比翼連理のアルゴリズム(4)比翼連理のアルゴリズム
「真鍋さん、まだ例の話を? 」
「いいえ、違います。……峻、ダブルがとれなかったらどうしたの? 」
「社宅に帰ったと思いますよ」
「峻さえよければ、私のシングルがあります」
「真鍋さんの部屋に私が泊まるのですか? シングルでは狭すぎますよ。一方が床かバスルームで寝ることになります。フロントに頼んで毛布か何かを持って来てもらわないと」
「峻、あなたの噂について教えて欲しい」
「私の噂? 」
「孤立がちと聞きました。でも、今日の忘年会の様子では、そのようには感じられなかった。……そう言えばOSエラーのときも、ふたりに挟まれて何か言われてた……『取説読んだのか』とか『抜け作ですね』とか」
栞は少し笑った。
(よかった……笑ってくれた)「ええ、あのふたりは席が隣同士で、仕事の合間に雑談もしています」
「孤立していないの? 」
「定義が曖昧だから明確には答えられない。個人的には孤立していないと思っています」
「責任感、決断力と実行力が特に優れているとか、優しい性格で物わかりはいいけれど、優柔不断とはまったく違うということは? 」
「他人が私を評価しているので、何とも……。それを答える立場にないというか。それはいい意味で言われていることですか? 」
「そうだと思います。少なくとも私はそう思っています。――そして、『彼女は居たけど、うまくいかなかったらしい』という噂は? 」
「教えないと駄目? 」
「知りたい」
「真剣に付き合って、親密な関係になった女性はふたり、居ました。でも、私にはもったいない女性だったり、無神経な発言で傷つけてしまったり、結局は別れてしまいました。それ以来、何となく怖くて……。男女ってそういうもんなのかなと思っています」
「知り合った切掛は? 」
「大学の後輩の女性と、研究室に居た女性です」
話は途切れた。
栞は視線を床に落とし、過去の影をにじませながら、熱にうかされたように唇を噛むようにして言葉を絞り出した。
「あの……峻。私ばっかりあなたのこと聴いてるでしょう? あなたは、私に何も聴きたいことはないの? ……例えば、私の元カレとか……そういうのには、触れないでいいの? 」
峻は即座に答えた。
「そういうのは関係ありません。今のあなたが最重要」
「そういう言い方~! 私の過去が関係ない? 今の言い方、気に入らない。言い直して」
栞は両手で顔を覆いすねてみせた。指の間から峻の顔を伺った。
二回目の答えもすぐに返ってきた。
「今の君がクリーンなら、それ以上、何も要らないよ」
「条件付きなの? 気に入らない。もう一回だけチャンスをあげる。言い直して」
(一回だけなんてウソ、私の気に入ったリプするまで無限ループ! チャンスは無限大よ! )
(この尋問の流れはまずい。「愛の言葉」を言わせたいのは間違いない。今ここで性急に言う言葉なのか? ――まずは、真鍋さんに満足してもらえそうな答えを。ヒントはないか、何かヒントは――OSエラー、ログ解析、機密プロトコル、セキュリティ助言、共犯と運試し。――俯瞰しろ、俯瞰でみたならば――あっ! ――栞の軌跡は一直線だ。俺に向かって一直線だ! 栞の行動はすべて、俺のプロジェクトの脆弱性を埋め、守るというロジックで貫かれている! ――)
栞の「言い直して」という素直な要求は、彼の凍りついた心を溶かした。
意図しない言葉の刃、それに対する恐れが、いつの間にか峻から消えていた。
峻は三回目の回答を、栞に向かい、やや芝居がかった口調で告げた。
「真っ直ぐな美しさ。唯一無二の美しさ」
(もっと! ×無限! )
「栞以上の人はこの世に居ない」
(愛! ! ! ×無限大! ! ! )
栞の全身が、強烈な歓喜に震えた。彼女の顔は羞恥心で真っ赤に染まった。
「初めからそう言ってよ! ! ……もうっ! ! 」
峻が何かを言いかけたとき、栞は身を翻し、右手をなぎ払った。
その指先は正確に照明のスイッチを切った。
バチッ。
音と同時に闇になった。
峻の理性は狼狽した。
(この展開は違う! 尋問が終わればそれでよかったのに! )
(ふふふ……愛を告白したから……もう逃がさない……手のかかる抜け作くん……今からたっぷりおしおきしちゃうんだから……)
音もなく猫のような影がよぎった。
熱い空気が動き、甘く、微かに酸味を帯びた香りが、闇を破るように押し寄せた。
影は峻の左後ろに留まっていた。
その闇と静寂の中、呼吸音がはっきり聞こえる。
「ヒュッ、フゥ……、フゥ……」
わずかな衣擦れの音と、布が落ちたような極めて微かな音。
ベッドがたわむごとに猫の影がにじり寄ってくる。
さっきの匂いがさらに強くなった。
峻は振り返った。
闇に慣れた彼の視覚は、伸びをする猫のような、女の引き締まった裸体――腰から下のラインを捉えた。
女の素肌付近の空気が揺らいでいるように見えた。
(――陽炎)
