【五代 下】谷間の時代|宮崎市定先生を慕って―「大唐帝国 中国の中世」(15)終
侵略者に慈悲を乞うこと躊躇する勿れ
西暦947年、後晋は契丹に降伏しました。
契丹の君主は耶律徳光。
中国風に国号を「遼」として、華北を統治しようとしました。
馮道はさっそく耶律徳光を訪れ、8年ぶりに会見を行ないました。
馮道、既に66歳。
耶律徳光は馮道に、「なんで後晋のアホぶりを止めなかったの?」と散々に嫌味を垂れたそうです。
馮道は一言も答えません。
耶律徳光は「なんで来朝した?」と問い、
馮道は「城もないし兵もいないし、こないわけにはいかないでしょ」と答え、
耶律徳光が「おまえはいったい何者?」と問うと、
馮道は「能も徳もない、老害です」と平然と答えました。
馮道はつまるところ、「わたし、文官ですから、武人あがりの皇帝と武官が武力で自滅したのに、何も、どうしようもないでしょ?」と言いたかったのかなと想像します。
耶律徳光は喜んで、彼を宰格の顧問に任じました。
礪波護「馮道 乱世の宰相」(法蔵館文庫)183頁から184頁までの記載より
……後晋を滅ぼした耶律徳光は、その地に居すわって中国を支配しようとした。ところが中国を支配するには中国人を用いるという古来の原則にそむいて、引率してきた契丹の騎兵部隊に糧食の現地調達を許した。かれらは各地の村落で掠奪をはじめ、それに反抗する者は老弱を問わず片端からなで斬りにした。これを「打草穀(だそうこく)」、すなわち稲刈りと称したという。
異民族の契丹人にここまで追いつめられると、中国人も、死にものぐるいで反抗をはじめ、あい集まって自衛集団を結成し、契丹の任命した地方官や、契丹人の守備兵を襲撃した。すると契丹人はますます報復的な虐殺を繰り返し、契丹軍の通過したあとは町も村も廃墟となって荒れ果ててしまった、単なる内乱とちがって凄惨な民族闘争の地獄図が繰りひろげられたのである。
……耶律徳光は、ある日、馮道に天下の百姓(ばんみん)はどうすれば救えるのだろうか、とたずねた。馮道は、
「このさいには、たとえ仏陀が再来されても百姓を救うことはできません。百姓を救うことのできるのは、皇帝陛下、あなたお一人です。どうかこれ以上に百姓を殺すことはやめてください」
といって頼み込んだ。契丹が中国人を皆殺しにしなかったのは、この馮道の取りなしが効いたからだと、賞賛されたという。
宮崎市定「大唐帝国 中国の中世」(中公文庫)412頁より
……馮道は、このとき、閑地について地方に出ていたが、勇気を出して契丹の太宗に謁見し、
「こんなときには神様も仏様もほかにない。天子さまこそが神仏と同じだ。どうかこの罪のない百姓の命をお助けあれ」
と懇願した。それがどれだけの効果があったか知れぬが、当時の人々はかれの勇気ある行為を賞讃した。ソビエト軍が満洲、樺太に侵入したとき、日本の官僚、軍隊の中にひとりの馮道がいたであろうか。
こんな有様なので、耶律徳光は結局、中原統治に完全に失敗しました。
そして、本国に引き揚げる途中で病気で死にました。
馮道も連れて行かれましたが、途中で耶律徳光の後継をめぐるゴタゴタが起こり、そのどさくさにまぎれて、中国に戻ることが出来ました。
馮道はその際に、中国人の士女が契丹人の俘虜になるのをみると、ふところをはたいて買い戻し、近くの高尼精舎に身を寄せさせ、あとでつぎつぎにその家に送りとどけたのです。
長楽老自叙
「長楽老」というのは、「長生きでお気楽なご隠居」という意味ではなく、「長楽(=地名)の老人」とのことです。
しかし、「お気楽老人」と解しても、彼は怒らないだろう。
むしろ、ニヤリとするだろうと、礪波先生は自著に記しておられました。
またもや左遷
耶律徳光が去った後、中原を支配したのは、劉知遠でした。
彼の王朝を「後漢」と呼びます。
彼は馮道に好感を持っていなかったので、名誉職=隠居職に祭りあげてしまいました。
国に忠
後漢の劉知遠が亡くなると、隠帝が即位しますが、この呼称、既にフラグです。「隠れた=どっか行っちゃった帝」ですからね。
厳罰主義でまったく人望のない王朝だったみたいです。
4年にも満たない、スターダスト・ダイナスティーでした。
その代わり、一族が北辺に小さな国(北漢)を建てて、こともあろうに「打草穀」の敵__契丹・遼の手先となって抵抗を続けるという醜態をさらします。
星屑王朝に代わり、郭威が「後周」を建国します。
馮道はまたもや太師(最高顧問)として迎えられました。
ここで後世の儒学者たち(朱子とか欧陽脩とか)は、馮道を「節操がない」「何個の王朝に仕えれば気が済むんだ」と激しくディスることになります。
しかし、馮道にとっての「忠」とは、特定のファミリー(天子と名乗る軍閥に毛の生えたような連中)に対する忠誠ではなく、「天下の地平(国家と民)」を維持することだった。
コロコロ変わる自称・皇帝たちに付き合って、殉じていては命がいくらあっても足りませんし。
今目の前にいるトップを動かして、一人でも多くの民を救う。
これぞ究極の「国に忠」の姿。
彼は無用にシリアスになる人ではなく、
