見出し画像

【五代 上】「軍人どもは勝手に殺しあうがいい」|宮崎市定先生を慕って―「大唐帝国 中国の中世」(14)6,800字


彼作不善、自当有報。我何怒哉。

「この人が不善をなせば、おのずからまさに報(むくい)あるべし。われ何をか怒らん」

__仏教経典(特に『法句経』や『大般涅槃経』など)や、中国の古典(『六度集経』など)に見られる、因果応報と忍辱(にんにく:怒りをこらえること)の精神を体現した見事な一節。

唐滅亡後、群雄割拠する中国。

後世「五代十国」と呼ばれる時代。

政権がどれだけ移り変わろうとも、高位の文官でありつづけた、一人の男の言葉です。

その男の名は馮道(ふうどう)。__

【Geminiへの指令】馮道のプロフィールをまとめよ。

【Geminiの回答】以下のとおりまとめました。

中国の五代十国時代(10世紀)において、「五朝八姓十一君(4つの王朝、異民族の遼、計8つの異なる姓を持つ11人の君主)」に高官として仕え続けた異色の政治家、馮道(ふうどう / ひょうどう)のプロフィールをまとめました。

馮道(ふうどう)のプロフィール

■ 基礎情報

  • 生没年: 882年 〜 954年(享年73)

  • 字(あざな): 可道

  • 号: 長楽老(ちょうらくろう)

  • 出身: 瀛州景城県(現在の河北省滄州市泊頭市)

■ キャリアの特徴:驚異の「渡り鳥」官僚

五代十国時代という、目まぐるしく王朝が変わる大乱世において、約30年間にわたり高位(多くは宰相・三公など)に就き続けました。

彼が仕えた王朝と主な君主は以下の通りです。

  • 桀燕(劉守光)

  • 後唐(荘宗、明宗、閔帝、末帝)

  • 後晋(高祖・石敬瑭、出帝)

  • 遼(契丹)(太宗・耶律徳光)※一時的な中原支配時

  • 後漢(高祖・劉知遠、隠帝)

  • 後周(太祖・郭威、世宗・柴栄)

■ 主な実績と人物像

節操がない「変節漢」と叩かれがちな経歴ですが、実際の彼は極めて有能な実務型官僚であり、民政の安定に尽くした名相でした。

  • 世界初の『九経』官刻(木版印刷)を始動
    後唐の宰相時代(932年)に上奏し、儒教の基本経典である『九経』を大規模に木版印刷する国家事業を開始。
    戦乱で失われがちだった文化の保存に決定的な功績を残しました(21年後の後周時代に完成)。

  • 凄まじい民衆保護と諫言(かんげん)
    武人や異民族の皇帝たちが暴走しそうになると、命がけでこれを諫めました。特に契丹(遼)の太宗が漢民族を虐殺しようとした際、馮道の巧みな言葉によって多くの民の命が救われたとされています。

  • 清廉潔白な私生活
    大官でありながら衣服や食事はつつましく、親の喪に服す際は自ら畑を耕し、貧しい人々に施しをしました。
    賄賂とも無縁で、私利私欲による裏切りは一度も行っていません。

■ 後世の評価:極端な二分

自らの人生を振り返り、自叙伝『長楽老自叙』を執筆。
どんな時代も生き抜いた自信を覗かせましたが、その評価は時代によって真っ二つに割れています。

  • 同時代(五代): 「乱世の救世主」「彼のおかげで文物の伝統が守られ、民が救われた」と広く尊敬を集めました。

  • 後世(宋代以降): 朱子学や儒教的道徳(儒家の「一君に忠義を尽くす」思想)が強まると評価は一転。
    司馬光や欧陽脩らから「売国奴」「破廉恥・無節操の代表格」と激しく非難されることになりました。

現代における再評価:現代の歴史学では、彼の「忠」の対象は「特定の暴君(天子)」ではなく、「国家のシステムそのもの」や「苦しむ人民」であったと解釈され、「暗黒の乱世を優れた実務能力と強靭な生存戦略で支えた、偉大な民政家」として高く再評価されています。



なお、彼については、宮崎先生の「大唐帝国 中国の中世」(中公文庫)はもとより、その高弟・礪波護先生のKindle版「馮道 乱世の宰相」(法蔵館文庫)によるところ大です。

私は馮道に非常に共感する者です。

節操とは、それを捧げる価値のある者に捧げればよいのです。

義務を放棄した配偶者(性別問わず)に、貞節など無益なことと同様。

もちろん国家と家族ではおのずと違います。

戦乱に逃げまどい、兵馬に蹂躙され、落花狼藉略奪強姦、地獄の渦中の人民を保護する責任__いやしくも国家の高官にある者が、断じて疎かにしてはならないこと。

大臣とはそのためにある地位。

君主が義務を果たさないなら、微力であっても代わって、大臣が果たすほかありません。

そうではないですか?

