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私が本当の意味で「自己一致」できた方法を、全部話す。

こんにちは、とうらです。

突然ですが6月ってやばくないですか?

なんかジメジメしてきたし、太陽が出ないし、出たら出たで夏みたいに暑いし、それでいて休みが少ないし、
5月病的なものを乗り越え(もしくは無視して)、ここまでぐりぐりぐりぐりと自分を追い詰めて耐え抜いてきた人ほどバタバタと倒れていく感じがしてるんですけど、みなさんどうですか?大丈夫ですか?

ちなみにとうらは大丈夫です。…えっと基本的に大丈夫なんですが、実は寝不足が続いております。
冬にはよわよわのぽやぽやだった頭が、大体夏が近づくと急に体があったまって脳がフル回転し出して、なんでもできる気がしてきて、なんか頑張りすぎちゃう時期なのですよね。

それでも、幸いなことにわたし自身は、今している活動を「やりたくてやっている」感覚がありまして…
その感覚が、かなり自分を支えているというか、もはや命綱みたいになっている感じがあります。

そしてそれが今、「私がずっとずっと欲しかったもの」であることに気づき始めました。
「自分に優しくする」よりも、「幸せになる」よりも、1億倍大事なこと。

私が私になること。
私が私であること。
頭で思ってる私と、表の私がおんなじであること。

ということで今回はこの感覚を、「自己一致感」と呼んで、少し話してみたいと思います。

…ごめんなさい、「少し」というのは嘘です。めっちゃ話します。

というのもこの「自己一致」、本来は全然単純視しちゃいけない考え方のはずなのに、
その定義を語ろうとするとどうにもシンプルにしかならず、
「いや、それができたら苦労はしないんだが…」となっちゃう、切なすぎる概念だと私は思っているからです😂

なので、ここでは私の思考回路をこれでもかと開示しながら、私がどのように今の「自己一致感」を得てきたのかさらけ出すしか、これを伝える方法がないと思っています。

この迷惑行為がどなたかの役に立ちますようにと願って、書き始めますので、
「自己一致」という言葉にピンときている方や、
「とにかく今、自分が自分になれない感覚があって辛い」という方まで、
ぜひ気軽な気持ちで読んでもらえたら嬉しいです。




今回話す「自己一致感」については、
いわゆる心理学の「自己一致」からは、かなり踏み込んだ話になります。

ここで一応、本家の方も見たいと思います。少し専門的な話を挟みますが、ちょびっとだけお付き合いください🙏

そもそも「自己一致」とは、心理学者カール・ロジャーズが提唱した概念で、
簡単に言うと、「ありのままの本当の自分(経験)」と「自分が意識している自分(自己概念)」が、ズレなく重なり合っている状態を指します。

例えば、「今、私はあの人に嫉妬して腹が立っている」というドロドロした感情(経験)を、否定も言い訳もせず、「あぁ、今の私は嫉妬して腹を立てているんだな」とそのまま頭(自己概念)で認められている状態です。

逆に、この2つが激しくズレている状態を「自己不一致」と呼びます。 例えば、心の中(経験)では「もう限界で休みたい」と悲鳴を上げているのに、頭(自己概念)では「私はタフで頑張れる人間だから、これくらい平気だ」と思い込もうとする状態です。

このズレが大きくなると、心に歪みが生じ、慢性的な不安や生きづらさ、神経症的な症状として表れやすくなるとされています。

特に後者の話、私の中ですごく心当たりがあります。
自分がボロボロになる程頑張っていた前職。途中までは、「私はこれを頑張っていて当たり前」と思い込んでいたので、ちょっとくらい体に異変が起きようと、がむしゃらに勤務し続けていました。

とうとうわけもなく涙が出るなど、本気でヤバくなってから、「あ、私、辛いんだ」と気づき、「もう会社を辞めよう」と決めたあのとき。

すでに辛い中にいながらも不思議な安堵感というか、心がほっと緩んだ瞬間がありました。
「幸せ」というのとは違うんですが、それに近いとも言えるような。
「辞めると決めた」というか、「決めることを自分に許せた」あの感じ。
…共感できる方、いますでしょうか。

あれは本当に不思議な感覚で、
もちろんクリニックにいく必要があるほど精神的には辛い状況なんですが、
一方で、こうしてnoteを始めたり、新しい小さな趣味を始めてみたりと、何かをする機動力にもなるような、ややプラスとも言えるようなエネルギーも生まれていたんです。

