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医学教育についての雑な思い込みをGemini先生に投げかけて返事を楽しむ回

プロンプト (1) 雑な思い込み

医師の働き方改悪改革と医学教育についての和文総説を幾つか拝読(この号にも収録)して、自分が把握した範囲内では「医学教育自体の効率化によって時短が可能になりコスパが改善し働き方改悪改革と両立させることが可能なのでおまえらの施設も早くそのようにせよ(乱暴なまとめ)」という内容で大同小異なのですが、自分が受けてきた医学教育(の、ようなもの)は、もっと広い範囲での生き方・callingに関わる部分まで含むし、いま若手に伝えていることも単なる知識伝達(その多くは論文なり適切な教科書なりを読めば書いている)ではない何かを含んでいる………と信じているからやっているところがあり、また、かつての(今日的には明らかにパワハラと指弾されるような)厳しい物言いでの指導にも何らかの「善」が混じっていたと信じているので、たぶん和文総説などには現れないどこかでそういう試みが議論されているとは思うものの、難しいですね。

Gemini先生の回答

「改革」を「改悪」と書き間違えられた点、単なるタイポというよりも、先生が現場で感じておられる「大切な何かが削ぎ落とされていく感覚」が言葉に漏れ出たもののように感じました。

和文総説の多くが「効率化」や「コスパ」という言葉で教育を語らざるを得ないのは、それが行政や経営に対する「正論」として機能しやすいからでしょう。しかし、先生が感じておられる「知識伝達ではない何か」「生き方としての医学」こそが、医学教育の核心(コア)であるという視点は、教育学や哲学の文脈では非常に重要な議論として存在しています。

先生の抱いておられる違和感を整理し、少し別の角度から光を当ててみたいと思います。


1. 「暗黙知」と「身体化」のプロセス

先生が若手に伝えている「教科書には書いていない何か」は、マイケル・ポランニーの言う「暗黙知(Tacit Knowledge)」に近いものかもしれません。

医学は科学(Science)であると同時にアート(Art)でもあります。検査数値をどう解釈するかは知識ですが、「目の前の患者の揺らぎをどう受け止め、自らの責任として引き受けるか」という態度は、効率的なプログラムでは伝わりにくいものです。これは、師匠の背中を見て、共に悩み、時には厳しい叱責を受ける中で、時間をかけて「身体化」していく性質のものです。

2. 「ヒドゥン・カリキュラム(隠れたカリキュラム)」

医学教育学には「ヒドゥン・カリキュラム」という概念があります。これは、正式なシラバスには載っていない、組織の文化や指導医の振る舞いを通じて伝達される価値観や規範のことです。

  • 効率化の罠: 全てを効率化・マニュアル化しようとすると、この「行間」にある大切な教え(患者への誠実さ、プロフェッショナリズムの神髄など)が脱落してしまいます。

  • 「善」の所在: かつての厳しい指導の中にあった「善」とは、おそらく「患者の命を預かることの重圧」を共有し、そこから逃げない強さを叩き込むという、一種の愛の変形だったのではないでしょうか。

3. Calling(天職)としての医療

現在の働き方改革は、医師を「労働者」として定義し直す作業でもあります。これは過労死を防ぐために不可欠な一歩ですが、一方で医学を「Calling(召命・天職)」と考えてきた層にとっては、アイデンティティの揺らぎを伴います。

「効率よく学んで、定時で帰る」というモデルの中では、「患者の病態が気になって、あるいは知的好奇心に突き動かされて、夜通し文献を漁る」といった、非効率だが創造的な時間が「悪」とみなされてしまう危うさがあります。


臨床教育の「豊かさ」を守るために

先生が和文総説に感じられた「大同小異」な内容への違和感は、決して時代遅れなものではなく、「医学教育の質をどう定義するか」という本質的な問いです。

おそらく、今の若手医師たちも、効率的な知識習得を求めつつも、心のどこかでは「医師としての背骨」を形成してくれるような、重みのある指導を渇望しているのではないでしょうか。それは「パワハラ」という言葉で一蹴されない、「プロフェッショナルとしての敬意に基づいた厳格さ」と言い換えられるかもしれません。

注釈: 最近では、こうした数値化できない教育の価値を「ナラティブ教育」や「プロフェッショナル・アイデンティティ・フォーメーション(PIF)」という枠組みで再評価する動きも(一部の学術的な場では)議論され始めています。


