【連載】C-POPの歴史 第1回 C-POPはどこから来たの? 1920年代〜 老上海「時代曲」の時代
中国、香港、台湾などで主に制作される中国語(広東語等含む)のポップスをC-POPと呼んでいて(要するにJ-POP、K-POPに対するC-POPです)、その歴史を、1920年代から最新の音楽まで100年を時代別に紹介する当連載。
ここ数年調べてきたC-POPについて、音楽だけでなく、その歴史や時代背景も含めて書き記すことにしました。やや研究的な内容も含みますが、YouTubeやSpotifyのリンク、AIで制作したイラストなども交え、なるべく読みやすい記事を心がけます!
当連載におけるC-POPの定義
C-POPとは、中国語で歌われるポップス全般を指します。その中心となるのは、マンダリンと呼ばれる標準中国語と、香港を中心に使われる広東語です。当連載でも、主にこの二つの言語で歌われる楽曲を紹介していきます。
日本の歌謡曲がいつの間にかJ-POPと呼ばれるようになったように、C-POPもせいぜい2000年代頃から一般化した言葉です。それ以前から、マンダリンで歌われるポップスはマンドポップ(Mandopop)、広東語のポップスはカントポップ(Cantopop)などと呼ばれてきました。現在も、この二つはC-POPの主要なジャンルとして使われています。
この連載では、2000年代以降の狭義のC-POPに限定せず、中国本土、香港、台湾などの中国語圏で作られたポップス全般を、広い意味でC-POPとして扱います。
なお、中国本土のアーティスト名や楽曲名は原則として簡体字、香港・台湾のものは繁体字で表記します。
C-POPはどこから来たの?
さて、中国のポップス、C-POPはどこで生まれ、どこからスタートしたのでしょうか。作曲者や作詞者が特定でき、特定の歌手のために書かれ、レコードやラジオなどの媒体を通して、広く大衆に聴かれることを想定した音楽。それをポップスと定義するなら、中国のポップスの起源は1920年代の上海にあります。
当時の上海では、のちに「時代曲」と呼ばれる音楽が生まれ、1920年代末から1940年代にかけて黄金期を迎えました。では、時代曲とは、どのような場所から生まれた音楽なのでしょうか。
時計の針を100年戻して、1920年代の上海に飛びましょう。
当時の上海には、租界と呼ばれる外国人居留地がありました。外国人と中国人が行き交い、社交場やダンスホールでは夜ごと宴が開かれていました。
上海が国際都市へと変わるきっかけは、さらに80年ほど前にさかのぼります。1842年の南京条約によって上海が開港すると、イギリスをはじめとする欧米諸国との貿易が始まりました。南京条約では、香港島の割譲に加え、広州、廈門、福州、寧波、上海の開港が定められました。そのなかでも上海は、人口の多い長江流域に近く、中国最大の河川である長江の河口に位置していたことから、中国随一の貿易港へと発展します。
当時の上海の外国人居留地には、貿易業を営むイギリス人、フランス人、アメリカ人、そしてのちに日本人など様々な人種の人々が暮らし、国際都市となりました。租界は当時の中国清朝の法が適用されない治外法権となっていて、独立した市議会を持つ自由な場所に一旗上げようと当時の列強のビジネスマンも多くこの地にやってきたわけです。彼らは貿易で莫大な富を得ました。
富を得た人々が集まるにつれ、租界にはホテル、社交場、ダンスホール、劇場、映画館が次々と作られます。外国人だけでなく、多くの中国人も働き、商売をし、娯楽を楽しむ都市へと成長しました。1920年代の上海租界は、100万人が暮らすようになり(外国人10万人、中国人90万人)、東洋のパリと呼ばれるようになりました。
参考文献: 上海 多国籍都市の百年
さて、こういう土地で生まれた音楽が、中国の伝統的な歌唱に、西洋で流行していたジャズのメロディや、映画音楽を取り入れたようなポップスです。この楽曲は当時は時代曲(Shidaiqu)という名前で親しまれました。では、最古のC-POPと思われる、「毛毛雨」(1927年)を聴いてもらいましょう。
