私の良人(おっと=夫)に命ず。再びドアを私が開くまで、手と指の使用禁止!……わたしにすべてまかせ、ゆだねること……!」
妻はネクタイで、私を後ろ手に拘束した……。
彼女の理論(ロジック)の前では、私の自制心など、最初から「解体」される運命にあったのだ。
……寝物語で妻は語った。
「妻は、私の知る限り、私も含めて、研究室の誰よりも優秀な『クオンツ』でした」
私が帰宅して自宅のドアを開けるまで、彼女はその音声をエンドレスリピートしていたそうな。
有給休暇は室長のメンツを立てて、とりあえず3日間とした。だが、私は3日消化し、6日消化し、10日消化した。有給期間中、私は一度も会社に連絡を入れなかった。私が不在の間にシステムの整合性が少しずつ歪んでいくだろう。しかし、もう知ったことではない。それを修正する義理はない。
有給休暇の残日数がゼロになる前に、私には実行すべき二つの「タスク」があった。
一つは、労働基準監督署への通報だ。
栞への不当な配置転換。そして、産前・産後、さらに育児休暇中の彼女に対し、業務上のプレッシャーをかけ続けた執拗な連絡の記録。私自身の未払い残業代と退職妨害の証拠。
私は所定の体裁を整え、署に出向き、淡々と「処理」した。担当官の目が鋭くなったのを見て、私はこの勝負の勝ちを確信した。
もう一つは、法務のプロフェッショナルを通じた「内容証明郵便」の作成だ。
有給休暇を使い尽くす直前、私はその書類を会社に叩きつけた。辞職は一方的な意思表示であり、会社の承諾など不要。数学的に導き出された「自由」の獲得だ。
私が物理的に会社から消えた瞬間、蝕まれていたセキュリティの「崩壊」が表面化した。 栞がかつて指摘し、上司が「今は予算がない」と切り捨てた脆弱性。そこを突かれ、顧客情報の流出という、証券会社にとって致命的な事態が発生した。
皮肉なものだ。彼女をSEとして使い潰そうとした結果、彼女がその実力で支えていた防壁を失い、会社は最も守るべきものを失った。
さらなる連鎖反応が起きる。研究室の同僚たちが、次々と競業他社へと引き抜かれていった。
優秀な人間は、自分の価値を毀損する場所に留まるほど愚かではない。彼らは私に続いたのだ。
退職後、私は都心の静かなカフェで、かつての同僚から届くパニック状態の報告を眺めていた。
会社は火車となって、地獄に向かって加速している。株主への釈明、流出事件の事後対応、そして核心的な人材の流出。
「研究室の連中は、最低でも、他社から引き抜かれる程度には優秀だよ」
私は、隣でノートPCを開いている栞に向かって呟いた。
「自分の足で立つヤツは、最後まで会社から搾り取って、個人事務所を営むだろうさ。俺が、自分に不利なログを残さなくても、皆、自力でできる。……あの愚物揃いの管理職を除いてね」
栞を不当に扱い、私を脅した上層部。彼らは自分たちがどれほど恵まれたリソースを持っていたのか、失うまで理解できなかった。いや、失ってもなお、何が原因か分かっていないだろう。
今の私の懸念事項は、ただ一つ。 「退職金」が満額振り込まれるかどうかだ。
資産運用のシミュレーションを回せば、退職金など、今の私の資産ポートフォリオにおいては誤差の範囲内に過ぎない。数円単位の端数を気にするようなものだ。だが、これは金額の問題ではない。
「もう退職金など、誤差みたいなもんだけど、手切れ金として、けじめを付けたい。それだけのことだよ。栞」
栞は穏やかに微笑んで、黙って頷いた。
彼女は今、以前よりもずっと晴れやかな顔をしている。
「……峻、ラボの名前だけど、私の案を聴いて欲しいんだけど……」
彼女が画面を私に向けた。
「あなたが提案した『Osmose(オズモーズ)』も素敵だけど……あなたと私の『初夜』の翌朝、あなたが言ったこと、覚えてる?」
「確か、『長恨歌』の『比翼連理』の話をした……!」
「そう! その『比翼連理』をフランス語で訳した中で、一番気に入ったのがこれなの。『Ailes Conjuguées(エール・コンジュゲ)』。……峻、どう思う?」
私はその言葉の響きを脳内で反芻した。
「『結合された翼』、……『比翼の鳥』か!互いに対等なペアであり、一対でなければ飛べない。……それしかないよ!栞。素晴らしい!」
「……やったあ! じゃ、『Ailes Conjuguées』で決まりね!」
私たちの新しいアルゴリズムは、もう動き出している。
かつての泥沼のような組織をあとに、私たちは自分たちの翼で、誰も見たことのない高みへと跳躍する。その軌道計算には、一点の曇りもなかった。
……私たちは都市の喧噪を避けて、家族の理想郷に転居した。
どこかの会社が20年以上前に建てた、社長用の保養施設を格安で入手した。
……どうやってか?