そう、実はそのエネルギーの大元の正体こそが、今回でいう「自己一致感」だったんですよね。

本当はずっと会社に勤めるのが嫌だった。そんな自分を自分で発見してあげて、「やめていいよ」って許可を下すことができた。

人生の途中で見つけた「自己一致感」。それは新たな(本来の)人生のスタート地点にもなりました。

しかし、この「自己一致感」、いくら大事で、自分を救うものだからって、常に目指そうとすると、かなり難しいものがあります。

例えば先ほど話に出た、「嫉妬して腹が立っている」シーン。
ここで聞いてみたいのですが、みなさんが嫉妬するのってどんな状況ですか?
誰かを見た時に、自分の中に嫌な感情とか、焦りが湧いちゃう状況。
目を逸らしたくなるような、自分にとってどうしようもなく怒りが湧く状況。
ちょっとそれを、嫌かもしれないんですが、一瞬だけ思い出して見て欲しいのです。


…思い出せたでしょうか?


このとき、自己一致の正解としては、

「あぁ、今の私は嫉妬して腹を立てているんだな」

と思うことなんだそうです。

が…

……いや、 無 理 く ね ?


というのが、本音だと思うんです。

もちろん、そこを目指すことができる人もいると思います。
そうやって自分をメタ認知することが、正しいし自分のことを救う、そう腑に落ちているからこそ、そう思ってみる。
何度もそう思ってみることで、自然とその考え方が身に付いてきた…そういう話もよく聞きます。

でも、誰だって最初は「っく〜!ム◯つく!…………いやいや、落ち着け、『あぁ、今の私は嫉妬して腹を立てているんだな』(そう思おう)…」と、心の中に『』で借りてきた声を無理やり入れてみたり、
「ヮ〜、やな感情…!なんだこれ…!」と言葉にならないモヤモヤが込み上げては「あぁ、そっか、これが私が『嫉妬して腹を立てている』という状態なんだ(ふむふむ)…」と状態に名をつける行為で、納得しきれないながらも自分の心の研究をなんとか開始したりしていると思うんです。
(えらい、ほんとに)

そもそもの話、イヤな感情を体験している真っ最中なのに、そこにさらに「外側の言葉による自分の心の運用」である意味自分に負荷をかけているんですよね。

心が辛い状況を救うためにも使われる考え方とは言え、実はとてもとても高度なことをしているんですよ、みなさん…!😭

そして当然のことながら、
それを考えること自体がどうしても辛くてできない、もしくはそれどころではない、それを考えるより外側に反射的に反応するのが当たり前…!になっている状況だってあり得ます。

すごく多いんですが、こういう場合、とても辛いです。

実はここが、今回の「自己一致」の最も難しいところで、
それは、それ自体が抱えているあるパラドックスにあります。

そのパラドックスとは何か。

例えば、先ほど出た「心の中は悲鳴をあげているのに、自分でも気づかず頑張り続けている」ような状況。
これが最も深く行きすぎた自己不一致の状況だと思うのですが、
これってつまり、

自己一致がないと、自己一致がないことに気づく手段も同時にない

ということなんですよね。

ロッカーの暗証番号が書かれた紙を、うっかりロッカーの中に厳重に保管されてロックしてしまうことがあると思いますが、そんな状態ともいえます。(それはお前だけだ)
まじでどうしようもないがすぎるんです。

そしてそういう時は、
本っっっっ当に仕方なくですが、

何かが壊れてしまったり、失ってしまったり、挫折したり、整合性が取れなくなってしまうような、そんな経験をして、初めて「自己不一致だった」ことに気がつくのですよね。

ロッカーの中の暗証番号は、ロッカーをぶち壊してでしか取り返せませんし…(もうロッカーのことはいいんだ)。

しかしここで朗報なのですが、絶望する必要はありません。

なぜならここまで読んでくださった皆さん、
つまり「自己一致」という言葉にそもそも反応できた皆さんは、

もうすでに、「どうやら自分は自己一致が足りていないらしい」ことに気づき始めているからです。

それが具体的になんなのかがわからなくても、
実は心の奥底のあなたは、
|ω・)チラ…(見ようかなどうしよっかな)
と「それ」の無視ではなく確認に進もうとしている、
そんな勇気ある状態なのです。

何かが壊れるとか、挫折するとか、大きなショックを受ける、
そんなやり方じゃない、もっと優しいやり方で、「自分自身と一致できている」状態に、少しずつでも近づいていけるとしたら。

そっちの方が良くないですか…?

