なぜ「社会学者」は嫌われるのか――日本における公共イメージの形成史と海外の反社会学言説
0.問題設定
近年の日本語圏SNSでは、「社会学者」という肩書がしばしば嘲笑や敵意の対象となる。「社会学は学問ではない」「社会学者は活動家だ」といった言明は、個別の論争の帰結というより、あらかじめ用意された定型句として流通している。
本稿の目的は、この現象を「反知性主義」として一括りに片付けることでも、「社会学者の自業自得」として済ませることでもない。問いは三つである。第一に、日本社会において社会学はいつ、どのような形で「見える」学問になったのか。第二に、その公共イメージはいつ、なぜ反転したのか。第三に、類似の現象は海外に存在するのか。
方法上の限界を先に述べる。筆者が確認した公開資料の範囲では、新聞・テレビ・雑誌における分野別露出を長期通算した包括的データや、社会学への好感度を継続的に測定した代表性のある調査を見いだせなかった[1]。したがって本稿は、露出量や反感の強度を直接測定するものではなく、学会史、大学制度史、論壇史、出版史、および象徴的事例から公共イメージの変遷を復元し、一つの歴史仮説を提示する試みである。その仮説とは、現在ネット上で嫌われている「社会学者」は一八七八年以来の日本社会学の総体ではなく、複数の時代のメディア編集が積層して作られた合成人物だ、というものである。
1.枠組み――三つの露出と、選択の機序
「社会学の露出」には少なくとも三つの位相がある。大学の講義、学部、学会、社会調査教育といった制度的露出。新聞、総合雑誌、新書、論壇を通じて概念や説明図式が読者に届く言論的露出。そしてテレビやSNSに「社会学者」の肩書を持つ個人が登場し、その人格や態度が消費される人物的露出である。後述するように、この三つは同じ速度では進まなかった。制度的露出の重要な拡大局面と、肩書がブランドとして通用した時期と、肩書が悪役ラベル化した時期は、それぞれ別である。
理論的な補助線を二つ引く。一つはブルデューのメディア批判である。ブルデューは、テレビの場が学問の場の内部論理(査読、方法論的相互批判、長期的評価)を短絡させ、「即答できる知識人」を選抜的に可視化することを指摘した[2]。学界内部での評価とメディア上の可視性は別の通貨であり、交換レートを決めるのはメディアの側である。もう一つはギエリンの「境界画定作業(boundary-work)」である[3]。「何が科学で何が科学でないか」の線引きは認識論的に自明な作業ではなく、資源と権威をめぐる社会的闘争として遂行される。「社会学は科学か」という問いそれ自体が、政治的な武器として使われうる。
あわせて、露出の歴史と嫌悪の形成をつなぐ機序について、本稿の想定を明示しておく。すなわち、①メディアが即答可能で論争性の高い論者を選択する、②その論者の肩書が個別の専門を超えて用いられる、③ジェンダーやサブカルチャーなど対立の激しい争点に出演が集中する、④炎上で知名度を得た人物が再び番組やSNSで選択される――という循環である。本稿はこの因果関係を統計的に同定するものではなく、歴史資料から提示する仮説として扱う。
2.前史――一八七八〜一九四五年:「社会」を発見する学問
日本で最初の社会学講義とされるのは、一八七八年に東京大学でE・フェノロサがスペンサー社会学を講じたものである。一八八一年には「世態学」の名で正課に組み込まれ、一八八〇年代半ばに「社会学」の科目名が定着、一八九三年には社会学講座が設置された。日本社会学会の創立は一九二四年である[4]。
もっとも、この時代の社会学者は人気解説者ではなかった。明治期の社会学は主としてスペンサーの社会進化論を経由し、国家の発展、文明と野蛮の区別、個人の自由と国家秩序の両立を論じる、政治学・文明論に近接した総合学問として受容された。自由民権運動家にも、その批判者にも、政府当局者にも援用され、最初から政治的に複数の用途を持っていた[5]。露出したのは「社会学者」という人格ではなく、「社会」「進化」「文明」といった新しい概念群である。
