ギャツビー大王―倒置された題名と、アメリカの神話について
三十三歳の私は、いまもニックとギャツビーの側にいる。彼が密造酒業者だったのか、本当に自分の手で人を殺したのか、ドイツ皇帝の甥だったのか――それを詮索することは、私にとって意味がない。あの「途方もない虐殺」は、ギャツビーの運命の取り分として妥当なのか。ニックは哀悼と崇拝を選ぶ。ギャツビーに敵対できる者など、誰だというのか。この小説はロマンス小説の構成を持ちながら、残念ながら愛の物語とは言いがたい。『赤と黒』に似た小説である。これは、ひとりの人間の生涯と、ひとつの時代の終わりを悼む、燦然たる弔辞なのだ。ギャツビーのような子どもたちは、自分の生物学的な父よりも、自分の時代のほうに似る。ニックはギャツビーとは違う人生を生きた。彼は父のほうに似た。しかしニックは、ギャツビーのために、そして過去と未来の友人たちのために、この文章を残す。次の時代にも繰り返し殺されるであろうギャツビーのために。しかし、いつかの時代には自分の一生ぶんを生きて死ぬであろう、自らの卓越のぶんだけ、自らの希望のぶんだけ偉大になるであろうギャツビーのために。
ニックは言う。「いや――結局、ギャツビーは正しかった」と。人生ですでに何かを成し遂げた者たちにとって、過去が繰り返されないことは、単なる倦怠であり、憂鬱や失望にすぎない。しかし、まだ何も成し遂げていない、これから成し遂げようとする者にとって、歴史は繰り返されなければならないのだ。その果てが結局これだけのものかと失望できるのは、すでに持っている者の視線にすぎない。過ぎ去った過去のなかでさえ、自分にとって楽な暮らしだけを生きていたいのなら、その者はきっと、車庫を壊して厩舎を建てるトムのような行動を取るだろう。ギャツビーの世界は違う。彼は欲望するがゆえに、希望を捨てなかったがゆえに、成功と失敗の両方を味わうことになろうとも、生きてみるべきだと信じている。ニックの父の忠告のなかに、この教えはすでに含まれていた。ニックは言う。「過去は繰り返せません」。この点で、ニックは間違っている。ギャツビーは、誰ともまったく違う世界を生きているのだ。「過去が繰り返せないって? いや、繰り返せるとも!」
ニックは言う。ギャツビーだけが「希望に対する卓越した才能」を、「二度と見出せないだろうロマンティックな感受性」を持っていた、と。東部を去ったニックは、「汚れた塵」を後にして故郷に落ち着く。時が経ち、彼は「短い悲しみや息せき切った歓喜」を、ふたたび肯定できるようになった。ギャツビーはあの緑の灯を信じていた――年ごとに私たちの眼前から後ろへと退いていく、極みの歓喜をはらんだ未来を。それは私たちから逃げていったが、かまいはしない。明日はもっと速く走り、もっと遠くへ腕を伸ばすのだ……そしていつか、よく晴れたある朝には……こうして私たちは、潮流に逆らう舟のように、絶え間なく過去へと押し流されながらも、前へ、前へと進みつづける。なぜ自分たちが機会を求めて、ふたたび西部から東部へ発たねばならなかったのか、彼らは悟る。ギャツビーは汚名を着せられて死に、その葬儀には実の父と、たったひとりの友人しか立ち会わなかった。それでもなお――あなたはギャツビーのような生を、生きてみたいだろうか。
私の意見はこうだ。だから私は、ギャツビーは結局のところ密造酒業者かギャングにすぎないのではないか、デイジーを愛しているというのも途方もない言い訳にすぎないのではないか、という意見には与しない。もしデイジーがマートルを轢き殺していなければ、デイジーとギャツビーは幸せになれたはずだと私は信じる。『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラとレット・バトラーには及ばないにしても。結婚に対するギャツビーの挑戦は、許されないものなのか。デイジーが本当に「幸せすぎて体が痺れそう」なのだとしたら、法と道徳を大義名分に立ちはだかられても、私は彼の側に立てるだろう。金を使うことと贅沢な暮らしを楽しむこと以外に、トムとデイジーはただ怖ろしい結婚生活を続けているだけだ。だからこそ、ギャツビーを阻んだのが愛でも正当な結婚制度でもなく、犯罪だったという事実に、いっそう深い絶望を覚える。もうひとつの地獄のような結婚生活を送るウィルソン=マートル夫婦の生が、マートルとトムの姦通の罪の代価が、ギャツビーに被せられるのだ。この小説に、結婚生活における救いは見当たらない。だから私は、デイジーとギャツビーが互いの救いになれたとも思わない。別の問題の始まりにすぎなかっただろう、と見ている。