私はこれは、できることだと思うのです。

ただし、条件があります。
それは、自分専用のやり方を選び続けること。

自分専用のやり方…?なんじゃそれ…?と思うかもしれませんが、今からわかりやすく説明します。
長くなりますが、ここからが重要な話です。

例えば。
疲れている自分を無視していたという「自己不一致」に気がついた。
そしてこれからはもっとゆっくりしよう!と思った時。
(「例えば」なので、すごく簡単な話をしちゃいますが、ぜひ、あなたの大切な趣味や活動などに置き換えて考えてみて欲しいです。)

休日まで持ち込んでいた仕事を手放して、週末の朝はゆっくりコーヒーを入れてみることにしたりする。

初めのうちは、すごくよかった。
「こんなに贅沢に、ゆっくりしていいんだ!」と、体感的な発見ができて、
感じたことのない幸せを、感じられた。

けれど、やるからには本格的にやりたくなって、コーヒーの淹れ方の勉強をするうちに「こうしなきゃ」が出てきたり、
あるいはだんだん飽きてきていることに気づかずに、「継続しなきゃ」が出てきたりすることもあるでしょう。

また、日によってはやっぱり休日に仕事がずれ込んで、コーヒーをゆっくり入れられない日が出てきてむしろ「ちょっと残念な日」が増えたように感じたり。

こんなふうに、一度「幸せな行為」と自分の中でラベルを貼ったはずのものが、辛いものに変わる瞬間が出てくることがあります。

「贅沢しているのに、自分の心はそれを受け取れない(もしかして自分はわがままな人間なのか?と疑わなければならない)」
…それって実はすごく辛いことです。

ですが、決してわがままなのではありません。

すごくお腹が空いていて、目の前に美味しそうなごちそうがあるのに、両手を縛られているから食べられない…そんな辛すぎる状況を、わがままとはいいません。

これは、言うなれば「自己一致を目指そうとして起こる、自己不一致」です。

「自分のやりたいことを優先する」という大枠の自己一致は取れても、
その先で「どうやるか、いつまで継続するか、その中で何を選択するか」みたいな細かい部分は自分に選べなくさせている。

今まで自分に厳しすぎて、自分に優しくするとか、自分のやりたいようにやることにまだ慣れていないからこそ起こる、大雑把すぎる選択になっているんです(はじめはそれでもいいんですが)。

もしかしたら、たとえインスタントコーヒーでも、自分は「ゆっくりコーヒーを飲むその時間」が楽しみたいだけだったりするかもしれない。(だったら勉強はしなくていい)
もしくはコーヒーは一時的なマイブームで、次にやりたいことが出てきて今はそっちをやりたいのかもしれない(ずっと継続しなきゃいけないわけでもない)。

もっというと、もしかしたら「朝コーヒーをゆっくり入れる」こと自体、「よく聞く幸せな1日の始まり」と認識していただけで、そんなに求めてたことじゃなかったかもしれない。
ただ一日中ゴロゴロして、スマホ見て、SNSでくだらないポストを次から次へとスクロールする、そんな時間があることも、許したいのかもしれないのに、
「それはダメだ」と思って、「趣味らしい趣味」だけで幸せを追求しようとしてたりするのかもしれません。

どんな人にも、外から見て「幸せ」じゃなくても、「心地よさ」「気持ちいい」では表せないような、他人には説明できないような、それこそ「自己とだけの一致感」がある選択肢が、あるはずなのです。
(もしかしたらそれはある人から見たら「不幸」にも見えちゃうようなことなのかもしれません)

それが、「自分専用のやり方を選ぶ」ということです。

これは絶対に自分の外側に答えが、ありません。
自分の中にしか、ない。

たとえ今はわからなくても、決して急ぐ必要はありません。
なぜなら、嫌なことをやめれば、勝手に出てくるものだから(ある趣味→別の趣味→別の趣味→本当のやりたいこと…みたいに段階を踏んで、ということはあるかもしれないけれど)。

……と、ここまで読んで、こう思う方もいるかもしれません。

「いや、自分のやりたいことは、もっと真剣なものなんだ
「でも自分は、理想が高すぎるからいつも苦しいんだ」と。

「(さっきの例で、コーヒーを)勉強したいと思うのは、一つのことを突き詰めること自体が自分にとっての幸せでもあるからなんだ」
「でも、その理想に、”他の自分”が追い付かない…」
「理想を追いかけると、疲弊してしまう」

そう、これ、私がまさにずっと思ってきたことです。

自分の中にある一つの理想が、自分の中の他の感情や、体力、時間的な制約と釣り合わない。
だから自分が何人も必要なように感じたり、
自分の中でいくつもの方向に散らばる矢印があって、自分が分裂してしまうような感覚にすら襲われる。(辛いよな)

