【揺れる灯 サイドストーリー】第一話 キャメル色の背中
※この作品は、本文・イラスト・楽曲の情緒を同期させて読む短編です。
曲を知らなくても読めますが、音楽と重ねることで、駅のホームで過去を見送る人物の感情がより立ち上がるよう構成しています。
※竹内まりや「駅」を流しながら読むと、物語の温度が静かに重なります。
とくに2番の情緒と響き合うように構成していますが、好きなように聴きながらお楽しみください。
これは、『揺れる灯』のメインヒロイン・吉野美桜の、小さな冬の物語です。
コンコースから続く階段を降りると、埃っぽい冷気が肌を刺した。

吐く息が白く濁り、マフラーの襟元で薄くほどける。
行き交う人々の硬い靴音が、コンクリートの床で均等なリズムを刻んでいた。
電車の到着を待つ人の列。
誰かの咳払い。
遠くで鳴る、乾いたアナウンス。
冬の駅には、音だけが残る瞬間がある。
冷えた指先を、コートのポケットの奥に沈める。
電光掲示板の黄色い文字が、機械的に点滅していた。
整列乗車の列。
その少し先。
古い、キャメル色のコート。
人の流れの中で、その背中だけが残った。
足音だけが残り、ほかの音は冬の冷気に消えた。
少しだけ前傾した立ち姿。
見間違えるはずがない。
あの言葉を残して、この場所から去っていった男だった。
――つまんねー女。
乾いた空気を震わせるように、いつかの声が鼓膜の裏側で反響した。
胃の腑に、鈍い冷たさが落ちる。
ポケットの中の指先から、急速に熱が奪われていく。
肩から提げたバッグの持ち手を、意味もなく握り直した。
革の冷たい感触が、手のひらにわずかに食い込む。
バッグの持ち手を握る指に、震えは来なかった。
前の客が進み、キャメル色の肩越しに横顔が見えた。
くすんだ肌。
目の奥の光は弱く、焦点だけが列の先を追っていた。
そこにいたのは、あの言葉ごと、私の中に居座っていた男ではなかった。
ホームの蛍光灯の下で、少し老けた、ありふれた一人の男が、ただ順番を待っていた。
不思議と、息苦しさはなかった。
私の隣には今、不器用で、面倒くさくて、それでも、私の今を温めている人がいる。
その確かな体温の記憶が、冷え切った指先に、ゆっくり血を巡らせていく。
プルー、と。
無機質なアナウンスと共に、電車の接近を告げる風が、黄色い線の内側へ吹き込んだ。
マフラーの端が、小さく揺れる。
ドアが、重い音を立てて開いた。
彼は気だるい足取りのまま、車内へと吸い込まれていく。
私は彼に声をかけることなく、別の車両のドアへ静かに歩き出した。
車内に乗り込むと、ドアが閉ざされた。
微かな発車ベルの音が、冬の埃っぽい冷気の中に紛れていく。
窓ガラスの向こう側で、古いキャメル色のコートの背中が、ゆっくりと後方へ滑り去っていった。

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【揺れる灯】吉野美桜と神崎漣がすれ違う、苦い恋物語
全7巻予定。KDPにて5巻まで公開中。
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