最古の時代曲「毛毛雨」と、作曲者・黎錦暉
毛毛雨/黎明暉(Li Minghui)(1927年)
「毛毛雨」は、中国最初期の時代曲にして、C-POPの原点となる最重要曲です。黎錦暉が作詞・作曲し、娘の黎明暉が歌ったこの曲は、1927年に発表され、中国最初のポップスとも呼ばれています。現在よく聴かれる音源は、西洋の流行を取り入れたビッグバンドジャズ風で、当時の豪華絢爛な上海租界が思い浮かびます。
「毛毛雨」とは、日本語でいえば霧雨のことです。歌われているのは、霧雨のなかで愛する人を待つ女性の心情。現代の感覚でいえば、ありふれた恋の歌にも思えますが、男女の自由な恋愛を正面から描いたことは、儒教的な価値観が根強かった当時としては新鮮でした。
夜会やダンスホール、レコード産業やラジオ放送の熱気を想像しながら聴きたい曲です。まだポップスというものを知らなかった100年前の人々は、このモダンな曲をどんな気持ちで聴いていたのでしょうか。
「毛毛雨」は1920年代後半に舞台で歌われ、その後、レコードにも録音されました。また、時代とともに編曲を変えた複数の録音が残っています。いま聴いていただいている、管楽器を加えたジャズ風の音源は、1934年に録音されたバージョンです。

ここで、作詞・作曲を手がけた黎錦暉について触れておきましょう。
湖南省湘潭に生まれた黎錦暉は、幼いころから中国各地の民謡に親しみ、国立高等師範学校を卒業した後、教育や国語普及の仕事に携わりました。1916年には北京大学管弦楽団に入団します。当時の北京大学では、儒教的な伝統を見直し、新しい中国文化を作ろうとする新文化運動が盛り上がっていて、彼もその空気から大きな影響を受けました。
黎錦暉は、音楽を子どもの教育や国語の普及に生かそうと考え、児童向けの歌や歌舞劇を数多く制作します。1922年には児童雑誌『小朋友』を創刊し、初代主編を務めました。さらに、子どもたちによる歌舞団を組織し、中国各地で公演を行います。
その中心的な歌手となったのが、娘の黎明暉でした。女性が舞台に立って恋愛の歌を歌うこと自体、当時としてはまだ大胆なことでしたが、黎錦暉は批判にひるまず、娘をスターへと育てていきます。
そんななかで生まれた「毛毛雨」は、黎錦暉が培ってきた思想、民謡、国語教育、児童歌舞劇、そして黎明暉の人気が結びついて生まれた曲でした。
つまり時代曲、さらにいえばC-POPは、中国の民間音楽の伝統と、近代都市のモダニズムが交わる場所から生まれた音楽だったのです。
時代曲の最盛期(1940年代)と「七大歌星」
上海では1920年代にラジオ放送が始まり、1930年代に入ると商業放送が盛んになりました。レコードやラジオを通して音楽を楽しむ人が増えるなか、作曲や編曲の技術、歌手たちの歌唱法も徐々に洗練されていきます。
当時の中国レコード業界を代表する大手企業だった百代も、時代曲の制作に惜しみなく資金を投入しました。こうして発展を続けた上海時代曲は、1940年代に絶頂期を迎えます。
当時ヴォーカルを担っていた女性は「歌星」(ミュージックスター)と呼ばれ、大変な人気がありました。なかでも特に人気だった7人の女性歌手は、「七大歌星」と呼ばれるようになりました。当時の“神セブン”ですね。
七大歌星
・白虹(Bai Hong)1931年デビュー
代表曲/「醉人的口红」「郎是春日风」
・周璇(Chow Hsuan) 1932年デビュー
代表曲/「何日君再来」「天涯歌女」
・龚秋霞(Gong Qiuxia)1933年デビュー
代表曲/「夢中人」「秋水伊人」
・姚莉(Yao Lee) 1935年デビュー
代表曲/「玫瑰玫瑰我爱你」「恭喜恭喜」
・李香兰(Lei Heunglan) 1938年デビュー
代表曲/「苏州夜曲」「夜来香」