視線を腰から上へ。上体を起こしつつある栞と、目が合った。
(パチッ)
静電気が走るような音。峻の耳だけに響いた音。
暗所で全開になった栞の瞳。それは獲物を前にした猫そのものだった。
直接、熱を帯びた素肌の温度が、「ハァ、ハァ、ハッ」という荒く熱い息とともに峻の肌に触れた。
峻の視界は一度閉ざされ、再び開いた。そして、彼の唇は温かいもので塞がれた。
口腔はミント系の香りと熱っぽい呼気で満たされた。
あの三毛猫。リズミカルに呼吸する肉体、その体温そして抗いがたい愛らしさ――それが峻の脳裏に甦った。
(有能な人間がイニシアチブをとる方がいいのです)
峻は自分が栞に語った言葉を思い出した。
栞の両腕が峻の素肌に巻き付いたとき、彼は朽ち果てた木よりも脆く屈した。
そして――峻も獣になった。
第六章 比翼連理のアルゴリズム
翌朝、峻が目覚めたとき、無意識に「……比翼連理」と呟いた。
栞の声が左側から囁いた。気怠げで間延びした調子。
「……ひよくれんり? ねえ、そのお話して欲しい……」
幼子に絵本を読み聞かせる父親のように、峻は話し始めた。
「むかしむかしのお話。あるところに優秀な帝が居ました。三十年以上の間、国を平和に治めました」
「帝が六十歳になったとき、自分の子供の妃に心を奪われました。そして、帝は子供から妃を取り上げ、自分の妃にしてしまいました。その妃はそのとき二六歳程。世界史の教科書では、彼女は楊貴妃と呼ばれ、帝は『唐の玄宗』と呼ばれています」
「その頃の美女の条件は豊満であることでした。絵を見たとき、豊満と言うより肥満寄りに見えました」
「ふたりは恋に落ち、悦びに満ちた生活をしていましたが、次第に帝は政治を疎かにするようになりました。やがて国中に怨みの声が満ち、国中を揺るがす大きな反乱が起こりました。ふたりは供回りの者と近衛兵を連れて、山奥に逃げました」
「近衛兵は『このようなことになったのは、楊貴妃が陛下を惑わし、政治を疎かにさせたからだ』と強く怒り、前進の命令を拒みました。あろうことか、妃を殺すように、帝に迫ったのです」
「帝はそれだけは絶対にできないと拒みました。しかし、家来の一人が御前に進み出て、『陛下のお命を守るためには、妃を生かしておく訳には参りません。いま、近衛兵は妃に怒りを向けておりますが、いまのままでは陛下に怒りが向かいますぞ。ここは決断のときです。何卒何卒……』と諫め、そして妃に死を賜うよう懇請しました。帝は未練絶ちがたく懊悩されましたが、もはやどうすることもできないと悟り、妃を縊り殺させました。帝は七一歳、楊貴妃は三七歳くらいだったそうです」
「このふたりのロマンスを『長恨歌』という作品にした人が居ました。『比翼連理』という四字熟語はその作品の中に、『天に在りては願わくは比翼の鳥と作らん、地に在りては願わくは連理の枝と為らん。』として登場します」
峻はお話をここで一度切った。
栞は瞳で続きを促した。
「『比翼連理』という言葉は、二つに分かれます。まず『比翼』。『比較する』『比べる』の『比』、鳥の翼の『翼』と書きます。『比翼』は目と翼を左右片方しか持たない鳥を意味しています。二羽で一緒にならないと空を飛べません」
「次に『連理』ですが、『連続する』の『連』と『理系』の『理』と書きます。これは元々二本の別々の枝だったものが、絡み合い固く結びついて一本の枝になった様を指します」
「『比翼連理』は仲睦まじい夫婦や恋人の様を指す意味で定着しました」
「分かったかね? 栞くん」
――と峻は話を締めくくった。
栞は子供のような声音で「はーい、よく分かりました」と言い、ニッと笑った。そしてこう言った。
「確かに今、私は二六歳。でも、峻はお爺ちゃんじゃないし、私はバツイチでもないし。……それに肥ってなかったでしょ? ……ねえ、峻」
わずかに乱れた呼吸を整え、峻は彼女の髪に触れたまま問いかけた。
「例のアレをどうしようか」
「比翼連理の意味だけ採用して、他は不採用でいいと思う」
「いささか惜しい気がする」
栞は目を細めた。
「峻のアルゴリズムは、私のセキュリティと一緒になって初めて空を飛べる。これが比翼。そして、共犯者として、私たちはもう離れられない。これが連理」
「『共犯者』を、『共同研究者』に修正願います」
「え? 」
「一旦すべてをまっさらにして、昨夜のディスカッションを元に、また違うものを作る。今度は研究室の公式のものとして。栞の助言が必要になる」
「……! 」
「比翼連理の意味だけ採用します」
「解説をして欲しいです」
「これからもよろしくお願いします。末長く」
「もう一回言って」
「何度でも」
「なら百回」
【エピローグ】
その後のお話ですか?
そんなこと、おとぎ話の結末は決まっております。
その後ふたりは結婚し、子供も産まれ、比翼連理の誓いのとおり、末永く仲良く幸せに暮らしましたとさ。
―――おや、雨が上がったようですよ。姫様。
