第25集 走れ、幸吉━━ある補給係の記憶━━|第五話 遺書の中の食べ物
作者:ビリケン(ランニング社会学*を研究する元漁師)
第五話 『遺書の中の食べ物』
一九六八年一月九日、幸吉は死んだ。
二十七歳だった。
自衛隊体育学校の自室で、カミソリで頸動脈を切って死んでいた。
死亡推定時刻は前日の夜十一時。
翌朝、発見された。
「報せを聞いたとき、足音が聞こえてきました。夜明けのグラウンドの、静かな足音が」
北川は窓の外を見て、そう言った。
晩秋の須賀川に、風が吹いていた。
遺書の内容を、北川は後日、上官から概要を聞かされた。
家族宛の文章は食べ物の話から始まっていた。
三日とろろが美味しゅうございました。
干し柿が美味しゅうございました。
餅が美味しゅうございました。
父と母と兄と姉の名前を全員書いて、ご馳走になった食べ物への礼を一つ一つ丁寧に書いた。
幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません、と書いていた。
何卒お許し下さい、とも。
父母の側で暮らしとうございました、という言葉で締めくくっていた。
「あの男に最後まで残っていたのは、走ることへの意地じゃなかった。食べることの記憶でした。誰かに作ってもらった、温かいものの記憶でした」
北川の声が、そこで初めてかすれた。
「お許しくださいなど、言わなくてよかった。だが幸吉は言った。それが、幸吉という男でした」
インタビューの翌夜、私は豆腐と残り野菜で味噌汁を作った。白味噌と合わせ味噌を半々に。火を止めてからランナーズスパイスをひとつまみ。
一人で、ゆっくり飲んだ。
北川が何十年も一人で作り続けてきた汁の味を、少しだけ想像した。
【レシピ】豆腐と残り野菜のスパイス味噌汁
<材料>
・豆腐(絹ごし) 半丁
・残り野菜(白菜、ねぎ、にんじんなど) 適量
・だし汁(鰹節・昆布) 600ml
・白味噌 大さじ1、合わせ味噌 大さじ1
・ランナーズスパイス 小さじ2
<作り方>
1.だし汁を中火で温め、野菜を入れてやわらかくなるまで煮る。
2.豆腐を手でちぎって加え、ひと煮立ちさせる。
3.火を止めて味噌を溶き、ランナーズスパイスを加える。

━━エピローグ━━
五度にわたってインタビューさせてもらった須賀川の食堂で、北川は最後にこう言った。
「私は走る人間じゃありませんでした。だから幸吉の世界には入れなかった。入れなかったから、ずっと見ていられた。それだけです」
老人はそう言うと立ち上がり、背筋を真っすぐにして帰っていった。
十一月の風の中を、ゆっくり歩いていった。
私はしばらく席に座ったまま、窓の外を見ていた。
幸吉の墓は、この町にある。
十念寺という寺に眠っている。
君原健二が毎年墓参に来て、缶ビールを半分飲んでから墓前に供えるという話を、私は取材の前に読んでいた。
円谷のために走った、とメキシコの銀メダリストはつぶやいたという。
走れない北川が見続け、走った君原が供え続けた。
幸吉は走ることで一人になり、一人になることで走った。
疲れ切ってしまって走れません、と書いた男の最後の言葉が、食べ物への感謝だったことを、私はこれからも忘れないだろう。
走れ、幸吉。
今度は、誰にも許しを乞わなくていい場所で。
━了━
(著者注)
本作は、円谷幸吉という実在の人物の生涯と、記録に残された史実をもとに構成した架空のルポルタージュです。
登場する元補給係・北川誠、および記者は、いずれも架空の人物です。北川誠の証言として書かれたすべての言葉、食堂での会話、補給棟の窓から見た情景、手渡された椀のやりとり、これらは実際には存在しません。
史実として用いた事柄、東京五輪での銅メダル、畠野コーチとの信頼、破談となった婚約、腰痛とアキレス腱の故障、兄への手紙、一九六八年一月九日の死、そして遺書の言葉は、複数の文献と記録に基づいています。ただしその解釈と描写は、著者の想像によるものです。
円谷幸吉は、走ることに誠実だった人間でした。
国威のために走ることを求められ、結婚を妨げられ、信頼するコーチを失い、それでも走ろうとした。走れなくなったとき、許してくださいと書いた。その言葉の重さを、私たちは軽く扱うべきではないと思います。
遺書の最後の一文は、父母の側で暮らしとうございました、でした。
メダルでも記録でも名誉でもなく、ただ家族の側にいたかった、という言葉で締めくくられた二十七年の生涯を、本作は架空の語り手を通じて追いました。それが敬意の払い方として適切だったかどうかは、読んでくださった方の判断に委ねます。
円谷幸吉の魂が、須賀川の土の上で、誰にも何も求められることなく、ただ静かに走っていることを願います。
※「ランナーズスパイス」は実在の商品です。本作中の使用はすべてフィクションであり、円谷幸吉および関係者とは一切関係ありません。
須賀川の風のように、食卓の記憶が静かに胸に残ります。
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*「ランニング社会学」とは、走ることを通じて社会を観察し、社会を通じて走ることの意味を解き明かすこと