違いますか?

あなたは違うと言えるのですか?

馮道の生きた時代

だいたいこんな感じの時代を彼は生きていました。

「無辜の民 首チョンパして 賊の首」
 晩唐の叛乱祭りでは、官軍の手でこれが行われていた。

五代十国=中国版「大空位時代」
 中原王朝の命、鴻毛より軽し。
 軍人どもは勝手に殺しあえばいい。
 たとえ微力だとしても、我々文人が、民を救わねばならぬ。
 現実から逃げることなかれ。

 お釈迦様でも菩薩でも、侵略者の暴虐を止めることはできない。
 それを出来るのは、侵略者の君主だけ。
 侵略者に慈悲を乞うことを、躊躇するなかれ。

(1)後梁
 黄巣の乱のどさくさに紛れ、唐を内部から食い散らかして乗っ取った。
 でもね、それでお仕舞い。
 取柄は門閥貴族虐殺だけ(笑)!
 「彼の子は英雄、俺の子は犬か豚」
 その犬か豚に殺された建国者。
 ダメだ、これは。
 そして、「英雄」によって滅ぼされた。
(2)後唐
 トルコ族①。
 跋扈する「鴉軍」__黒コーデの騎兵軍団。
 闘いには無類の強さを誇る。
 それを指揮する「英雄」__彼マイナス戦いイコール__ゼロ。
 もともと、昔の中国の官軍は賊軍よりも悪質だったけど、こいつらはさらに酷い。
 まぁ、同士討ちして、少々の小康状態の後、国は速やかに空中分解。

 これが後晋、後漢そして後周と繰り返される。
(3)後晋
 トルコ族②
 元凶たる売国奴。
 試験によく出る「燕雲十六州」を、異民族にくれてやったのは、コイツら。
 自己の保身のために、国を売った輩共。
 ……でも、異民族に頭を下げることに耐えられなくなり、舐めた真似をして、返り討ちにあった。
 そして、官民諸共、次のような目に遭わされた。
「打草穀(だそうこく)……人を殺すこと、稲を刈るが如し」
(4)後漢
 トルコ族③
 「あれ?居たの?」
 わずか四年で滅亡(笑)。
 残党は北に逃れ、「打草穀」の侵略者の手先になった。
(5)後周
 トルコ族④?
 五代になってからこっち、皇帝は統治の責任を果たさない者だらけ。
 その暗闇のなか、出来ることを為してきた文人政治家達。
 __遂に曙光が指す。
 中国版の織田信長が登場。

 そこに「打草穀」の怨敵――契丹(きったん)が襲来。
 老いた文人政治家筆頭格の慎重論を斥け、彼は親征し契丹を打ち破った。


 そして、脱税し国富をかすめる葬礼屋に、相応の報いを。
 「お釈迦様は衆生済度のためならば、惜しみなく我が身を差し出すと聞く。銅でできた仏像など、鋳潰して銭としてこの世の役に立てた方が、お釈迦様の意に適う!」
 だが、彼の頭上に統一皇帝の栄冠は輝かなかった。

拙稿「歴史は『成人向けコンテンツ』」である」より

馮道38歳のときのエピソード

礪波護先生の著書には、馮道のさまざまのエピソードが書かれておりますが、それをすべて列挙していてはいつまで経っても終りません。
そこで、私の印象に残ったものを選んで書き進めます。
もちろん、宮崎市定先生の著書にも登場します。
宮崎先生の方に出てくる馮道は、好意的に書かれています。

西暦919年、のちに後唐の開祖となる晋王・李存勗(りそんきょく)に仕えていたころの話とのこと。
この晋王こそ、「彼マイナス戦いイコール__ゼロ」の君主です。

当時、晋王は後梁と血みどろの闘いを繰り広げていました。
彼は甘苦をともにする諸将と陪食し、その人数が増えていました。
軍政責任者が晋王に、陪食者の人数を減らしてほしいと請うたとき、晋王は本気で怒ってこう言ったそうです。

「私が生命を投げ出してくれる諸将のために食卓を設けてはいけないと言うのか?もう嫌になった。後任者の賢者を選べ。私は都に帰る!」

晋王は馮道を呼び、その旨を文書に起草して皆に示せと命じました。
馮道は筆を持ちましたが、書こうとしません。
晋王は怒りの表情凄まじく、「早くせよ!」と催促してくる。
馮道はこう返したそうです。