・白光(Bai Guang) 1943年デビュー
代表曲/「等着你回来」「如果没有你」
・吴莺音(Wu Yingyin) 1945年デビュー
代表曲/「大地回春」「明月千里寄相思」
※曲名で太字のものは、後ほど紹介します。
名前だけを並べると古典の人物のようにも見えますが、当時の彼女たちは、まぎれもないスターでした(冒頭の画像は、七大歌星をイメージしてAIで作られたものです)。
白虹は、七大歌星のなかでも特に早くから活躍した歌手の一人です。声楽を学び、楽器演奏にも通じ、作曲も手がけた才女でした。
李香兰は、日本では李香蘭、あるいは山口淑子として知られています。満州生まれの日本人でしたが、中国語名で女優・歌手として活動し、やがて上海にも進出しました。のちに七大歌星の一人に数えられるようになります。戦後は日本に帰国し、山口淑子として活動を続けました。
7人のなかでも、特に人気が高かったのが周璇です。彼女の歌声は「金嗓子(Golden Voice)」と呼ばれ、広く親しまれました。周璇は当時を代表する美女としても知られ、親しみやすく庶民的なイメージも相まって、絶大な人気を誇りました。
一方、姚莉は「銀嗓子(Silver Voice)」と呼ばれました。当時の人気では周璇に及ばなかったものの、現代の耳で聴くと、姚莉のほうが馴染みやすいと感じる人も多いのではないでしょうか。
7人のなかから私の推しを一人打ち明けるなら、姚莉です。このあと紹介するディスクガイドを参考に、ぜひそれぞれの歌声を聴き比べてみてください。当時の人気と現代の感覚とのズレが見えてくるのも、この時代の音楽を聴く面白さの一つです。
参考文献:チャイニーズ・ポップスのすべて

この後、七大歌星の曲を中心に、当時の大ヒット曲や、現在でも支持される名曲を中心に、当時の名曲を8曲ほど紹介します。
何日君再来/周璇(1937年・映画公開年)
これぞ中国国民のソウルミュージック!
「何日君再来(ホーリー・ジュン・ザイライ)」は、映画『三星伴月』(→百度百科「三星伴月」)のために作られた楽曲で、作曲は劉雪庵。当時の大スター、周璇が歌い、中国最初期の大ヒット曲の一つとなりました。
聴きどころは、冒頭のソロから周璇の歌に寄り添い続けるアコーディオンです。若い周璇の歌声に、哀愁と深みを与えています。歌われているのは、別れを前にした宴のひとときです。「今夜別れたあと、いつまたあなたに会えるの?」と、再会の日を問いかけています。切ないですね。
曲の途中では、男性の声が「さあ、この一杯を飲み干してから話そう」「もう一杯どうぞ」と合いの手を入れます。別れを惜しむ女性に酒を勧め、最後の時間を引き延ばそうとしているようにも聞こえます。
すでに90年前の映画のために作られた一曲が、これほど長く歌い継がれる古典になろうとは、作曲者も想像していなかったのではないでしょうか。
この曲は、現代ではどちらかと言えばのちにカバーしたテレサ・テンの曲として有名です。テレサ・テン版は少し歌詞を変更し、1978年に発表されます。原曲の発売から40年近く経って再び注目を集め、現代もC-POPの古典として歌い継がれています。周璇ヴァージョンと比べると歌声も伴奏も現代的になってますが、それでもすでに半世紀近く前の録音になろうとしています。
上海で生まれた曲が、台湾出身の歌手によって再び大ヒットしたこと。それ自体が、この曲が一つの都市や時代を超え、中国語圏全体で愛される古典になったことを物語っているように思います。
天涯歌女/周璇(1937年・映画公開年)
映画『馬路天使』の劇中歌の一つ。二胡を取り入れた哀愁のある伴奏が、周璇のあどけない歌声を優しく導いているように聴こえます。
歌詞は、愛しい人と離れていても、二人の心は一つだと思いを伝える内容です。「天涯」とは空の果て、転じて遠く離れた土地や異郷を指します。この曲は最初は「天涯歌」と呼ばれていたのに、なぜか途中で「女」が加わり、「天涯歌女」と呼ばれるようになりました。歌詞の意味的には女がないほうが通ると思います。ま、このあたりも歴史のミステリーですね。
