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比翼連理のアルゴリズム(5)スーパーダーリンとリアル女神の傷痕

おとぎ話では、敢えて語られなかったことを次のとおり補足する。

補足一 水原峻の過去について


特筆するべきは次のふたりである。
(一)一人目
交際終了は「『タペストリー』での出来事」の約八年前である。
彼女はスキンシップと明るさで親しみを深めるタイプだった。彼の大学在籍中の後輩である。
女性としての魅力にも富んでおり、峻は彼女に魅了された。
しかし、親密になるほどに彼女との会話に物足りなさを覚えるようになる。
そのようなとき、彼女が他の男と腕を組み、街中を親しげに歩いているところを何度か目撃した。
その出来事は、峻に彼女への「強烈な不信感」と「不可逆的な失望」をもたらした。
彼女は峻に対し、変わらず接してくるが、峻にはそれが極めて不潔に思えて、耐えがたくなった。
可憐な乙女が徐々に腐り、腐乱死体に成り果てるようなイメージが、峻を捉えて放さなかった。
彼は嘘がつけない。彼女への不快感を隠さなかった。
「彼女が二股していたのかどうか」については、真偽不明。探偵を雇って調べたわけでもない。
彼女は無邪気に、彼の地雷を盛大に踏み抜いてしまった――ただ、それだけのことだったのかもしれない。
周囲は彼女の一件について、「二股があったか否か、当事者しか知らないこと」という前置きの後、「藤城 薫(ふじしろ かおる)ならやったとしても誰も驚かないですよ」と評した。
峻は薫を「私にはもったいない女性」と評した。それは、彼なりの精一杯の思いやりであった。
(二)二人目
交際終了は「『タペストリー』での出来事」の四年程前。彼女は研究室の臨時職員だった。
とても健気で誠実な女性で、峻に手作りの弁当を作る等、彼女は彼に尽くしていた。
彼も彼女をとても大切に思っていた。会話の物足りなさはまったく問題ではなかった。
聡明で視野の広い、行き届いた女性であった。理知的に輝く瞳を持っていた。
彼女こそ、峻にとって真の比翼連理だった。絶対に手放してはいけない人だった。
研究室の同僚達は「水原と清川さんの結婚は秒読みだ」「披露宴の余興は何をしようか」等々、楽しみにし、温かく見守っていた。
あるとき彼が不用意な発言をしてしまう。そこに悪意はまったくなかった。
――不用意。そんなことは後になってからしか分からない。
「灯織(ほのり)、そんなに凝った弁当でなくても、かまわないよ。俺に好き嫌いはないから、凝りすぎないで」と。
彼は偽りのない善意、思いやりでそう言った。
灯織はそう解釈しなかった。彼への真摯な想い、努力そして彼女自身の否定だと解釈した。
そうした齟齬が埃のように積もっていった。
――別れは唐突だった。峻は彼女を失いたくなかったが、すでに灯織の心は離れていた。
彼はどうすることもできず、彼女の決断を止めることができなかった。
峻は灯織について、「自分の無神経さのせいで傷つけてしまった」と述べた。
灯織との間に起こったことは、彼に拭いがたい自己嫌悪をもたらした。
 

補足二 真鍋栞の過去について


特筆すべきことは次の二つの出来事。
(一)一つ目
「『タペストリー』での出来事」のおよそ九年前である。
当時の交際相手は、誠実で魅力溢れる人だった。
弱音をこぼすところがあったが、嫌いになる理由としては些細なことであった。
むしろ、弱音をこぼすときほど、新悟(しんご)は成果を出す人だった。
彼の出した成果には誰もが沈黙する。
栞にとって、新悟の愚痴はとても可愛らしいものだった。
彼は怖がりで弱い面を栞に見せた。その表情は不安一色だ。
しかし、結果だけ見れば、怯えや動揺など一切なかったかのように、彼の軌跡は真っ直ぐだった。
この人との交際が順調に進んでいたならば、峻に心惹かれることはなかっただろう。
そのふたりの交際を見ていた教師が、「浅沼と真鍋は、本当にノミの夫婦だな」と揶揄してしまう。この揶揄にも悪意はなかった。仲睦まじいふたりを、ただからかっただけの他愛ない一言。
――その言葉は彼女の心に亀裂を走らせた。
(私、そういうふうに見られてたの? )
そのとき新悟は、自らの進学の重大な岐路に立たされていた。栞の心の奥まで彼の視線は届かなかった。
栞は独りポツンと寂寥の中に立っているような気持ちがした。
栞は新悟と同じ大学に進学できなかった。距離が生じた。そして、ふたりは別れた。
「不幸な籤」……としか言いようのない出来事だった。
(二)二つ目
「『タペストリー』での出来事」のだいたい三年前である。
彼は会社の同期だった。彼は魅力に富んだ人だった。――表面的には。
しかし、親密さを増すに連れ、彼女にとってひっかかる発言が多くなった。
「あなたが承諾してくれるなら、ハイヒールを履かないで欲しい」
「物足りなさそうな表情を浮かべられると傷つく」等々の発言。
表面上の優しさを装って、真綿のように彼女を束縛しようとする姿勢。
そういうものに、彼女は強い嫌悪感を持った。そのようなことが積み重なった。
栞は彼――高月 涼(たかつき りょう)に対し不快感しか覚えなくなった。
肌を合わせたことについて、激しい自己嫌悪が湧き上がってきた。
まるで、全身を流れる血のすべてが腐り、どろどろになって異臭を放つような感覚とともに。
彼女から、男に別れを切り出した。
その言葉に対する男の言葉。
「そう。仕方ないね。いいよ。俺は、別にそこまで真剣でもなかったし」
ただの強がりだった。
もはや、そんなことはどうでもよかった。
ガワだけの男。
男の発言の意図――そう、エゴイズムとかコンプレックスとか、そういうことを考える価値すらない男。
栞にはそうとしか思えなかった。
――筆者は次の言葉で彼を弁護したい。
「高月さんを非難できる人間、特に男性はこの世に存在しません。私は強くそう信じるものです。彼の発言の理由、動機の根はすべて、『彼女を自分の手の届くところに留めたかった』ということ。ただ、それだけでした」
しかし、そんな弁護の有無やその内容の正否など、どちらであっても栞にとっては同じこと。
またしても、栞は「不幸な籤」を引いてしまった。
 

