待ち合わせ/認知症
待ち合わせは、昨日だった。
最初は物忘れが増えたな、くらいに思っていた。
年齢のせいだね、と笑っていた。
記憶の引き出しが、
少し引っかかっているだけだと思っていた。
開くたびに軽くなっていった。
ある日、妻が言った。
「今日、健太は帰り遅いの?」
健太は妻の隣でテレビを見ていた。
「もう帰ってるよ」
妻はテレビの前の健太を見た。
「そうだったね」
それから、何も言わなかった。
別の日、妻は次男を見て、長男の名前で呼んだ。
次男は返事をしなかった。
妻は、もう一度、同じ名前で呼んだ。
次男は、私の方を見た。
「お母さん、疲れてるんじゃない?」
小さな声だった。
「ごめんね」
誰に言ったのかは、分からなかった。
妻は朝起きて、朝食を作った。
味噌汁の味は、何も変わらなかった。
ある日、妻は洗濯機の前で立っていた。
「どうやるんだっけ」
私は、ボタンを押して見せた。
「ありがとう」
私は、頷いた。
その日の午後、妻は買い物に行った。
帰ってきたときに、何も持っていなかった。
「買い物は?」
と聞くと、妻は少し考えてから、
「忘れちゃった」
と言った。
ある日、妻は帰ってこなかった。
電話をかけると、知らない男の声が出た。
駅の近くだった。
妻は、ベンチに座っていたらしい。
迎えに行くと、妻は私を見て言った。
「すみません」
私に言ったのかは、分からなかった。
帰り道、妻は家の前で立ち止まった。
「おかえり」
と言うと、妻は頷いた。
妻は私の名前を呼ばなくなった。
「ねえ」
私は、そのたびに返事をした。
ある日、妻は玄関で靴を履いていた。
靴紐が片方だけほどけていた。
「どこに行くの?」
「待ち合わせ」
妻は迷わず歩いた。
駅の前のベンチに座った。
しばらくして、妻は私を見た。
そして、私の名前を呼んだ。
その呼び方は、昔と同じだった。
「遅いよ」
「ちゃんと来てくれると思ってた」
私は、隣に座った。
妻は、安心したように頷いた。
それから、何も言わなくなった。
もう、私を見ることはなかった。
待ち合わせは、確かに昨日だった。
妻は、笑っていた。
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