映画の題名『馬路天使』には、表向きは「街頭の天使」という風情のある響きを感じますが、もう一つの意味として、路上で身体を売る街娼を指す俗語としての意味が重なっています。周璇は、貧しい姉妹の妹・小紅を演じました。姉は娼婦として働き、小紅は茶楼で歌いながら暮らしています。
劇中では、向かいの建物に住む小陳に向け、小紅が「天涯歌女」を歌います。小陳も二胡で応え、歌を通して二人の心が通じ合っていく。映画史に残る超・超・超・名場面なので、ぜひ曲とあわせて観ていただきたいです。
玫瑰玫瑰我爱你/姚莉(1940年)
国民的名曲が続きます。
「玫瑰玫瑰我愛你」は、作詞・呉村、作曲・陳歌辛(Chen Gexin)、姚莉(Yao Lee)の歌唱による、上海時代曲を代表する一曲です。映画『天涯歌女』の挿入歌として作られましたが、思わず口ずさみたくなるキャッチーなメロディーを持ち、映画を離れても長く愛される大ヒット曲となりました。
先ほどの「毛毛雨」や「何日君再来」の現代のヴォーカルと違う歌声にちょっとビビった人も、この曲は心地よく聴けるのではないでしょうか。姚莉の歌声にはしっかりと抑揚があり、現代のポップスに通じる歌い方です。
姚莉は、七大歌星のなかでも特に長く活躍した歌手の一人です。戦前の上海から戦後の香港へと活動の場を移し、上海時代曲の命脈を香港へつないだ存在でもありました。
また、「玫瑰玫瑰我愛你」は、カバーの多さでも時代曲屈指の一曲です。のちには英語詞を付けた「Rose, Rose, I Love You」としてアメリカでもヒットし、中国語ポップスとしては異例の国際的な広がりを見せました。
Rose, Rose, I Love You/Frankie Laine(1951年)
英語版の「Rose, Rose, I Love You」は、アメリカのビルボードチャートで3位まで上昇。中国で生まれた楽曲としては、C-POP史上初の世界的ヒットと呼んでよいでしょう。
東西の距離が今よりはるかに遠かった時代、この曲を欧米へ紹介したのは、オーストラリア出身のラジオ司会者、Wilfrid Thomasでした。香港で姚莉のレコードを見つけた彼は、それをイギリスへ持ち帰ってBBCの番組で紹介し、新たに英語詞を書きました。やがてFrankie Laineが歌い、アメリカでも大ヒットします。
原曲では、薔薇の美しさと力強さを女性に重ねて歌っていますが、英語版では、東洋の女性との別れを惜しむ西洋人男性の物語へと作り替えられています。面白いのは、原曲で、「薔薇薔薇」を意味する「méigui méigui」と歌い出すところを、一番で「Rose, Rose I Love you〜」と訳していますが、二番では「Make way, oh make way」と歌い出し、元の歌の音に寄せようとしています。この工夫には、原曲へのささやかなリスペクトを感じます。
英語の歌として聴いてみると、当時のアメリカのポピュラーソングだと言われても、ほとんど違和感がないことに気づきませんか? 歌詞とアレンジを替えただけで、欧米のヒットチャートに自然に溶け込んでしまう。そこからも、当時の上海歌謡界の楽曲レベルの高さが感じられます。
苏州夜曲(蘇州夜曲)/白虹(1943年)
日本の西條八十と服部良一という名コンビが、蘇州の夜を夢想して作り上げた屈指の名曲。もともとは1940年の日本映画『支那の夜』のために作られ、劇中では李香兰が日本語で歌いました。レコード版を歌ったのは渡辺はま子と霧島昇です。
その3年後の1943年、滌亜が中国語詞を付け、白虹の歌唱による中国語版がリリースされました。中国語版は、日本語版ほど広くヒットしたわけではありませんが、現在まで多くの歌手に歌い継がれています。