補足三 「タペストリー」での出来事について


カフェを出た時点で、峻は栞への心理的な抵抗力をほとんど失っていた。
そして、七一九号室をとれた時点で、物理的にも完全な「詰み」の状態になった。
限りなくゼロに近い確率のはずだった。しかし、ダブルの部屋が空いていたのだ。
本人は「虚を突かれるように、反射的に」チェックインしてしまっていたと思っている。
――たとえ空いていたとして、それを掴むか掴まないかは峻の判断にかかっていた。そうでしょう?
実際は「魅入られるように」ではないか? ……それとも、無意識に「甘美な死」を選び取ったのではないか?
当夜二三時過ぎ、彼は栞を不用意に部屋に招き入れてしまう。
根拠無き楽観。正常性バイアス。あるいは現実逃避かも知れない。
(自分だけは大丈夫……まさか、今夜のうちに一線を越えることはないだろう)
この判断の甘さが何をもたらしたのか、ご覧いただいたとおりである。察したとき、既に手遅れだった。
栞は率直に気に入らない言葉にダメ出しをした。とうとう峻は三回目の回答で、芝居じみた言い方を使って、論理的な――天邪鬼な愛の告白をした。
彼女を言葉で満足させ、速やかに尋問を終わらせ、八〇六号室にお帰り願いたかったからだ。――理性ではね。
当然のことながら、そんな小細工が栞に伝わるはずもなく、彼女は「不器用ながらも、彼なりに精一杯の告白をしてくれた」と純粋に受け止めた。
つまり、昂ぶった捕食者を煽っただけだった。――峻の本心は敢えて煽ることを選んだのではないか?
この出来事の結果、栞は峻を掴み取り、峻も栞を掴み取った。
どれほど御膳立てが整っていたとしても、掴み取らなければ、それは現象。掴みとったならば、それこそが奇跡。
「タペストリー」の出来事――「奇跡の籤」とでも言えばよいだろうか。

(完)


登場人物


 
水原 峻(みずはら しゅん)
(真鍋栞から見て)
――完璧という言葉すら、彼の前では跪く――明晰な頭脳を持つ金融工学の専門家。証券会社の研究員。
澄みきった冬の空と海のように清冽で、冬の陽のように優しい男性。
しかし、完璧さと過去の失敗ゆえに虚無を抱え、「甘美な死(安息)」を望む。
――汝、何者かによる甘美なる死を願うことなかれ。自ら彼の女の甘美なる罠に墜つべし――
 
真鍋 栞(まなべ しおり)
(水原峻から見て)
――優秀な専門家 ? 暴走乙女 ? 共犯者 ? あるいは罠 ? ――そのすべてだ ! ――
水原と同じ会社にSEとして勤務している女性。情報セキュリティの専門家。かつては金融工学の学徒だった。
水原に関心を持つ。女性としては長身であることにコンプレックスを持ち、あるトラウマを抱えている。
――汝、彼の者に会う理由を求むることなかれ。自ら逢え。しかして、己のすべてをかけ、彼の者を掴みとるべし――
  
 

あとがき


水原峻と真鍋栞の初対面は、OSのエラーを水原がやらかしたとき。二〇二五年七月七日の月曜日だった。
ふたりが結ばれた「タペストリーの夜」は二〇二五年一二月一九日の金曜日である。
そのほかの細かいことは特に考えていない。
……この物語はエリック・サティの曲によく合うと思う。
特に、プロローグ、第5章とエピローグには「ジュ・トゥ・ヴ」がぴったりだと感じる。
プロローグではピアノソロのAメロのみ演奏、第5章ではピアノソロのフル演奏、エピローグの後は、フルオーケストラ・バージョンのフル演奏を聴きながら、読んで欲しいと願うものである。


本作品はフィクションです。実在の人物・団体等とは一切関係ありません。