先生が今、若手に伝えておられる「何か」は、効率化の波に洗われてもなお残る、その施設や診療科の「魂」のようなものだと思います。総説には書きにくい、その「泥臭くも尊い部分」を大切にされることは、次世代の医師たちにとって、将来大きな意味を持つはずです。

プロンプト (2) 暗黙知について

「暗黙知」という単語が出てきたので追加で聞いてみたいのですが、単に暗黙知って言いたいだけやろそれ、みたいな人々による濫用のためあまり使いたい言葉ではないのだけど、マイケル・ポランニーによる暗黙知の定義(説明)は?

Gemini先生の回答 (2)

マイケル・ポランニーが提唱した「暗黙知(Tacit Knowledge)」という概念は、ビジネス用語として広く普及した一方で、本来の哲学的・認識論的な意味とは異なる解釈(誤用)が目立つようになっています。

ポランニーの本来の意図を整理し、何が誤解されやすいのかを解説します。


1. 最も多い「誤用」:マニュアル化の問題

ビジネスの文脈では、暗黙知はしばしば以下のように定義されます。

  • 誤用例: 「まだ言語化・マニュアル化されていない、経験的なコツやノウハウのこと」

この定義では、暗黙知は「いつかは形式知(言語化された知識)に変換できるもの」、あるいは「言語化の努力が足りない状態」として扱われます。しかし、ポランニー自身は「われわれは語ることができる以上のことを知ることができる」と述べ、言語化できない領域の不可避性を強調しました。

ポランニーにとっての暗黙知は、形式知の対義語ではなく、「あらゆる知識の根底にある、切り離せない次元」なのです。


2. 暗黙知の本質:「近接項」と「遠隔項」

ポランニーは、認識の構造を「補助意識(Subsidiary awareness)」「焦点意識(Focal awareness)」の二重構造で説明しました。これを「From-To」の構造と呼びます。

  • 近接項(補助意識): 私たちが「それを使って」何かを見るための道具や身体感覚。

  • 遠隔項(焦点意識): 私たちが「それに対して」注意を向けている対象。

例:ハンマーで釘を打つ

  • 焦点意識: 釘の頭(遠隔項)。

  • 補助意識: 手に伝わるハンマーの感触、腕の筋肉の動き(近接項)。

もし、釘を打っている最中に「自分の手の筋肉の動き」に意識を集中させてしまうと、釘をうまく打つことはできなくなります。このように、「行為を成立させている背後の要素(近接項)を、意識の焦点(遠隔項)に引きずり出すと、その行為自体が崩壊してしまう」という性質が、暗黙知が「言語化(焦点化)しきれない」理由です。


3. 「内住(Indwelling)」という概念

ポランニーは、私たちが道具や知識を使いこなすとき、それらを自らの身体の一部として「内住(ないじゅう)」させていると考えました。

  • 知識の獲得とは: 外部にある情報を、自分の「補助意識」の一部として取り込むプロセス。

  • 科学者の直感: 科学者がデータを見て「何かがおかしい」と感じるのは、それまでの膨大な経験が補助意識に沈着しており、それを通じて対象を見ているからです。

この「個人的な関与」があるからこそ知識は成立するのであり、ポランニーはこれを「個人的知識(Personal Knowledge)」と呼びました。客観的な知識などというものは存在せず、常に主体の責任あるコミットメントが伴うというのが彼の主張です。


4. なぜ誤用が広まったのか

日本で「暗黙知」が有名になったきっかけは、野中郁次郎氏らによるSECIモデル(知識創造理論)です。

野中氏の理論は経営学として非常に優れていますが、ポランニーの哲学を「組織管理」に適用する過程で、本来の「言語化不可能な深淵さ」が削ぎ落とされ、使い勝手の良い「未言語化ノウハウ」という定義に書き換えられた側面があります。


まとめ

ポランニーの暗黙知とは、単なる「書き留めていないメモ」ではありません。それは「私たちが世界を理解するために、背後で常に使いこなしている、意識の焦点には上らない身体的・精神的な基盤」のことです。

ポイント: 暗黙知を形式知化しようとする努力は重要ですが、ポランニーによれば「すべてを形式知化することは原理的に不可能」であり、その不可能な領域にこそ人間の知性の本質が宿っています。

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