蘇州は上海の西に位置する水郷都市です。大小の水路や運河が街を縦横に走り、古くから舟が人や物を運んできました。その水辺の風景から、「東洋のヴェネツィア」とも呼ばれています。異国情緒に満ちた名曲。
ロシア系の声楽家に師事し、ベルカント唱法を身につけたとされる白虹の歌声は、優しく悠々としています。遠い異国を流れる、ゆるやかな水の流れを思わせる歌唱です。李香兰の日本語版と白虹の中国語版を、ぜひ聴き比べてみてください。
日本で作られた曲に上海で中国語詞が付けられ、現地の人気歌手によって録音された。戦争のさなかにも、日中の音楽文化が複雑に交わっていたことが分かる一曲です。
どちらも素晴らしい楽曲ですが、楽曲単体なら、白虹が歌う中国語版に軍配が上がるような気がしますがいかがでしょうか?

夜来香/李香兰 (1944年)
当時の上海の時代曲、いや、100年の歴史を持つC-POPの中でもとびきりの名曲。
夜来香(イェライシャン)とは、夜に甘い香りを放つキョウチクトウ科の植物の名前。その香りのなかで愛しい人を思うという、普遍的な歌詞が心に沁みます。「玫瑰玫瑰我爱你」が英語でカバーされ、アメリカでヒットしたのに対し、この曲は中国語圏で数多くカバーされ、日本・韓国・タイなどでもカバーされました。まさに汎アジア的名曲と呼べるでしょう。
李香兰(繁体字で李香蘭)の歌声は、よく統制されたソプラノ風の発声で、その端正な歌唱が、この曲の持つアダルトで妖艶なムードによくハマっていると思います。
実はこの曲は作曲家の黎锦光が書き上げて、周璇や龚秋霞、姚莉らに試唱してもらったものの、音域が広く歌いこなすのが難しかったため、なかなか録音されなかった曲なのです。そこへ李香兰が現れ、この難曲を見事に歌いこなしたことで、正式に世に出ることになります。こんな大名曲がひょっとしたら永遠に世の中に出ない可能性があったなんて驚きですね!
李香兰(繁体字では李香蘭、日本語名は山口淑子)の人生は、中国と日本の戦前−戦後の歴史そのものです。中国語と日本語に堪能だった彼女は、日本人の両親から満州に生まれた日本人で、13歳ごろから満州のラジオ放送で歌うようになります。やがて中国語の能力、歌唱力、美貌を見込まれ、1938年に満洲映画協会の女優としてデビュー。日本人でありながら、中国人女優「李香蘭」として売り出され、その歌声は満洲、日本、中国各地で評判となります。こうして、本人の意思を超えて、東アジア全体のスターになってしまったのです。中国人だと誤解されたことで、戦後は、中国人なのに日本に協力した疑いをかけられました。日本人であることが証明されたため、日本へ帰国します。その後は山口淑子として、日本の芸能界で活動を続けました。中国人女優としてあまりにも有名になったため、現在でも李香蘭を中国人歌手だと思っている人は少なくありません。
中国を代表する曲が、日本と満州にルーツを持つ歌手によって歌われていたことは、日中の不思議な縁を感じずにはいられません。
いくつか有名なカバーを紹介します。
こちらは、香港の歌手、方逸華(Mona Fong)が1960年代に歌った「夜來香」です。戦乱の時代を終え、繁栄へ向かっていた香港の夜を思わせます。
原曲よりも低いキーで歌われ、言葉と言葉の間に余白を残したムーディーな歌唱です。中国語と英語が交じり合い、上海の国際的なムードを戦後に引き継いだ、香港のエキゾチックな空気によく似合っています。
こちらは、1991年に発表された、香港の大スター・林憶蓮(Sandy Lam)のカバーです。大胆なアレンジと彼女のウィスパーボイスがよく合い、まるで最初から彼女のために作られた曲だったのではないかと思うほどです。
戦前のわずかな期間だけ存在した上海の儚げなムード。かつて世界有数の国際都市として繁栄した上海を鎮魂するような、不思議な色気をまとった楽曲に仕上がっています。
この曲のアレンジは、華人系シンガポール人のDick Leeです。Dick Lee自身もかなり面白い楽曲を歌っていて、それはこの連載中のどこかで紹介しますね!
