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「清廉潔白手当」/宮崎市定先生を慕って―「雍正帝 中国の独裁君主」(6)

第6話 「総督三羽烏」

独裁政治では、特権階級が存在しないことが理想だが、皇帝一人で天下の政務をすべてできるはずもない。だから、膨大な官僚機構が必要になる。官僚は皇帝の任務を代行するだけのもの、のはずだがそうはならないのが現実というモノ。
天子から委任された権限をいいことに、官僚はそれを私物化して人民を搾取して私服を肥やす。官僚同士が相互に悪事を隠蔽しあい、メンツをたてあい、欠点をかばい合うのが美徳とされる。もっともダメなものが高等文官試験の科挙の出身者で、試験官と合格者には先生と弟子、合格者同期では同年という連携が出来て、互いに便宜をはかる。

今風にいうなら、首長の機嫌を損ねてもどうということはないが、職員同士のつながりからはじかれてしまうと、もうダメというお役所組織といえばいいのか?

雍正帝  千年以上も続いた科挙の制度をいまさら急にやめられない。他にいい方法もない。人材抜擢に公正な基準を立てて、成績を上げればどんどん登用し、無能なものをどんどん免職すれば、次第に「官場の習気」も一新されるだろう。
――人材探しが天子の第一の苦衷だよ。本当。何度も騙されたからな。最後まで信任をまっとうしたのは、田文鏡(でんぶんきょう)、李衛(りえい)そして鄂爾泰(オルタイ)の三人だったか。

この三人とも当時の高等文官採用試験――つまり科挙の出身者ではない。

田文鏡


北京入り前するからの譜代の臣下で、特別任用によって官途に就いた。60歳まではまったく評判に上がらなかった。
……いちいち原著から要約していると煩雑で仕方がないので、大雑把に印象を述べることにする。
この人の真骨頂は地方財政の改革・確立だと考えられる。不正摘発や人材育成にも効が多い。
当時の税金はすべて国税であって、地方税というモノはなかった。では地方財政は何によってまかなわれていたかというと、国税の上に付加税をとることによってまわされていた。
この付加税が曲者で、地方官の裁量によっていたから、どんどん際限がなくなりがちとなる。それは当然のように地方官が横領するからだ。しかも定められた給料の千倍以上は着服していたらしい。それが上から下までやっているから誰も取り締まることが出来ない。
当時の地方長官はその地域の経営者であった。国税をノルマだけ徴収し、中央に送れば、民政のことに中央は関知しないのである。経営に失敗すれば解任するというだけのことだった。
それでは、一般人民からすれば、地方官から付加税を取られ放題であり、搾取されるばかりだ。

だから、田文鏡は税制整理を行い、地方費を定め、地方官にも生活費を与えたほうがよいと判断して、自己の担当する河南省で実施した。彼は雍正帝に奏摺で報告するに留めている。
どうも中央で公に議論すると、線引きが問題になるっぽい。つまり、「横領・背任を公認するのか?」「横領・背任と違うというのなら、どこで線を引くのか?」という地獄の釜を開いてしまうからではないでしょうかね~。
天子は長官に対し、私信への返書に意見を記すが、いいとも悪いともいわない。十分に調査して、長官の全責任によって行えということであった。天子は黙認するという形をとった。

そうやって官吏に勤務地手当が与えられることになったが、それを「養廉銀(ようれんぎん)」という。清廉潔白手当とでもいうもので、田文鏡の河南省から始まって全国的に行われるようになったとのことである。
本当はよくないのだが、際限なく付加税を取り立てるよりはマシだということだろう。当然、特権階級や派閥のボスからはボロクソに批判されたが断行した。

彼の治下の河南省では、落とし物を自分の物にせず、持ち主にきっちりと戻すという事例が複数起こった。雍正帝はそれを讃えて公に勅語を天下に布達した。
「正直な人は素晴らしいね!」という表彰ではなく、田文鏡を褒め称えるための勅語だった。

雍正帝  ほれ見たことか、田文鏡の政治はどれほど非難されても、攻撃にさらされても、やはり間違ってはいなかった。地方官ども!田文鏡を見習え!

