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比翼連理のアルゴリズム(3)境界防御(ペリメータ)の突破

第四章 共犯者たちの最適解(オプティマイゼーション)

ふたりは約束通り待ち合わせ、少し歩いた。栞は水原の少し後ろからついてきた。ハイヒールの音が少し神経質に聞こえた。ためらいながら歩を運んでいる感じ。
水原は栞を今だけは逃がしたくなかったので、振り返って告げた。「あのカフェにしましょう」と。
栞の顔には、拍子抜けと安堵が交錯していた。靴音も落ち着きを取り戻した。
店内の隅のボックス席に隣り合って座った。店内の照明は時刻に合わせて、暗めのオレンジ色に統一されている。
コーヒーを頼んだ後、すぐに顔を寄せ、ほとんど声にならぬほどのひそめ声で、水原は切り出した。
 
「実は、聞いて欲しいことがあります。あくまで頭のお遊びとして聞いて欲しい」
前置きをして、水原は自身の思いつきと、密かに育成してきたアルゴリズムの設計図の全てを、タブレットに映して栞に語った。
端から見れば、目を輝かせ、顔を寄せ合い、夢中になって言葉を交わし合うふたりは、仲睦まじい恋人同士だった。しかし彼らの会話は、企業の生命線となるデータの保護と、外部からの監視・ハッキングからの逃走経路についてだった。
水原は最後に付け加えた。
「真鍋さんの意見を聞きたい。この機密プロトコルの最善のオプティマイゼーション(最適解)が欲しい」
 
栞は椅子に背をもたれ、沈黙した。
水原は心の中で落胆した。
(やらかしてしまったか。企業倫理に反すると言われれば返す言葉がない。嫌われたかな)
次の瞬間、栞は再び彼に顔を近づけた。悪戯っぽく、しかし真剣な瞳。喉に手をやり呼吸を整えるような仕草を見せた後、彼女はこう言った。
「……水原さん、ひょっとして私に軽蔑されたと思いました? 」
水原が驚いて顔を上げると、彼女は困ったように眉を下げて微笑んだ。
「今の不安げな表情……実家のデコそっくり」
「デコ? 」
「私の実家で飼われている柴犬です。叱られて凹んだとき、ちょうどそんな顔をするんです。そういう時、私……無性に甘やかしたくなってしまうんですよね」
栞はデコの写真をスマホで見せた。
水原は(あなたの実家で飼われている柴犬と一緒にしないでくれ)と少しいじけて、目を逸らした。
すると、彼の手の甲に温かく滑らかなものがそっと触れた。栞の右掌だった。
「ごめんなさい。反応が可愛くて、つい意地悪を言いました」
 
栞は水原の拗ねる顔が愛おしくて堪らなかった。いっそ食べようかと思うほどだった。
しかし、ここは「然るべき場所」ではない。自重しなければいけないところだ。
彼女は本題に戻り、いつものように理知的に念を押した。
「あくまで最高の防御策を考えるお遊び、ということですよね? 」
水原が頷くと、彼女はフッと目を細め、声のトーンを一段落とした。
「なら、徹底的にやりましょうか」
 
その後、栞が水原に話したことは要するにこういうことだ。
 
水原さんのセキュリティのやり方には、致命的な隙がある。
 
まず、データを守る「鍵」の管理が甘すぎる。今は大丈夫でも、将来、もっと高性能なコンピューター(量子コンピューター)が出てきたら、その鍵は簡単に破られてしまう。あなたは会社の正面の防御壁を固めることばかり考えているけど、裏口(バックドア)が無防備に開いたままよ。もし悪意のある第三者や、あなたを支配したい上司のような「管理者」に目をつけられたら、そこから簡単に入られてしまうわ。
 
次に、記録(監査ログ)を取りすぎているのが問題。 あなたは全部の動きを完璧に記録しようとしているけど、それは「頑張りすぎ」よ。完璧すぎる記録パターンは、逆に「監視する側」に手の内を読まれてしまうわ。機密を守るためには、「私たちが普段通り動いている」という演技、つまり「普通のふり」が必要不可欠なの。
 
だから、防御策として、こうするべき。
 
「ノイズ」の中に本物を隠す。重要なデータにアクセスするときは、同時に無数のダミーの通信を大量に発生させるの。監視システムは「異常な量の通信」や「決まったパターン」を探しているから、本物のシグナルを大量のガラクタ通信の中に紛れ込ませて、かき消してしまうのが最も効果的。
 
「人間的な不完全さ」を演じる。データ処理の完了時間や操作のタイミングを、わざと〇.五秒から二秒の間でランダムにズラす。プログラムによる完璧な同期ではなく、「優秀だけど、たまにミスをする人間」の操作に見せかける。監査アルゴリズムは完璧なロジックを追うものだから、「ちょっと不完全な人間」を演じることで、監視の網から外れる確率が格段に高くなるわ。
 
水原は、その美しく危険な情報の最適解(ソリューション)に、抗いがたく魅入られた。
「真鍋さん……さっきの言葉は訂正する。あなた以上に優秀な人は研究室には居ません」
 