さらに面白いのは、2000年にタイのアイドルによってカバー、というより、旋律が大胆に引用されます。
タイのR&Bシンガーソングライター、Boyd Kosiyabongが『夜来香』の旋律を引用し、女性デュオの歌唱によって現代によみがえらせた意欲的な曲。
あえてこの曲を紹介するのは、1940年代の旋律であっても、アレンジを変えれば現代に十分通用することを証明しているからです。通用するどころか、56年という時間を経たことでヴィンテージ感まで加わり、エキゾチックが止まらない!
夜上海/周璇(Zhou Xuan)(1946年)
意外なほど少なかった、上海ご当地ソングの決定版。
「夜上海」は、上海の映画人が香港で制作した映画『長相思』の挿入歌として作られました。映画は1947年に公開され、戦争に翻弄される夫婦と、その親友の関係を描いています。香港で作られた曲ともいえますが、映画の舞台も曲名も上海なので、ここで紹介します。
作曲は陳歌辛。ジャズがふんだんに取り入れられ、不夜城・上海のきらびやかな夜を思わせます。ブギの要素が顔を出す一方、中国民謡を思わせる旋律も垣間見える。中国と西洋の音楽を、実に巧みに組み合わせた曲です。
一方、歌詞では、華やかな上海の表側と、その裏にある歌姫の悲哀を同時に描いています。
そして、「何日君再来」「天涯歌女」で見せたあのあどけない周璇の歌声は、もうここにはありません。一段と大人びた歌唱に変わっています。明るく軽快な演奏のなかに、どこか寂しさをにじませる歌唱が、この曲のアダルトなムードによく合っています。
恭喜恭喜/姚莉、姚敏(1946年)
「恭喜恭喜」は、現在では中国の春節、つまり旧正月の定番曲として知られています。のちに数多くの歌手によってカバーされましたが、原曲は上海時代曲の時代、1946年に誕生しました。作詞・作曲は、「玫瑰玫瑰我愛你」と同じ陳歌辛。この方の希代のポップセンスが、上海時代曲の黄金時代を支えていたといってもよいでしょう。
姚莉とデュエットする男性歌手の姚敏は、彼女の兄にあたります。姚敏は歌手としてだけでなく、のちに作曲家としても活躍し、次回第2回で紹介する戦後香港の時代曲において、楽曲制作の中心人物となる人物です。
この曲の面白いところは、祝賀歌でありながら、短調の旋律にどこか哀愁が漂っていることです。歌詞では、「冬が終わり、春風が大地を目覚めさせる」と歌われています。実はこの曲は、長い抗日戦争が終わったことを祝って作られた曲でもあります。厳しい冬を戦争に、春の訪れを平和の到来に重ねているのです。
しかし、歌詞には戦争や勝利を直接示す言葉がありません。「おめでとう」と繰り返しながら、新しい季節と生活の始まりを祝う。そのため、時代背景を知らない子どもから大人まで、純粋な春節の歌として楽しむことができます。
戦争の記憶を含みながら、誰もが口ずさめる普遍的な祝歌に仕上げたところに、陳歌辛の間口の広さと奥深さを感じます。
現在も多くの人に親しまれ、少し意外なところでは、ラップや現代のポップスのなかで引用されることもあります。台湾のベテランシンガー、任賢齊(Richie Ren)と、香港のラップデュオ、農夫(FAMA)が旧正月にコラボした紅包拿來でも、「恭喜恭喜」が引用されています。
大地回春/吴莺音(Wu Yingyin)(1947年)
七大歌星のなかで最も遅くデビューした呉鶯音は、「鼻音歌后」の異名を持ち、少し鼻にかかった歌声を特徴とする歌手です。
