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比翼連理のアルゴリズム(2)完璧という言葉すら、彼の前では跪く。

第三章 非線形なアプローチ


 
栞は思うように水原に近付けなかった。近付く理由、大げさに言えば大義名分がなかったから。
それが彼女を縛っていた。
 
栞にとって水原の論文を読むことは、とても楽しいことだった。
(……! ……モノが違う! ……でも冷たくない。……優しい先生みたい。「できるまでやろう。栞ならできる! 」って言ってくれそう! ……そして、彼みたい。怖がりで愚痴まみれだったけど、その言葉から不安を全部捕まえて、すまし顔で「褒めて! 」と言った彼……水原さんは彼じゃない。でも、二人はとても似ている……)
栞の第一印象はそれだった。第一印象は裏切られることはなかった。
次々に論文を読破するたびに、どんどん鮮明に、そして強くなっていった。レポートがたとえ何千字、何万字あろうが、まったく苦にならなかった。
選び抜かれた言葉は簡潔にして要を得ていた。
緻密に練られた文章。
抑制された語りに秘められた情熱。
それらを紡ぎ出す基礎にある強固で堅牢な土台。
そして知識の膨大な蓄積。
それらを自在に操ってみせる才能。
瑕ひとつない、極限まで磨き抜かれ、研ぎ澄まされて――恐ろしいほどの光沢を放つ宝玉。
(――これこそ真の完璧。こんなの、見たことない。……いいえ、完璧という言葉すら、彼の前では跪く……)
――まるで名人芸だ。熟練した職人の極まった技巧とでもいうのか……。
彼の手にかかると、ただの糸だったものが刺繍――究極の美の体現に変わっていくように、栞には感じられた。
論文の中の彼は、決して「柴犬」などではない。
整った顔立ちをしたスマートな男、師父のような男。
(――だからこそ、追いかけたい。……どんなに短い時間でもいい。私の思いを伝えたい! )
気がかりなこともあった。
(――あのログ……心配だわ。水原さんに言わなきゃいけない。──神様! 側に行く理由をください! )
 
――汝、彼の者に会う理由を求むることなかれ。自ら逢え。しかして、己のすべてをかけ、彼の者を掴みとるべし――
 
――フラッシュバック。
決して語りたくない記憶。
思い出したくもない屈辱。
生臭い呼吸。
身体の内側の異物。
皮膚を一枚一枚削がれるような感覚。
 
(――もう止めて! ……私を離して! ……)
 
いつの間にか栞は幼女のように泣いていた。
 
澄みきった冬の空と海のような清冽さと、冬の陽のように優しい言葉が彼女を包んだ。
師父が語りかけてきた。
 
(……落ち着きましたか? もう一回、やってみましょう。大丈夫。あなたなら、きっとできる。だから、何回でも。……できるまで、やりましょう)
 
やがて、忘年会シーズンが来た。栞はスーツ姿、控え目な化粧で職場の忘年会に出席していた。
座を外したとき、偶然知る。――水原が同じホテルの別会場で、研究室の忘年会に出ている。栞の心臓が跳ねた。次の瞬間、彼女は「急に具合が悪くなった」と嘘をつき、会場を抜け出した。
 
近くのディスカウントストアに駆け込み、香水、口紅や髪留めを買いそろえた。忘年会場のホテルに戻り、必死にメイクを直した。鏡に映る顔に百パーセントの納得はなかった。首から下については、まったく納得していなかった。このようなときにまとうはずの装いではなかった――。
しかし、装いを理由にして、この好機を逃したくない。妥協するしかない。
ロビーの物陰で、彼を待つ。
やがて、水原が現れた。トイレから出てきて、ロビーのソファに腰を下ろす。無防備な横顔に、栞の胸が熱くなる。
(――今だ)
 