そこで、ここでも「自己一致感」が大きなヒントになります。

そんなふうに辛い場合、「理想が高いのが悪い」わけではなく、そもそも「自己一致が叶ってない」と見ることができるのです。

そもそも、「理想が高いのが悪い」は、自分の一面を断罪する考え方です。
「自分のやりたいことや、心地いい方法が、本当に守るべきものだ」と考えた結果、一方で「厳しく制限すべきもの(=理想の高さなど)」も同時に炙り出している。
そんなことまでしていたら苦しくなって当たり前で、本当はしなくていいんです。
理想が高い自分も、もっと怠けたい自分も、同時に許していい。
それが、「自己一致」の入り口です。

何かに目を向けた時、「苦しい」ということは、自分に厳しくしすぎているサインでもあります。
あるいは、「本当はもっと許すべき部分、癒してあげた方がいい部分だって同時にあるのに、締めるところばっかりに目をつけて締め上げている」、というバランスの悪い制限をしているサインかもしれません。

自分が苦しくなるような考えややり方は、本来選ばなくていいんです。

「苦しい」「辛い」時だけでなく、
怒りにも悲しみにも昇華できない何か「モヤモヤ」みたいなもの、
「このままでいいんだろうか」みたいな慢性的なぼんやり感がある時は、
全部「自己一致していない」ことが原因です。

これは、趣味や仕事など自分のやりたいことにおいてだけでなく、
心のもっと深いところにも同じことが起こります。

例えば、「自己一致」で語られることでよく、「自分のダメなところも認めましょう」「自分の悪い面も受け入れましょう」というのがあります。

確かにそれ自体は大事なことです。本当に受け入れられたら、超楽だと思います。
ですが、文脈やその時の感情によっては「いきなり結果だけ渡されましても…」感があったりします。

無理な時は無理だから、というのもあるんですが、何よりそこに至るまでのプロセスが一番重要なのに、誰も助けてくれない。

そこに自分にしかない大きな障害があったら、助けられたようで助からないんですよね。

「自分のダメなところも認めましょう」と言われて、ウッとなるときは、その方法や順番が合ってなかったり、手持ちの情報が揃ってないから。

例えば「認めましょう」のイメージが「屈服しましょう」「今後永遠に自虐的に生きましょう」に聞こえると、そりゃ苦しいに決まってます。
素直に受け入れられないのも当然です。

そしてそれは必ずしもその人が勘違いさんだからではなく、その結びつきが作られることになった固有の経験があるからです。

その人の手元には、「今自分がダメだと思っている部分を『ま、いっか』ってしちゃっても、実は幸せに生きられる」という情報(経験)がなかったりするかもしれません。

逆にそれが先に腑に落ちていたら、自然と「じゃあ、自分のこんなダメな部分も受け入れてみますか」とできるのかもしれない。

この「欲しい情報から選ぶ、その順番を守る」という、細やかな自己一致の連続が、すごく大事なんです。

いきなり結果だけ渡されるとものすごく高く感じた壁が、これによってあっけなく乗り越えられることがあります。

さて、ここまで私のしてきた「自己一致」の方法について、書いてみました。
やはり想定の2倍は書いていますが、ここで最後にひとつだけ、一番大事なことを喋らせてください。

ここまでの長文を読んでくださった方々は、おそらく相当真面目な人たちばかりだからこそ、言いたいことがあります。

それは…

ここまでとうらの言ってきたことに、全然従わなくていい。

ということです!

…いや、ここまで読ませといて、なんだったの!?
となってしまうかもしれませんが、少し説明させて下さい。

私が思うに、自己一致には適度な自主性が必要です。
言い換えると、「自分でやった、選んだ」感覚が必要ということです。

ここまでの内容に共感してくださったみなさんは、おそらく私と似て、「頭の中の他者の声がうるさい」タイプなのではないかと思います。

幼少期に親が言ったこと、先生の言葉、先輩の言葉、上司の一言、広告やテレビやSNSで溢れている常識、そこからさらに自分の中で作り上げられてきた自分を律する言葉…

数えきれないほどの、「自分じゃない誰かの言葉」が、頭の中で埋め尽くされている、そんなタイプの方は、
はじめにどんなに「これは自分のためになる!」と思った言葉も、
その真面目さゆえ、そしてあなたが優秀なゆえなんですが、
長期化すると「義務」となり、「呪いの言葉」へと変化させてしまうパワーも紙一重で持ち合わせていると思うんです。

