#397 絶対的に優秀な能力を持った人はいない①「優秀な人がほしい」という言葉への違和感 25/3/2
みなさん、こんにちは。
絶対的に優秀な能力を持った人はいない。あるのは、自分の矮小化された思考の前提である。
「優秀な人がほしい」「彼女は能力が高い」「彼はもう少し主体性があれば」——人事の仕事をしていると、こうした言葉を日常的に耳にします。採用面接の評価、人事異動の協議、人事考課のキャリブレーション会議での議論。どこでも当たり前のように使われるこれらの表現に、わたしは長い間、違和感を抱いてきました。
この違和感の正体は何か。
それは「人の能力に優劣がある」という、あまりにも当然視されている前提への疑問です。本当にそうなのでしょうか。本当に絶対的な、固定的に「優秀な人」は存在し、その人はどこでも、いつでも、誰といても優秀なのでしょうか。
わたしは人事として、特に従業員の配置・アサインメントの仕事を8年間、おそらく10,000時間以上かけて向き合ってきた経験があります。その中で見てきた膨大な身体的経験から、この「能力に優劣がある」という前提がいかに危うく、そして人の可能性を閉じてしまう考えであるかを感じずにはいられません。
今回から全5回に分けて、従業員の配置と採用面接という2つの現場で実際に起きていることを通じて、この能力観の問題を掘り下げていきたいと思います。そしてその根底にある学習観——「学ぶとは何か」という問いにも考えを巡らせながら、わたしたちが無自覚に持っている前提を問い直してみたいと考えます。
配置転換で180度変わった、ある女性従業員の評価
まず、従業員の配置における具体的な事例からお話しします。
40代後半、50歳に差し掛かろうとするある女性従業員がいました。彼女の武器は、ローコードプログラミングスキルを用いた業務自動化でした。マクロやVBAを使った自動化ツールの開発が、彼女自身が得意とするスキルだったのです。
しかし、自動化ツールを常に開発し続けるという仕事は、どの部署にも常にあるわけではありません。彼女が所属していた部署では、基幹的な定型業務が日々の仕事の中心でした。その中で時折、人の手作業を自動化するフェーズが訪れる、そんな環境です。
彼女も他のメンバーと同様に、部署の基幹業務を担当していました。ところが、そこでの評価は芳しくありませんでした。「主体的に業務遂行することが不足している」「スピードや正確性が標準的な等級の人に求められるレベルに達していない」「時にチームの他者に良くない影響を与える言動が見られる」——こうした評価が、彼女の上司から人事に届いていました。
年齢と等級の関係で見ると、彼女は平均的な等級よりも下位にいました。一般的には、40代後半ともなれば、ある程度の経験とスキルが蓄積され、それが等級にも反映されているものです。しかし彼女の場合は、そうではありませんでした。上司からの評価は、その状況をさらに固定化するものでした。
ある時、組織の事情で彼女は別の部署へ異動することになりました。そして1年後、異動先の上司からもたらされた評価は、まったく違うものでした。
「ローコードプログラミングスキルを活用した自動化ツールの開発で、大きな価値を発揮している」「ユーザの要求をツール・業務要件に変換し、開発仕様を決めて製造するフェーズまで、プロジェクトをリードする存在として活躍している」——前の部署で「主体性が不足」と言われていた彼女が、異動先では「プロジェクトをリードする存在」と評されたのです。
何が変わったのか
この事例から何が見えてくるでしょうか。
彼女自身は、何か劇的に変わったわけではありません。持っていたスキルも、性格も、仕事への姿勢も、すぐに変わるものではありません、同じです。表層的に変わったのは当然ながら環境です。その上で何が変わったか、それは「文脈」です。
異動先では、彼女の得意とする自動化技術を発揮する場がありました。そこには、現場の業務を理解し、それを技術要件に変換し、ツールとして実装していく——そんな一連のプロセスを必要とする仕事がありました。
ユーザの要求を要件に咀嚼・変換する機会がありました。得意なスキルを活用できる環境だからこそ、ユーザ要求を積極的に取りに行く動きもできました。自分の専門性が発揮できる場面では、自然と前のめりになれたのです。それが異動前には「不足している」と言われた主体性として、今度は「発揮されている」と見られました。
基幹業務を淡々とこなすことを求められる環境では、彼女の強みは発揮されませんでした。むしろ、定型業務のスピードや正確性という別の軸で評価されることになり、そこでは「標準に達していない」と映ってしまったのです。
しかし、自動化というテーマに向き合う環境では、彼女の技術的な知見と、それを業務に適用する応用力が、まさに求められるものでした。同じ人が、文脈によってまったく異なる評価を受ける——この現象が意味することは何でしょうか。
人事の立場から見えた構造
ここで重要なのは、前の部署の上長も、異動後の部署の上長も、それぞれの認識は変わっていない、ということです。
前の部署の上長は、基幹業務を主体的にこなす姿を期待していました。その文脈では、彼女はそれを発揮していませんでした。これは事実です。異動後の上長は、要件定義からプロジェクトをリードする姿を目の当たりにしました。その文脈では、彼女はそれを発揮していました。これも事実です。
どちらの上長も、自分の部署の文脈で一貫して判断していました。上長たちの見方が間違っていたわけではありません。それぞれの部署で求められることが違い、それぞれの文脈で彼女のパフォーマンスが異なっていた——ただそれだけのことです。
でも、人事の立場から両方を見ていたわたしには、「同じ人」が「異なる文脈」で「正反対に評価される」という現象が見えました。そしてこれは、この女性に限った話ではありません。わたしは8年間、数え切れないほどの配置・異動に関わってきましたが、同じような事例を何度となく見てきました。
ある人が「パフォーマンスが低い」と評価されていたのに、異動後に「期待以上の働きをしている」と評されることは、決して珍しくありません。逆に、「優秀だ」と評価されていた人が、異動先で「期待ほどではなかった」と言われることもあります。
この膨大な実例が示しているのは、人の能力というのは固定的なものでもなければ、その人に内在化された絶対的なものでもない、ということです。
次回は、採用面接の現場で起きている問題を見ていきます。そこでも、同じ構造——能力を個人の固定的属性として扱ってしまう認識の問題——が浮かび上がってきます。
<meta>能力観、文脈依存、配置転換、人事、評価</meta>