「こんな世の中、間違っている!天道は是か非か」
などと司馬遷みたいに後世に向けて語りかけることもしません。
「自分にできることを、できるように、最善を尽くしてやれば、どうにかなるさ、なるようになるさ、それ以外に何ができるんだ?それでいいじゃないか、少なくとも私は自分に恥じることなどない」
という、重さのない男だったと思います。
一方、こんなことも言ったそうです。
「私の在り方について、賛否が相半ばすると聞いたが、当然のことだ。人は己と同じ考えの者には賛辞を惜しまず、反対意見の者には口を極めて罵詈を浴びせるものだ。孔子のような聖人でも、同時代人から悪口を言われた。私のような凡人ならば、罵声を絶え間なく浴びせられても仕方ない」
しかし、自分のやり方を変えようとはしなかった。
雪だね。
馮道の次男の嫁がマズい料理を出したとして、姑から怒られたことがあったそうです。
そのことがその嫁の実家に伝わり、女中頭が乗り込んできて、口達者に立て板に水とばかりに、いかに不当な言いがかりなのかをまくし立てましたが、応じた馮道はだんまり戦術を決め込んで一言も答えない。
女中頭の語彙が尽きたところで、
「お手間を取らせましたね」
「実家のお父様に伝えて欲しい。『今宵はよい雪でしたね』と」
と言づて、お帰りいただいたそうです。
この「雪」は「雪辱」の「雪」です。
「いやいや、随分とお腹立ちのようですね」
と伝言したってわけ。
自分を悪し様に貶めた、後世の腐れ学者どもにも、たぶん、そう言ったでしょう。
柴栄に対して
郭威が亡くなり、養子の柴栄(世宗)が即位します。
彼は五代随一の名君、30代の若き皇帝でした。
衆生済度の建前のもと、破戒ばかりしている俗物どもに、相応の報いをくれてやりました。
その俗物とは__1文字なら「僧」。
2文字なら「和尚」。
3文字なら「葬礼屋」。
4文字なら「色中餓鬼」。
……「仏教」を看板にする脱税集団。
国富をかすめ取る輩。
「本物の仏なら、衆生済度のために自分の生脳でも喜んで差し出すそうではないか。銅でできた像など、鋳つぶして銭にして世の中に流通させた方が、民のためだ。むしろ仏様とやらには喜んでもらわなければならない」
馮道、本気で諫める。
即位直後の柴栄に対し、北漢が契丹の援軍を得て攻め込んできました。
柴栄は新征を決断します。
これに猛反対したのが馮道でした。
ついに現れた救世主にして、真天子。
ここで失敗させてはいけない。
柴栄が
「昔、唐の太宗(李世民)も自ら軍を率いて天下を取ったではないか!」
と息巻く。
馮道は
「陛下は唐の太宗にはなれません」
と言い放ちます。
柴栄がさらに
「我が軍が北漢ごときに負けるはずがない。大山が卵を押しつぶすようなものだ」
と言う。
馮道返して、
「陛下は山にはなれません」
と、一切の容赦なく本気で諫めました。
ここまで本気で諫めたのは、はるか昔、若き日以来でした。
そのときは投獄されてしまいました。
結果として柴栄は激怒し、馮道を前線に連れて行かず留守番に任命しました。
そして柴栄は戦いに大勝してしまいます。
時流に取残されて。
柴栄の親征は大成功に終わり、彼のカリスマ性は爆発的に高まりました。
結果として、馮道の「慎重論」は完全に外れた形になり、若き皇帝の勢いの前に、老政治家の放った正論はかすんでしまいました。
これまで数々の修羅場をくぐり抜け、皇帝たちを手のひらで転がしてきた馮道でしたが、この時ばかりは、新時代の幕開けを前に、自分が「時流に取り残された古い人間」になったことを悟ったのかもしれません。
馮道、死す。
柴栄の勝利を見届けた直後の西暦954年、馮道は73歳でこの世を去りました。
最後に
柴栄は北を伐ち、南の諸国にも圧力をかけ、ようやく中華再統一の曙光が見えたとき、戦陣の中で病死してしまいます。
「中国の織田信長」と言われることのある男の、あまりにあっけない死。
その部下に北宋の太祖となる趙匡胤が居ました。
後漢滅亡からおよそ700年。
覚えておられるでしょうか?
「中国のソドムとゴモラ」を。
前太子の妃は名将、斛律光(こくりつこう)の娘であった。太子は天子から召されたので、佩玉(はいぎょく)をあたえて妃と別れ、都にはいって殺されたのであった。妃は悲しみのあまり、食を絶って月余で死んだが、その手にかたく佩玉をにぎりしめたままはなさなかった。枕もとに立った父親の斛律光が、蠟細工のように白い娘の顔に頬をすりよせ、手をとりながら、
「お父さんだよ。わかるかえ」
というと、娘はにぎった指をひらいて玉をはなしたという。中世七百余年のうちで、もっとも中世にふさわしい、悲しくも美しい挿話である。それはまことに幾百億中世人の悲しみをひとりの身に象徴したようなものであった。
……高百年の妃・斛律氏(名は不明)、享年14歳。
中華の歴史のうち、大きな谷間の時代。
ようやくその悲しみと苦しみの時代が終わるときがきました。
私もようやく終わりを迎えることが出来ました。
ここまで読んでいただいて、本当にありがとうございました。
(終わり)