水原が白旗を上げると、栞はふっと表情を緩め、安堵と喜びが混じったような、年相応の女性の顔に戻った。
「……よかった。やっと認めてくれた」
 
「でも、この会社の極秘情報を、私に話したのは違法な情報漏洩です。私、通報すべき立場なんですが……」
彼女は楽しそうに、しかしどこか切羽詰まったように言った。
「どうしよう。共犯になっちゃいましたね」
栞は少し身を乗り出し、吐息がかかる距離で囁いた。
「あなたは最高の金融工学を考えただけ。私は最高のセキュリティを助言しただけ」
一瞬の間を置いて彼女は言った。
 
「私たちふたりの、秘密ね。……峻」
 
栞は、初めて彼の名前を呼び捨てにした。
その呼び方は、親密さを超えた宣誓のように水原の耳に響いた。


第五章 境界防御(ペリメータ)の突破


 
夜十時前、カフェを出たあと、見えない磁力に引っ張られるようにふたりは歩いた。
「私、セキュリティ課の歓送迎会や忘年会のときには、『タペストリー』に泊まるんです。清潔でおしゃれでお気に入りなんです。宿泊料高めだけど、好きだから奮発してでも泊まる価値、ありますよ! シングルの部屋は気楽で落ち着きます。でも、ダブルに泊まったことないの……」と言って、栞はまた耳まで赤くなった。
峻は栞のことを面白がっていた。
(赤くなったりSっ気お姉さんになったり、本当に忙しい人だ。この人は)
本当は、栞に魅了されていた。それを素直に認められなかった。惹かれすぎて怖くなっていた。
一方、「罠ではないか」という一抹の不安――恐怖も感じていた。
(しかし、ハニートラップをしかけるために、対象者の論文をすべて読破し、理解して使いこなすレベルにまで到達する必要はない。……彼女は本当に俺に好意を持っているのか? ……決断を下すのは、最後の最後でよい。……何より彼女をもっとよく観察してから決定しても遅くはない)
彼の心は逃げることよりも、一緒に居ることに傾斜しがちであった。
 
「今日は金曜だから、予約は大変だったでしょう」
「シングルだから。……ねえ、峻、運試しをしない? 」
「運試し? 」
「峻の名前で、『タペストリー』のダブルをとってよ」
「金曜の当日夜に『タペストリー』のダブルを? 確率が低すぎます」
「やってみなきゃ分からないよ。それに宿泊料高めだし……」
そう言っているうちに、ビジネスホテル「タペストリー」に着いた。
栞は既にチェックインしているので、エントランスのソファに座って、フロントの様子を眺めていた。
 
ビジネスホテル「タペストリー」―――廃カトリック修道院の内装を存分に活かした設計らしい。
正面玄関から入ると、礼拝堂をイメージしたホールに入った。ステンドグラスと巨大なタペストリーがあった。
ステンドグラスは色彩に安定した深みと温かみを与え、礼拝堂の歴史的重厚感を活かし、静謐で高級なロビー空間を演出していた。
ロビーの低いダウンライトが、石造りの壁のわずかな凹凸に影を落とし、荘厳さを増している。
タペストリーには、古代の天体運行図と二羽の鳥が螺旋状に飛翔するモチーフが緻密に織り込まれ、精巧にして重厚なものだった。ボーダーには、カトリック修道院らしく荘厳なゴシック様式の装飾が施されていた。
分厚い絨毯に足音が吸い込まれ、ホール全体が修道院のような静けさに包まれていた。
 
峻がホテルマンに何か言っている。のけぞる峻。流れ作業のようなチェックインとクレジットカード決済。
栞、ソファから身を乗り出す。
(え? ……どういうこと? ……これって……まさか)
彼はそのまま知らぬ顔をしてエレベーターホールに向かう。栞が追う。ふたりでエレベーターを待つ。上昇ボタンを押す峻。
「峻? 」
「空いてた」
「え? 」
「だから、空いてました。七階の七一九号室。やってみないと分からないって本当だね」
「――神様」
「え? 」
エレベーターが下りてきたのでふたりで乗る。
「真鍋さんは何階なの? 」
「八階。八〇六号室」
(部屋番号は余計だよ。……ん、俺も部屋番号、言ったな)
峻、七階と八階のボタンを押す。上昇するエレベーター。先に下りる峻。
 
夜十一時少し前、八〇六号室のドアから、女の影が忍び出た。
彼女は裸体の上に、そのままルームウェアを着ていた。
 
夜十一過ぎ、七一九号室のドアがノックされた。
そのとき峻はルームウェア姿で、シャワー後の熱を冷ましていた。枕元のコントローラーで、照明の明るさやモードを無意識に切り替えていた。
(誰? ……真鍋さん? ……性急過ぎる)
ドアに近付き、「どなた? 」と返すと、「栞……真鍋です」と返事があった。
七一九号室に彼女は招き入れられた。
栞の髪は解かれていた。後ろでまとめただけのシンプルなスタイルに戻っていた。薄く化粧し、石鹸の匂いを漂わせていた。
(真鍋さん、さっきより熱っぽくないか? それに表情が硬いような……)
栞は部屋に入ると、まっすぐベッドへと向かい、照明のスイッチに近いところに席を占め、そのまま、そこから動こうとしなかった。
彼女は電源を乱雑に数回操作して、照明とスイッチの連動をチェックした。そして、メインルームの照明だけを残し、周囲の余計な明るさをすべて消し去ると、残った照明の明度も暗めに絞り込んだ。
彼女のまとう雰囲気、熱量と意図的な位置取り。
峻は何となく察するところがあった。彼は黙ったまま、栞の右隣、少し距離をとって座った。