栞のリサーチ能力と、サラリーマン時代の私のコネクションとが、うまくかみ合った結果、とだけお答えしておこう。
窓外に広がるのは、無機質なコンクリートではなく、風にそよぐ広葉樹のフラクタルだ。
脳内の演算を妨げる都市のノイズを排し、自然がもたらす調和が、私の思考を限界まで研ぎ澄ませ、栞のスイッチをより鮮明に切り替える。
専用の光回線(ダークファイバ)を直接引き込み、テスラのパワーウォールによる自家発電システムを完備。
この場所は単なる住居ではない。資産を秒単位で操作し、世界を観測するための、完全に独立した「要塞」である。
隣家とは数百メートルの距離。深い森に抱かれたこの地では、私たちの発するいかなる音も外に漏れることはない。
誰にも邪魔されないという絶対的な安心感が、栞の野生を解放し、私の独占欲を完成させる。
全面ガラス張りのリビングの向こうには、季節を映す森。そして地下には、完全防音と精密な温度管理がなされた私の書斎――二人だけの『特異点』がある。
ここが、私たちの新しい宇宙の中心ーー新生拠点「Ailes Conjuguées」だ。
その本丸は、投資そのものではなく「投資最適化AI」の自己進化にある。
市場は、私たちの仮説を検証し、アルゴリズムを研ぎ澄ませるための、巨大な砂場(サンドボックス)に過ぎない。
私がアーキテクチャを設計し、栞がその深淵に潜むバグを狩り、セキュリティの盾を構える。
この二重螺旋が、他者の追随を許さない堅牢なシステムを形成する。
実務はすべてAIが肩代わりし、私たちは「興が乗った時」だけ、知的な遊戯として数式を書き換える。
感情に支配された無謀な賭け(ギャンブル)はしない。
生活基盤となる預金は聖域として確保した上で、余剰資金の中から理論上の「最適解」のみを市場に投下する。
溶かすべきは時間ではなく、計算されたリスクだけだ。
AIのコア・ロジックは決して開示しない。この知能を欲する者には、機能を制限し、ブラックボックス化した状態での「利用権」を法外な価格で提供する。
私たちの知性は、寝ている間も高額なライセンス料という形で、口座の数字を書き換え続ける。
律(りつ)と澪(みお)を幼稚園へ送り届けた後、私たちのラボには、静謐で、それでいて暴力的なまでに濃密な時間が訪れる。
世の親たちが生計を立てるためにラッシュの渦へ飛び込む時間、私たちはただ、森の緑を反射する静かなリビングで、淹れたてのコーヒーの香りに包まれている。
生計に汲々とすることなど、今の私たちには無縁の話だ。
私たちが設計したAIは、私たちが眠っている間も、そして今こうして子供たちの将来について語らっている間も、淡々と、かつ冷徹に市場から利益を掠め取り続けている。
「……峻、今日は少しだけ、ボラティリティへの反応を鈍くしておいたわ。その方が、午後のティータイムを邪魔されなくて済むでしょう?」
栞が、いたずらっぽく微笑む。 かつて会社という組織にその翼を折られかけていた「クオンツの原石」は、今、私の隣で本物の「女神」として君臨している。
彼女を側に置きながら、その一挙手一投足を愛でない時間は、私にとって純然たる「損失」でしかない。
資産運用において機会損失を嫌う私が、彼女という最高位の資産(リソース)を前にして、一秒たりとも目を逸らすはずがないのだ。
驚くべきことに、彼女は歳をとらない。
いや、正確には「時間」という概念が彼女を素通りしているかのようにさえ見える。
肌の透明感、知性に裏打ちされた瞳の輝き、そして時折見せる女豹のようなしなやかさ。彼女は日々、昨日の自分を更新し、観測するたびに新しい魅力を増していく。
私は彼女の細い指先をとり、その柔らかな熱を確かめる。
子供たちを迎えにいくまでの数時間。
この「聖域」で、私は設計者としての重責を脱ぎ捨て、ただ一人の男として、最愛の女神を崇めるための贅沢な演算に没頭するのだ。
この作品はフィクションです。実在の人物、組織並びに団体と、一切の関係はありません。