「私のつかさどる筆は必ずや職務に供します。しかしながら、今や大王は大功をたてること頻りであり、梁を征服して天下を定める日も近いことでしょう。軍政の責任者が諫めたことは、明らかな間違いではなく、大王が採用されなければ、それで済むことであります。どうしてそのことで将相臣民をひとしく驚動される必要がありましょうか。敵にもし聞こえたなら、大王の君臣が不和であると思うでしょう。この点、なにとぞ熟慮してくだされれば幸甚です」

ちょうどそのとき軍政責任者がはいってきて侘びをいったので、晋王も前言を取り消した。
このとき馮道は就任早々だったので、その措置を聞いた人々はその肝っ玉の大きいことに感服したそうです。

晋王は十数年間の悪戦苦闘の後に後梁を破り、帝位について後唐を開きますが、脳ミソ筋肉のため、統治ができませんでした。
英雄はあっという間に堕落して、ただの税金盗人の遊び人の芝居マニアとなり、親衛隊から裏切られて、在位三年にも満たず殺されました。
宮崎先生は「勝利の栄冠を得た英雄の最期とは思えぬ腑甲斐ない死に方」と断じられています。

その後、八年間ほどは小康状態を保ちます。
君主(後唐の明宗)が苦労人であったので、ひたすら民生の安定に意を注いだからです。
馮道はその君主から宰相として重用され、ともに内政に励みました。

53歳の馮道のエピソード

__「事はまさに実を務むべし。ーー事当務実ーー」と言い放った話です。

明宗が亡くなり、933年跡継ぎ__閔帝(びんてい)が即位しました。
「閔」は「心配する」の意だそうです。要はビビリだったのでしょう。
明宗のもとで闘いに功名をあげてきた二人__潞王・李従珂(ろおう・りじゅうか)と石敬瑭(せきけいとう)に対して、特にビビっていたようです。

ビビるあまり二人に対して、異動命令を出したところ、潞王に背かれました。彼が軍を引き連れて都に迫ります。
934年に討伐軍を出したところ、あっさり裏切られて、将兵は潞王側につきました。
閔帝は完全にビビってしまい、3月28日、石敬瑭のところに遁走してしまいました。4月1日、石敬瑭に合流。そして9日、あっさり石敬瑭から殺されました。

一方、宰相の馮道は同年3月29日には、潞王の徳をたたえその即位を願う文__勧進文を急ぎ作成するように命じていました。
4月3日に勧進を行ない、6日に潞王が即位して末帝(まつてい:名前からしてフラグ)となりました。既に述べたとおり9日、閔帝は殺されました。

「これって悪質な二股だよね」と後世から厳しく批判されていることです。

3月29日、入朝時の馮道の発言。
「主上(閔帝)は社稷を守ることに失敗なさった。臣たるものはただ君をのみ奉じればよく、君がいないのに入朝することは適当でない。潞王の教令を待とう」

他の人の反論。
「潞王がやってくるにしても勧進せず、そろってお出迎えすれば十分です。たとえ廃立があるとしても、太后(先代の妻=皇帝の母)の教令を待つのが当然でしょ。あわてて勧進しなくてもいいでしょ」

ここで馮道が言い放ちます。ときに53歳。
「事はまさに実を務むべし。ーー事当務実ーー」
何事も実を務めなくてはならぬ。現実をめざさなければならない。虚名に誤られてはならない。

しかし、まだ反論が出ます。
「天子が出ていったとは言え、人臣があわてて他の人に帝位を勧めるってどうなんですか。もし、潞王が礼を守り、勧進してきたことを責めたら、あんたどうすんの?太后の指図を受けてからでもいいでしょ」

結局は太后たちも潞王に使者を派遣し、出迎える準備を整えており、その流れの中で勧進が出されました。

正直、私も馮道に対し、「これはどうなんだ?」と感じるところです。

末帝からも「自分に勧進してくれた功績は認めるけど、ともかく油断もすきもない奴だ、いつ何時、自分も閔帝の二の舞をくらわされて、他の男に勧進されぬともかぎらない。中央の要職からしめだしておくか」と思われて、宰相から左遷され、出先に飛ばされてしまいました。

さて、末帝の登場によって、困ったことになったのが、明宗の娘婿でもあった石敬瑭です。
彼ら二人は仲が悪く、片方が即位した以上、もはやこのままではすまされない形勢になりました。

