見出し画像

皇位継承を語る前に、私は皇室にとって何者なのか


「歴史が決めた」という言い訳と、正統性の「邪馬台国化」について


はじめに 問いをもう一度、逆にしてみる

前回の記事では、こう問いかけた。

「皇室は、私たち国民にとって何なのか」

でも、これだけでは足りないのではないか。

そう考えるようになった。

「皇室は私たちにとって何か」と考えるとき、私たちはすでに、皇室を外側から眺める側、評価する側、選ぶ側に立ってしまっている。

だから、本当に先に問うべきなのは、こちらではないか。

「私は、皇室にとって何者なのか」

この記事は、その問いを、もう少し具体的に考えるためのものである。



第一章 「歴史が決めた」という言い訳


男系を守るべきだという人は、こう言うことが多い。

「昔からずっと男系で続いてきた。私たちが選んでいるのではなく、歴史がそう決めているのだ」

女系でもよいという人は、こう言うことが多い。

「もともと古代には、女性の血筋も認められていたはずだ。だから女系も、歴史に合っている」

でも、少し立ち止まって考えたい。

歴史そのものが、口を開いて何かを命令するわけではない。

昔の記録は、断片的にしか残っていない。

実際には、その少ない史料の中から、いまの自分の考えに近い解釈を選び取り、それを「歴史そのものの命令」であるかのように語ってしまう危険がある。

もちろん、すべての歴史解釈が同じように怪しい、というわけではない。

史料によって強く支持される説もあれば、根拠の弱い説もある。

ここで問題にしたいのは、歴史研究そのものではない。

「昔、こうだった可能性が高い」という歴史の推定から、「だから、いまの制度はこうしなければならない」という結論を、間に何の議論も挟まず直接つなげてしまうことである。

これは、男系を守りたい人にも、女系を認めたい人にも、どちらにも起こりうる。

自分の意見を、「私はこう思う」ではなく「歴史がそう命じている」という言い方にすり替えると、その意見に対する責任を、自分ではなく歴史のせいにできてしまう。

ここに注意しなければならない、と思う。

第二章 正統性が「邪馬台国」のようになるとき

日本の歴史には、「邪馬台国はどこにあったのか」という、有名な論争がある。

九州にあったという説もあれば、近畿にあったという説もある。

記録が少なく、解釈が分かれ、新しい発見のたびに学説が変わり、いまだにはっきりとは決着していない。

これは、歴史の研究としてはとても価値のあることだ。

でも、邪馬台国論争は、「どちらの説が正しいか」がまだ決まっていなくても、いまを生きる誰かの身分や生活が、それによって変わるわけではない。

ところが、皇位継承の議論は違う。

「男系がずっと続いてきた本当の伝統か」「古代は男女どちらの血筋も認められていたのか」「女性天皇の子どもに、継ぐ資格があったのか」

こうした専門的な歴史の話に深く入っていくほど、この問題は、邪馬台国論争のように、決着のつかない学術的な争いに近づいていく。

史料が少ない。

解釈が分かれる。

学説はこれからも変わっていくかもしれない。

それでも、実際に生きている皇族の身分や将来については、いつか制度として決めなければならない。

ここに、危うさがある。

なぜなら、歴史解釈が決着しないまま、誰かが一つの解釈を選んで制度にするとき、その選択は「いまの人間がした政治的な決定」であるはずなのに、「歴史が命じた結論だから仕方ない」というふうに、責任の所在を隠せてしまうからだ。

だから、先に問うべきなのは、

「どの歴史解釈が正しいか」

だけではない。

「解釈が分かれたとき、誰が、どんな権限で、一つの解釈を制度として選ぶのか」

という問いも、同じくらい大切だということだ。

第三章 専門知識に「頼りすぎる」ほど、象徴から遠ざかる


「象徴」というのは、多くの国民が共有できる存在であるはずだ。

ところが、その正統性を、一般の国民には確かめることが難しい専門知識に頼らせるほど、象徴としてみんなで共有できる度合いは下がっていく。

  • Y染色体の話

  • 古代の法律の細かい解釈

  • 中世の系図の話

  • 女性天皇の子どもの法律上の立場

  • 皇族から離れた家系の血筋の近さ

こうした専門的な話に「頼りすぎる」ほど、天皇は「みんなで共有できる国民統合の象徴」から、「専門家だけが本当かどうかを判定できる、歴史学の研究対象」に近づいていってしまう。