コツコツコツ――硬質な音がロビーに響いた。
長身の女が横切ったかと思うと、頭上から匂いと声が降ってきた。甘い香りと甘い声。
「水原さん? 」
頭を上げると、真鍋栞だった。SEのラフなスタイルではなく、正装していた。いつも無造作に束ねて後ろに垂らすだけの長髪を、今日は黒々と結い上げていた。しかし、一部にほつれが見えた。そして、息が切れている。彼女の呼吸音がはっきりと聞こえた。
水原は思わず立ち上がった。黒いエナメルの光沢を放つハイヒール。それを履いた彼女の視線を受けるためには、身長一七七センチメートルの彼はほんの少しだが視線を上げなければならなかった。その瞳の奥に、切迫した真剣さと安堵が同居しているのを見て、息を呑む。胸がざわめく。
栞は微笑んだ。
「水原さんもここで忘年会だったのですか? 」
「はい」
そう答えて、彼は自分の左側の席を手で示した。栞は静かに腰を下ろし、背筋を伸ばしてまっすぐに水原を見た。アルコールのせいか、彼女の目は潤んでいた。
 
水原は当たり障りのない話題から入った。
「OSアップデートのときは、お手を煩わせて申し訳ありませんでした。取説をよく読んだら、なるほどよく練られ、分かりやすく内容に過不足ありませんでした。読み手のことをよく考えているレイアウトとテキストでした。私が知ったかぶりをして、あのようなことになり、本当に面目ない」
「ありがとうございます。あの取説は私の自信作です。誉めていただいて嬉しいです」
栞はそう返し、いきなり本題に入ってきた。
「水原さん、以前、面白いそうなものを作成されていますよね? しばらく更新が止まってたけど、再開されたようですが……」
水原は心臓を掴まれるような気がしたが、表情は崩さない。
「ログをご覧になったのですか。あれは……その私のアイデアをまとめたというか……そう設計図です」
栞の瞳がわずかに煌めく。水原は衝動に駆られた。
(――試してみよう)
 
「例えば、そうですね。企業の匿名化された非財務データから、特定の大口取引先を、非線形最適化で特定しようとしたら? 」
栞は即答した。
「その匿名化データには、必ず量子耐性暗号を施すべきです。そして、局所解を避けるために、ハッシュ関数に疑似乱数を混ぜて、データの『ゆらぎ』を意図的に与えます。それがなければ、特定のリバースエンジニアリングで復元可能になる」
完璧だった。他の問いに対する答えもパーフェクト。
最後に、彼が新人時代に最優秀職員として表彰されるきっかけになった、あの難問を投げてみた。
栞は溜息をついて、こう言った。
「水原さん、ごめんなさい。正直に言います。実は、水原さんの書いたレポートを、アーカイブで読んだだけです。一応、保存されているものは全て。今までの回答は、そこに書かれていたことをトレースしただけ」
 
水原は優しく返した。
「全部目を通すのは大変だったでしょう。……真鍋さんはすべて自分の言葉で答えました。正直に打ち明けてくれなければ、自分がトレースされていたなんて全然分かりませんでした。『理解して使いこなしている』としか思えませんでしたよ。……こういう機会は滅多にないから……私のレポートを読んだ感想を教えていただけませんか? 」
栞は簡潔に答えた。
「純粋、強さ、そして美しさ」
水原は「何ですか? それは」と聞くしかなかった。
栞は言う。
「最初に読んだとき、私には設問の意味すら理解できませんでした」
そしてこう続けた。
「水原さんの考察からは、まず純粋なもの、そう探究心のようなものかしら、それを感じました。労力をまったく惜しまず、むしろ楽しそうに取り組んでいるかのよう」
「壁にぶつかっても決して諦めない強さ。力みではありません。それよりも応援、励ましのような、魂を鼓舞するというか。落ち込んでいるときに読むと、元気になるんです」
「あと、解が美しいのです。誰にでも分かる、無駄のない、数学的な鮮やかさ、あるいはエレガンスとでも言うのでしょうか」
 
栞の言葉はまだまだ続きそうだった。
水原は彼女がフレーズを言い終えたあとの間を捉えて、話題を変えた。
「真鍋さん、大学で金融工学を? 」
栞は微笑む。
「はい。専攻していました。本当はSEじゃなくて、研究室に行きたかった」
 