作曲を手がけた姚敏は、日本の作曲家・服部良一から作曲を学んだともいわれています。そのためか、この曲にはどこか日本の童謡にも通じる、素朴で親しみやすい響きがあります。姚敏はこのあと、第2回で大活躍するので、覚えておいてください。
「大地回春」とは、冬を越えた大地に再び春が訪れること。柳や山、水、小鳥など、春を迎えた自然の喜びを明るく歌い上げています。現在も春節を祝う曲として、中国語圏だけでなく、北米など海外の中国系コミュニティで春節を祝う歌として人気があります。
その理由を推察するに、「恭喜恭喜」よりも明るい長調で、大地や自然の再生に目を向けていることにあるのではないでしょうか。戦争や政治を直接連想させる要素が薄く、立場や時代を越えて、純粋な新年の喜びとして楽しむことができます。徹底した祝歌!
共産党支配と上海歌謡界の終焉
こうして数々のスターと名曲を生み出してきた上海歌謡界ですが、1940年代末、その繁栄は急速に終わりへと向かいます。
皮肉にも、そのきっかけとなったのは、第二次世界大戦の終結でした。日本の敗戦によって上海に暮らしていた日本人の多くが引き揚げ、その後、中国では国民党と共産党による内戦が再び本格化します。
1949年、共産党が内戦に勝利し、中華人民共和国が成立しました。敗れた国民党の中華民国政府は台湾へ移転し、以後、中国本土と台湾には異なる政府が並び立つことになります。
新しい共産党政権は、上海時代曲を、資本主義社会が生み出した退廃的な文化として批判しました。こうして、レコード会社や映画会社の活動環境も大きく変わり、上海ではそれまでのような自由な商業音楽を作ることは難しくなりました。音楽家や歌星の多くは香港へ移り、新しい活動の場を求めます。
一方、中国本土では、革命や労働、祖国建設を歌う音楽が中心となりました。音楽そのものが消えたわけではありませんが、恋愛や都市生活を自由に描いてきた上海時代曲のような商業ポップスは、表舞台からほぼ姿を消します。そこから改革開放が進められる1980年代頃まではC-POP的には暗黒時代を迎えます。
こうしてC-POPの中心地は、上海から香港へと移っていきます。第2回では、舞台を香港に移し、戦後、香港で生まれた時代曲たちを取り上げます!
恭喜恭喜で綺麗な歌声を披露していた姚敏が大活躍する時代の始まり。乞うご期待!
現代の上海時代曲
上海時代曲は、もはや遠い昔の音楽です。しかし、その異国情緒に惹かれるファンは、今も少なくありません。
2007年公開の映画『ラスト、コーション』(原題『色、戒』)も、この時代の上海と香港を背景に物語が展開する作品です。劇中には「天涯歌女」を歌う場面もあり、上海時代曲の記憶が、今なお人々のなかに残っていることを感じさせます。
今回紹介した曲のなかには、現在も春節、つまり旧正月に歌われている曲があります。また、ここでは紹介しきれなかった例として、中国系アメリカ人の二人組が時代曲をエレクトロニック音楽やハウスの感覚で再構築する、The Shanghai Restoration Projectのような試みもあります。それは、上海時代曲を単なる懐メロとして保存するのではなく、現代の音楽としてもう一度蘇らせようとする試みです。
名曲が語り継がれ、新しい形で演奏され続ける限り、「夜来香」の響きは、まだ鳴り止んでいません。