「自分じゃない誰かの言葉」は、自己一致に一番必要のないものです。
逆にいうと、これを引き剥がすことから、自己一致は始まります。

「やらねば」と思うのは、自分の本当の言葉ではなく、「やりなさい」という誰かの言葉があったから。
あるいは「やりなさい」が、誰かの言葉により生まれてしまったから。

だから、自然と「やろっかな〜」って思えた時が、実は一番「自己一致」には近いんです。

究極を言うと、この記事を読んで「とうらはこう言ってるけどさ…正しくはこうじゃね?」「それは違うだろ〜」と思うことがあったら。
それは素晴らしい自己一致の始まりかもしれません!

…その場合はぜひこちらのコメントには書かず、ご自身で大切な向き合いのヒントとして生かしてもらいたいです!🥹笑

ここまで書きながら、「とうらが言ったこと」よりは「とうらの言ったことを受けて読者さん自身の心の面に反射した何か」の方が1兆倍大切なんだろうなと、ずっと思っていました。

もちろん、その心の反射がこの文章に対する共感であれば、それも大事にしてもらえたら嬉しいんですけどね🌸

ということで、最後のまとめは書きませんが。
「そう言うとうらは『自己一致』できてるのか?」
について、最後にちょっとだけ書きたいと思います。
お時間のある方はお付き合いください。

冒頭で、私は「今している活動を『やりたくてやっている』感覚がある」とお話ししました。

何をやっているかと言いますと、ここ数ヶ月はずっと、音楽を作っています。

会社を辞めて、自分に自由を許してから6年ほど経ちましたが、
ここ最近、本当に一番やりたかった「音楽をして生きていく」ことを自分に許せました。

というか、それまでは「音楽を自分に許していない」ことにすら気づいていませんでした(さっき話した「自己一致がないと、自己一致がないことに気づく手段も同時にない」パラドックス)。

6年前から、そもそも会社を辞めること、フリーになること、こうして向き合いに、自分のために時間を使いまくること…
いろいろなことを徐々に自分に許せるようになって、自分との一致が高まっていった時、

当時ではありえなかった、「音楽を生活の中心にする」ということまで、いつの間にか自分に許せるようになっていました。

ただ、やはり理想の高い私は、音楽ひとつ作るにしても、苦しくなりがちです。
正直、しんどいときもあります。

でも、求めるものがはっきりしており、それが人生で一番やりたかったことで、それに自分の体(行動)が一致している。
だから、「しんどくても平気」「苦しくても、楽しいが勝る」状態です。

自己一致している時って、そもそも「本当にこれをやってて正解か」「他にやるべきことがあるのではないか」みたいな問いが浮かばないんですよね。
それが結構楽で。

その状態でいられることが…何と表現したらいいのでしょう、
やっぱり「幸せ」って言う言葉では表せない気がします。なんか違うんです。甘いお菓子を食べている時の幸せとは違う。

やっぱりただただ「一致」してるんですよね。
「自分、これじゃん」みたいな。

ただ、「完全に自己一致したのか」と問われると、決してそうではないと思ってます。

私の考えとしては、誰だって、一生かかっても100%自己一致は不可能だと思ってて。

私も今、音楽をしながら、
これから先、もっと「あ、こっちが本当の道か!」と気づいてしまうことがあることは、かなり想定しています。
これまでの心の変化があったからこそ。

でも、それでいいんです。
いつもいつも、途中でいい。

「自己一致」を人生の中で見た時、それはゴールではなく、
人間だけに与えられた、「楽しい(と一言では言えないけど)チャレンジ」
なのかなって思います。
ゲームとか、クイズみたいな。

だから今から私たちがやるべきなのは、何か大きな終点に向かうことではなく、
今から、目の前で選べる「自分と一致するもの」を、一個ずつ選んでいく、そんな作業なのかなと思います。

……ちなみに、さっき白状した「理想の高い私は、苦しくなりがち」問題。
この「理想の自分」に採点されるのをやめて、味方になってもらうためにやったことは、こちらの記事に全部書いています。

よかったら、みてみてください。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました🌻


⚠️一点だけご注意!
今回の話の中には、自分の心の深いところに潜る話が出てきています。
固有の経験に触れるようなこと、それを乗り越えようとすることは、
場合によってはカウンセリングなどの介入が必要なケースもあります。
少しでも苦しさや危険さを感じたら、専門家の方を頼るなども検討してみてくださいね。


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