第25集 走れ、幸吉━━ある補給係の記憶━━|第三話 よしこという名前
作者:ビリケン(ランニング社会学*を研究する元漁師)
第三話 『よしこという名前』
東京五輪の後、幸吉から何かが削れていった。
腰痛。
アキレス腱炎。
練習を休む日が増えた。
畠野コーチの転任。
進んでいた結婚話の破談。
北川はそれらを食堂越しに見ていた。見ていることしかできなかった。
「補給の人間が、走る人間の体や心に口を出せる場所はありません。私は物を管理する人間で、幸吉は走る人間でした。それは変わらない」
それでも北川は、幸吉が婚約者の名前を口にするとき顔が緩むことを知っていた。
よしこ、という名前だった。
「普段の幸吉には緊張があるんです。自分に要求し続ける男の、体の芯にある緊張が。その名前を言う瞬間だけ、解けました。それだけで十分だと思っていました」
破談になった。
上からの意向が絡んでいたと、北川は後になって知った。
「その夜、幸吉は食堂に来ませんでした。席が空いたままでした。翌朝、雨の中を走っていました。私は補給棟の窓から見ていました。何も言えなかった」
北川はその夜、台所で鶏を煮たという。体に入るものを、ただ作りたかった。
幸吉が夜に食堂へ顔を出したとき、余ったからと言って皿を置いた。
「全部食べて、うまいです、とだけ言いました。それだけで、よかったんです」
私はその夜、鶏もも肉を塩で煮た。
生姜と長ねぎを入れて弱火でゆっくり。火を止めてからランナーズスパイスを加え、蓋をしたまま蒸らした。
誰かに出したくなる味だった。
【レシピ】スパイス鶏の塩煮
<材料>
・鶏もも肉 2枚
・塩 小さじ1
・ランナーズスパイス 小さじ2
・生姜 1片(薄切り)
・長ねぎの青い部分 1本分
・水 600ml
<作り方>
1.鍋に水、塩、生姜、長ねぎを入れて中火にかける。
2.沸いたら鶏もも肉を入れ、蓋をして弱火で20分ゆっくり煮る。
3.火を止めてランナーズスパイスを加え、5分蓋をしたまま蒸らす。

雨の窓を伝う音と、湯気のやさしさが静かに重なります。
素材の味をまとめやすく、煮込み料理にも使いやすいスパイスです。
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▶ 次の話 【走れ、幸吉━━ある補給係の記憶━━|第四話 疲れ切ってしまって】は、7/24(金)7:00に公開予定!
*「ランニング社会学」とは、走ることを通じて社会を観察し、社会を通じて走ることの意味を解き明かすこと