水原は穏やかに伝えた。
「私の知る限り、研究室に真鍋さんより優秀な職員はほとんど居ないと思います」
栞は頬を緩める。
「本当ですか? お世辞でも嬉しい」
水原は励まさずにはいられなかった。
「お世辞じゃないですよ。学んだことを操れるかどうかが問題です。真鍋さんはそれを今、やってみせたじゃないですか。それに私だって、OSアップデートに失敗したし、セキュリティのことはド素人ですよ。完璧とは対極の人間です」
 
栞は少しひがんだように言った。
「でも、私、修士になれませんでした。それに背が高過ぎます」
水原は首を左右に振った。
「博士でも見掛け倒しはいくらでも居ます。実力を証明できるか否かにかかっていると思います。肩書きや年齢ではなく、有能な人間がイニシアチブをとる方がいいのです。もちろん、相手に相応の礼を尽くすことは必要です。それをしないと不毛なマウント合戦が起きてしまう。そういう無意味な争いは大嫌いです……。それに身長と能力に何の因果があるというのですか? 」
そして、思わず口をついて出た。
「高身長の女性、結構じゃないですか。手足が長くて見映えがするし、ハイヒールがよく似合って、本当にかっこいいですよ」
一瞬の沈黙。水原は小さく、ほとんど無意識に呟いた。
「――プラス、チャーミング」
 
(しまった! )
栞は聞き逃していなかった。上目遣いで、甘く問い掛ける。
「ん? よく聞こえませんでしたが、何か仰いました? 」
水原は観念した。
「はい、チャーミングと言いました。感じたまま、思ったままを言いました」
栞はみるみるうちに耳まで真っ赤になった。壊れたように、感情だけが口をついて出る。
「え? 私、困ります……どうしよう、どうしたらいいんですか? ……私をどうしたいんですか? 」
水原は苦笑した。
「そんなこと言われても、困りますよ。真鍋さん、落ち着いてください」
そして、観念したかのように言葉を重ねる。
「間違いありません。真鍋さんはとてもチャーミングですよ」
そのとき、水原は見た。栞の唇がプルプルと震えている。
(――何かを言いたいのを必死にこらえている。うれしくて仕方なくて、暴走してしまうことを恐れている)
水原はかつて三毛猫が彼の両足の間をくるくる回りながら、身体を擦り付けて、愛嬌を振りまいていた時のことを思い出した。彼女への気持ちは何やら、あの時胸を締め付けられた感覚に似ているようだった。
(……あっ! )
水原の脳裏にある言葉が浮かんだ。
 
(「……セキュリティの問題なら、セキュリティ課に聞いてこいよ。あちらさん、専門家だぞ」)
 
栞は魂レベルで共鳴を感じた相手、水原からの労い、承認、賞賛、そして全肯定の言葉をもらい、さらに「チャーミング」とまで言われて、嬉しさのあまりすっかり有頂天になっていた。
完全に陶酔し、舞い上がってしまった。
ひとしきり至福を味わった後、残ったものがある。
まずは渇きだった。
(どうすれば、何をすれば、さっき以上に褒めてもらえる? もっと欲しい! ! お願い、もっともっともっと私を褒めて! )
次は決意だった。
(今度は間違えない。誰から何と言われても、欲しいものは掴んで決して離さない! )
大きくて強い感情が、今までの水原に対する気持ち――尊敬、共鳴と心配を呑み込んで溢れてきた。
彼女の中でスイッチが入った。
 
やがて、ロビーに忘年会会場の喧噪が漏れてきた。
「あれ? 水原が居ないぞ」「トイレだろ」「誰か呼んでこい」等の声が聞こえてきた。
忘年会のお開きが迫っていた。もはやためらっている時間はない。
一旦、更新を止め冷却期間を設けたことで、例の人工知能の設計図は具体的な形を備えつつあった。それについて、栞に話を聴いて欲しい衝動が理性を超えた。
「忘年会がもう少しでお開きになります。私は一度、会場に戻ります。八時四五分頃、このホテルを出て左側を進んだところにあるコンビニで待ち合わせましょう。九時頃から十時頃まで、一時間だけ付き合ってくれませんか? くれぐれも、あなた一人で来て欲しい」
栞は目を大きく開け、直ぐに頷いた。――水原には頷くまでの刹那が永遠に思えた。