石敬瑭はむざむざ死にたくないので、末帝への反撃を考えます。
独力で立ち向かえないことは明白だったので、異民族の契丹を利用することにします。
当時の契丹の主は耶律徳光。

契丹への謝礼は、世界史の教科書には必ず載っている「燕雲十六州」です。それに加えて、謝礼金と毎年貢物を送り、属国の礼をとるということでした。
国力のはりきった契丹はエネルギーをもてあましていたので、これ幸いと手助けをし、あっさりと後唐の軍を撃破し、末帝を自殺に追いこみました。

こういうのを見せられると、馮道のほうがはるかに害悪がないと思わざるを得ません。

石敬瑭は我が身かわいさに、売国奴となったわけですね。
……違うか。
彼はトルコ人でした。だから、別にどうということもなかったのでしょう。

馮道は末帝から冷遇されたことが幸いして、石敬瑭の王朝__後晋の宰相に迎えられました。
そして、契丹へ外交使節として派遣されました。前後半年間の旅路にあったそうです。
彼はこのとき、耶律徳光と面識を持ちました。
耶律徳光から直々にスカウトされたそうです。

馮道の本心にせまるなら

礪波護「馮道 乱世の宰相」(法蔵館文庫)171頁より

 馮道はそれまでに何人かの軍閥につかえ、かれらの滅亡を第三者のような立場で見送ってきた。滅びた者は、武将でありながら武力を失って滅びたのだから自分が悪いのである。武力をもたない文官はその間に立って何もできるはずがない。ただ自分と関係があっただけの理由でそれらの武将と生死をともにしていたら、命がいくつあっても足りない。軍人たちは自分らで勝手に殺しあえばよく、文官はその勝った方に出頭して使われていくだけのことだ。ただ、戦火にさらされながら、軍閥から搾取されつづけ、生きた心地もないその日暮らしの生活を送っている大多数の庶民の苦痛を、すこしでも軽減してやることを、精いっぱいの仕事とするよりほかはない。これは馮道が体験から得た人生哲学であった。

宮崎市定「大唐帝国 中国の中世」(中公文庫)414頁より

……馮道はこれまでの王朝の革命、更迭に何度となく際会しながら、一度もその権力争奪の渦中にまきこまれることなく、革命がすめばそのまま新王朝の宰相に復活するのを常とした。これをもって後世の歴史家には、その無節操を攻撃する者が多いが、これには当時の世相を考慮に入れなければならない。
 五代は軍人同士が覇権を争奪する戦場であって、勝つも負けるも武器を取った軍人だけが全責任を負う。文官は非戦闘員であるから、それが戦争に介入しないかぎり、どちら側にいてもその責任を問われることがなかった。ことに天子といっても後唐、後晋、後漢の三代は異民族出身である。かれらもまた異民族たることを自覚して、あたかも博徒の縄ばり争いには素人を手を出さぬごとく、文官を別物に取り扱っていたのである。
 そこで文官は天子に結びつくよりも、むしろ人民に結合し、戦乱の最中にいくらかでも人民の味方になってその損害を少なくくいとめる任務を負わされていたのである。そしてこの方が官吏としてはむしろ正しい在り方であり、その気風は宋代につづくと見られる。

石敬瑭は建国の経緯もあるので、契丹に遠慮深く低姿勢を保ち、恭順の姿勢を続けました。ところが部下の諸将は、契丹ごとき野蛮人に平身低頭することを好みません。

石敬瑭が享年51歳で死んだとき、西暦942年6月13日。
馮道は61歳になっていました。

後継の皇帝は「出帝」。
……あ、これはもうあかん。「出た帝」って……。宮中から追い出され、この世から放出されたってことですか。

この君主、契丹に舐め腐った手紙を送りました。

「先帝は確かに契丹から立ててもらったさ。だから、あんたらに臣下の礼をとってやったの。でも、俺は違うから。中国人が立てた君主だから、隣国に臣とか自分を卑下なんてしないから」

……そして貢物を贈ることも停止しました。

馮道がこれを止めたとか、そういったことはなかったようです。
「私は文官ですから」ってことらしいです。
その態度のせいなのか、また彼は左遷され、出先に飛ばされました。

耶律徳光は南下を決断しました。
しかし、944年の2回は失敗してしまいます。
後晋は調子に乗ります。
油断してしまいました。

耶律徳光は946年、3回目の南下を実行しました。

今度は後晋の防衛戦はたちまちに破られ、都は陥落。
出帝は捕虜になりました。
後晋、滅ぶ。

華北地方は収拾のつかない大混乱に陥りました。
馮道は66歳になろうとしていました。

続く。



この記事が参加している募集