李衛


この人は官位を金で買った。科挙の合格者から最も嫌われるタイプ。官位を買った金を取り返してやるぜ!とばかりに、搾取だの収賄だの汚職だのやりまくるクズが多い……ということになっている。確かにそういう人は多かっただろう。
しかし、科挙は難しすぎて、よほどの秀才ではないと、一生の力を消耗してしまうかも知れないし、秀才では大政治家になることが難しい。
そんな馬鹿らしい試験など受けず、何か一つこの世に生れた本懐として、何か目覚ましいことをやってみたい場合、金ですむなら金を出そうじゃないの、という篤志家もいる。
李衛もそのような人だった。
この人の得意技は不正摘発や盗賊退治だったようだ。
特に盗賊退治の話については、次のような話がある。いささか闇深い話ではあるが……。

ある盗賊の大親分は女性だった。討伐隊を何度派遣しても、どうしても捕まえることが出来ず、それどころか何度も恥をかかされていた。李衛が彼女を捕らえたとき、供述をとっていくと、公式の報告書には出せないほどに、官憲に恥辱を与えていたことがだんだんに分かってきた。
面子をつぶされる役人が多数出るということである。その役人の面子だけの話で済めばよいが、雍正帝だから厳しく問責されて、罰される恐れがあったのかも知れない。

しかし、彼女の一味を死刑にしたければ、事実を公にしなければならない。

だから、地方官の権限で可能な罰(棒叩き)により、「打ち所が悪くて死んじゃった」ということにして、殺したそうな。

これを今の日本でされると、たまったものではないが、中国ではどうなのでしょうか。現在でもあるのでしょうか。私の手元には何も確言できる証拠がありませんが、どうなんでしょうね~。

雍正帝  法律があるだけではどうしようもない。運用の妙を得てこそだ。法律だけに拠れば、そういう盗賊が生き残ってしまう。ならば、法律を超越して公平を得るのだ。

……独裁でなければこういうことはできません。

李衛は盗賊退治ばかりしていたのではない。通常の行政も行っていたので、多忙で血を吐くほどだったという。それでも政務に励んだ政務の鬼だった。

鄂爾泰


彼は満洲族である。

第四皇子  ちょっとこの人に便宜をはかって欲しいのだけど。
鄂爾泰  ひたすら徳を養って、勉学に励まれてくださいまし。政治運動などに励むことを慎みください。
第四皇子  (こいつ、いいぜ!)

雍正帝  西南国境付近の異民族対策という難事業を担当させたが、よく治まった。地方政治にあたるものは、彼を見習え!鄂爾泰の私信を読むと涙が出てくる、卿は我が知己なるぞ。誠に良臣だ。卿に福多く、命長く、平安にして願うことはすべて叶えたまえ。

雍正八年、怡親王が亡くなった。翌年、その後釜に座ったのが鄂爾泰だった。雍正帝の没後、乾隆帝を補佐して朝政を切り回したのは彼だった。

以上、駆け足になったが、総督のうち最も雍正帝の信任を得た三人だった。

最後に、帝に対する西洋の評価を引用して、この回を締めようと思う。

たしかにこの皇帝はキリスト教の伝道を禁止した。それは遺憾なことに違いない。しかし彼が宗教について盲目であることは、彼の仁徳と節倹とを賞賛する妨げにはならないだろう。
キリスト教に迫害を行ったとはいえ、雍正帝の示した仁徳は完全無欠といってよい。われわれはキリスト教に迫害を加えたトラヤヌスをローマの偉大なる皇帝として認めるにやぶさかではないが、このローマ皇帝に示した正義を、何故に中国皇帝にだけ与えることを躊躇するのであろうか。

次回は、「忠義は民族を超越する」。


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