36. お手洗い
幼稚園の実習には「責任実習」というものがある。実習の後半に実習生が担任の代わりにクラスの活動を計画し、実際に保育を行う大切な実習のこと。いわば実習の集大成のような一日だ。
この日は、実習生の責任実習の日だった。
朝からどこかそわそわしている彼女。何度も指導案を見返し、活動で使う教材を確認している。その姿を見ていると、自分が実習生だった頃を思い出して少し懐かしくなった。
責任実習の日は特別だ。
担任だけでなく、主任や園長も保育を見に来る。子どもたちはいつも通りなのに、大人だけがなんとなく緊張している。
もちろん実習生本人が一番緊張している。
活動が始まると、彼女は練習してきた通りに一生懸命進めていた。一緒に歌をうたったり、子どもたちの目を見ながら丁寧に話している。
「がんばれ!」と心の中で何度もつぶやいていた。
そして製作活動の前。
彼女は子どもたちに向かって、はっきりと声をかけた。
「みんな、お手洗い行ってきてね!」
すると.....
子どもたちが一斉に立ち上がり、わーっと水道へ向かっていったのである。
手を洗うために。
見事な一斉活動。
誰ひとりトイレへ向かわない。
みんな当然のように蛇口の前に並び始めている。
実習生は一瞬きょとん。
私も一瞬きょとん。
そして数秒後、この状況を理解した。
普段私たちは「トイレ行こうね」と声をかけている。
だから子どもたちの頭の中では、「お手洗い=手洗い」という解釈になったらしい。
だって“お手洗い”なのだから。
子どもたちは真面目な顔で真剣に手を洗っている。
一方で実習生は、「あれ? あれ?」と小さく混乱している。
真剣な実習生と真剣に手を洗う子ども達、なんだか本当に愛らしくて...。
主任も少し笑いをこらえている。
園長先生まで口元が緩んでいた。
その後、実習生が「ごめん!トイレに行ってきてね」と伝えると、子どもたちは「はーい!」「今日は手洗ってからトイレ行くんだね」なんて友達と話しながら今度こそトイレへ向かった。
その後の活動は滞りなく進み、準備してきたことをしっかりと子どもたちに届けることができた。緊張しながらも最後までやり遂げた事、それは、これから保育者として歩んでいく彼女の自信にもつながったのではないかと思う。
子どもたちは言葉をたくさん獲得してきたが、まだ知らない言葉もたくさんある。
そして大人が当たり前に使う言葉も、子どもたちなりに一生懸命解釈している。
責任実習の日に起きた、小さな言葉のすれ違い。
実習生にとっては冷や汗もののハプニングだったかもしれない。
でも後ろで見させてもらっていたわたし達は、素直で愛らしい子どもの姿に、こっそり癒されていました。
あの瞬間のずらりと並んだ小さな背中、真剣に手を洗うこども達の姿はきっと忘れられない実習の思い出になると思う。