ここで区別しておきたいことがある。

  • 専門知識が深まっていくこと

  • 専門知識を、正統性の必要条件にしてしまうこと

この二つは、別の話だ。

専門的な研究そのものが悪いわけではない。

専門知識は、考えるための材料を与えてくれる、とても大切なものだ。

問題は、専門家のあいだでもまだ意見が分かれているような、細かい歴史の解釈に、「いまの制度をそのまま決めさせてしまう」ことだ。

専門知識は材料を与えてくれる。

でも、「誰を天皇と認めるか」を最終的に決める力までは、専門知識だけでは生まれない。

第四章 史料は解釈を縛るが、いまの選択を命じない


ここまでの話を、短くまとめるとこうなる。

史料は、過去についての解釈を縛る。しかし、いまの制度をどうするべきかまでは、命令しない。

「解釈を縛る」というのは、史料がある以上、過去について好き勝手に何を言ってもよいわけではない、という意味だ。

歴史の研究は、「昔、こういうルールが働いていた可能性が高い」ということを、ある程度まで示すことができる。

でも、「その解釈を、いまの皇位継承のルールとして採用してよいかどうか」は、歴史研究だけでは決められない。

それは、歴史の問題ではなく、いまを生きる私たちが、どんな権限と責任にもとづいて決めるのか、という政治の問題だからだ。

この二つを混同しないことが、大切だと思う。

第五章 「皇室は私に何か」ではなく「私は皇室に何者か」


ここで、はじめに置いた問いに戻りたい。

「皇室は、私たちにとって何なのか」と問うとき、私たちはすでに、皇室を、自分たちの側から評価したり、利用したり、選んだりする対象として見てしまっている。

安全な観客席から、皇室を見ている、と言ってもいい。

でも、本当に先に考えるべきなのは、逆の問いではないか。

「私は、皇室にとって何者なのか」

  • 主権者としての国民なのか

  • 制度を新しく作る設計者なのか

  • 受け継いだものを預かる保全者なのか

  • ただ外から見ている観察者なのか

  • それとも、皇族本人の考えを聞かないまま、その将来を決めようとしている外部の人間なのか

この位置を確かめないまま、「愛着があるから」「伝統だから」「国民の総意だから」と語ってしまうと、自分がいつのまにか、皇室を評価する側、選ぶ側、配置する側に立っていることにすら気づけなくなる。

ここで、一つの仮の答えを置いておきたい。

憲法のうえでは、国民は、制度の正しさを支える根拠(正統性の源)である。

そして、国会には、その根拠にもとづいて、皇室典範という法律を実際に決める権限がある。

つまり、

  • 正統性のみなもと = 国民

  • 具体的な法律を決める力 = 国会

というふうに、分けて考えたほうがよい。

そのうえで、国民の立場を考えると、こうなる。

国民は、制度を決めることの正統性のみなもとではある。

でも、皇族本人の人生を、本人に代わって自由に決めてよい立場ではない。

法律のうえで制度を決める力を持っていることと、その力をどう使うかについて謙虚であることは、両立できるし、両立させなければならない。

第六章 この問い自体も、絶対の答えではない

ここまでの考え方は、私自身、かなり筋が通っていると思っている。

でも、この問い自体もまた、絶対に正しい答えではない。

「私は皇室にとって何者なのか」と問い続けることで、逆に、何も決められなくなってしまう危険もある。

だから、この問いは、

「答えが出るまで、議論を止めてよい」という拒否権として使うのではなく、

「何かを決める前に、必ず一度は通過しなければならない確認事項」

として使いたい。

そう考えれば、この問い自体が、歴史や政治を超えた特別な立場に立っているわけではないことも、はっきりする。

第七章 では、具体的にどうすればいいのか

最後に、ここまでの考え方を、実際の制度としてどう活かせるか、いくつか挙げておきたい。

  1. 皇族本人の考えを、秘密を守りながら確認する、独立した手続きをつくる

政治家、宮内庁、報道機関などから距離を置いた場で、皇族本人の考えを継続的に確認する。

その考えを政治的な争いに利用せず、制度の判断にどう反映したのかについては、本人を特定できない形で、手続き上の説明を行う。

ただし、本人の考えを聞いたからといって、それがそのまま、制度上の「拒否権」になるとは限らない。

でも、「考えを聞かないまま決める」ことと、「考えを聞いたうえで、他の事情と調整しながら決める」ことは、まったく違う。

  1. 歴史の学説と、いまの制度をどうするかの選択を、分けて書く

「歴史的にはこうだった可能性がある」という話と、「だから、いまの制度をこう変えるべきだ」という話を、はっきり分けて考える。

  1. 取り返しのつかない変更には、慎重さを特に大切にする

いったん変えてしまうと元に戻せないような制度の変更には、通常よりも時間をかけ、慎重に進める。

  1. 国会は、「国民の総意を見つけた」というふりをしない

国会の決定は、代表制という仕組みを通じた政治的な判断であることを、はっきり示す。「これが国民全員の考えだ」と言い切らない。

  1. 制度を変える案には、誰の人生がどう変わるのかを、はっきりさせる

どんな案であっても、それによって利益を受ける人、負担を負う人、そして人生が後戻りできない形で変わってしまう人が誰なのかを、きちんと確認してから進める。

おわりに

私は、「男系がずっと続いてきたから、いまの制度をそのまま守るべきだ」と主張しているのではない。

そうではなく、

皇族本人の考えを聞く手続きさえない状態のまま、外側にいる私たちが、取り返しのつかない制度の変更を進めてしまうことに、慎重でありたい

と考えている。

史料は、過去についての解釈を縛る。しかし、いまの制度を命令しない。

専門知識は、判断のための材料を与える。しかし、決める力そのものを生み出さない。

国民は主権者である。しかし、皇族の持ち主ではない。

だから、皇位継承について語る者は、結論を言う前に、まず自分自身にこう問うべきではないか。

私は、皇室にとって何者なのか。


いいなと思ったら応援しよう!