灰の谷から黄色いクーペを探しに出たウィルソンは、ギャツビーを銃撃して殺した。ウィルソンはT・J・エックルバーグ博士の両の眼を覗き込んで言った。「神さまは、すべてお見通しだ」。しかしウィルソンが教会に通っていたのは遠い昔のことで、彼は結婚式のときを除けば神の子ではない。彼は別の神を探し、その神は正しい啓示を降ろしてはくれなかった。ウィルソンはトムを信じ、結局、人を殺して自殺する。復讐はまったく果たせなかった。トムはウィルソンをあまりによく知っていた。ウィルソンは、なぜ生きているのかもわからない男だと。灰の谷であまりに長く生きて、眼が見えなくなってしまったのだと。ホテルのスイートルームでの事件があった日、ウィルソンの妻マートルが轢き逃げで死んだその日は、うだるように暑い、その夏の終わりの、まちがいなくいちばん暑い日だった。一行はみな汗にまみれ、自制心を失っていく。アルコールと暑さに浸りきっていた。その日デイジーは、毅然としながらもトムに「あなたを一度も愛したことはない」と告げ、ギャツビーには「ああ、あなたは望みすぎるのよ」と言う。まもなくデイジーは黄色いクーペで家路につく途中、轢き逃げを犯す。救助もせず、自首もしない。トムに寄りかかる。
「あいつらは腐りきった連中だ。君ひとりのほうが、あいつら全部を束にしたのと同じくらい立派だ」――ニックはギャツビーにそう言った。意味は微妙である。腐りきった連中を束ねたところで腐りきっているだけなのに、どうして「立派」だなどと言えるのか。ニックはこれを、自分がつねにギャツビーの行動に反対してきたことへの言い訳をしながら、それでもギャツビーを称賛できることばだと考えていたようだ。しかし、これがニックとギャツビーのあいだの最後の挨拶になる。そのためにニックは、いっそう深い自責に苛まれたことだろう。そしてギャツビーの死の場面が続く。私がこの小説でもっとも注目する箇所である。先立ってギャツビーはニックにこう言っていた。「プールに飛び込むのはどうです? 夏じゅう、一度も使わなかったんですよ」。ギャツビーは、夏じゅう使わなかったプールで死ぬ。もうすぐ秋が来るから、プールの水を抜かねばならない。ギャツビーは午前中ずっとデイジーの電話を待ったが、連絡は来なかった。ギャツビーは立ち上がり、エアマットレスを抱えてプールの水のなかへ入っていく。この直後の場面についての、作家の記述はない。読者が想像によって埋めるよう、空白が残されている。私は、ギャツビーが救済されるのだと想像する。
私は、汗だけでなく、執着と情念、こびりついた汚れた塵までもが洗い流されていくところを想像する。キリストを除くすべての司祭は、水によって洗礼を授ける。水は生命だ。しかしギャツビーは、ふたたび浮かび上がることができない。自らの生が蘇ったその瞬間に、沈んでいく。エアマットレスとその身体を貫いた銃弾を受け、血を流しながら、もう一度死んだ。浄化された魂として人生へ戻ってくることはできなかった。銃弾が彼を押しつぶした。よく、銃弾には眼がないと言う。だが、銃弾だけだろうか。多くの人間にも、まともな眼はついていない。いっそ眼を閉じて生きるほうがましなのかもしれない。希望の緑の灯を追っていけないのなら、判断せず、留保するほうがましなのかもしれない。この死がギャツビーの取り分として妥当だとは、私には信じられない。ニックがどれほど手を尽くしても、葬儀にはニックと父親のほかには誰も来なかった。ニックはギャツビーに、称号を捧げる。The Great Gatsby。私は、この題名が倒置されていると感じる。英語で人に「大王」の称号を冠するときは、Frederick the Great――フリードリヒ大王のように、「Gatsby the Great」と書くのが正式なはずだ。作家は、もうひとつの小説 Tender Is the Night(『夜はやさし』)でそうしたように、ここでも倒置法を使ったのだと私は見る。The Great Gatsby――このほうが、都市の闇のなかの帝王であったはずのギャツビーには、よく似合う。ほかのどの大王も、ギャツビーと同じではありえなかったのだから、ふさわしい題名である。
愛を成就させるためにパーティーを開き、ひとりで死んだ。しかし、人生の短い歓喜と絶頂を味わって死んだ。かつて、ギャツビーのように生きた人物がいただろうか。思い浮かばない。あれほど絶え間なく続く、大きく盛大なパーティーはなかった。これによってアメリカ文学のなかで、ギャツビーは神話のなかの人物の座にまで昇っていく。ギャツビーは、私が思い浮かべることのできる、アメリカの偉大な神話である。