転機は第一次世界大戦後に訪れる。労働争議、都市下層の貧困、米騒動を通じて、国家が発展しても人々の生活が安定するとは限らないことが可視化され、「国家」の陰に隠れていた「社会」が独立の問題領域として立ち上がった。いわゆる大正期の「社会の発見」であり[6]、一九二四年の学会創立はこの文脈にある。最初に社会へ届いたのは、有名人ではなく「社会問題を科学的に調査する」という発想だった。
一九二〇年代以降、社会学は専門分野としての形を整えるが、戦前に社会学講座を持つ大学は少なく、研究者集団は小規模だった。露出は農村、家族、人口、植民地、社会政策などの調査を通じたものが中心である。戦時期には社会学も戦時体制に組み込まれ、社会調査や共同体研究が国策と結びつく局面があった[7]。社会学は国家を批判するだけの学問でも、市民社会を代表するだけの学問でもなかったのであり、戦後の社会学が「民主化の学」として自己刷新を図る背景には、この経験への反省がある。
3.一九四五〜一九六〇年代――制度の拡大と公共知識人
日本の社会学が量的に大きく拡大するのは第二次世界大戦後である。新制大学の設立とともに一般教育科目に社会学が組み込まれ、社会学関係の学科・講座が増加し、日本社会学会の会員数は一九六〇年前後に一〇〇〇人を超えた[8]。中心課題は日本社会の近代化と民主化であり、一九五〇年創刊の『社会学評論』第一巻の特集は「日本社会の非近代性」だった。農村や家族に残る「家」「村」の権威構造を実証し、封建遺制の克服に資することが期待され、主流分野は農村社会学、家族社会学、学説研究だった[9]。
現在から見ればこの露出は地味である。しかし社会学を履修した学生、地方調査に参加した学生、社会学系学部を出て教員・公務員・マスコミに散った人々が全国に堆積した。大学制度史から見れば、戦後最初の拡大はスター学者によってではなく、大学教育と社会調査の全国化によってもたらされたのであり、後の「社会学=テレビの人」というイメージがいかに偏った標本に基づくかを測る基準線となる。
一九五〇年代後半、社会学は大学の外へ進出する。象徴は大衆社会論である。一九五六年に『思想』誌上で松下圭一「大衆国家の成立とその問題性」が論争の口火を切り[10]、一九五七年刊行開始の『講座社会学』(東京大学出版会)では、「家族・村落・都市」が一巻に束ねられる一方、「大衆社会」は単独で一巻を与えられた[11]。論じられたのは、組織の歯車となるサラリーマン、リースマンのいう「他人指向型」の人間[12]、マスメディアと世論、大量消費、官僚制、全体主義と民主主義の関係である[13]。
この時代の特徴は、社会学者が「社会学者」としてではなく公共知識人として露出したことにある。清水幾太郎は社会心理・メディアの研究者であると同時に、六〇年安保に至る論壇の政治的オピニオンリーダーだった[14]。加藤秀俊は「中間文化論」で高度成長期の消費社会を論じた。一九五八年前後の「実感論争」には政治学者や文学者も参加し、誌面では専門の境界より「戦後日本をどう考えるか」が優先された。社会学者には狭い専門を超えて「日本社会全体」を語る資格がある――この役割期待がここで形成され、後のメディア環境で再利用可能なものとして残ることになる。
制度面では大学大衆化が進む。一九五三年度から一九七一年度にかけて大学数は二二六校から三八九校へ、学部学生数は約四四万人から約一四三万人へ増加し[15]、社会学部も関西学院大学(一九六〇)、立命館大学産業社会学部(一九六五)、関西大学(一九六七)と独立した教育組織として広がった[16]。
4.一九七〇〜一九八〇年代――意味への転回と、編集される社会学
一九七〇年代に大衆社会論のブームは終息し、そこで一括されていた問題群は情報社会論、消費社会論、都市社会学、若者文化研究、メディア研究、社会意識論へと分化する。理論面では構造機能主義とマルクス主義の影響力が相対的に低下し、現象学的社会学、シンボリック相互作用論、社会構築主義、エスノメソドロジーが導入された[17]。
露出史の観点から重要なのは見田宗介である。見田は流行歌、文学作品、新聞の身の上相談欄を社会学的資料として分析し、一九七三年の「まなざしの地獄」では連続射殺事件の永山則夫の軌跡を通じて個人の実存と都市化・階層構造を接続した[18]。真木悠介名義の『気流の鳴る音』(一九七七)は広範な反響を呼んだ[19]。「流行歌や悩み相談や犯罪者の言葉から時代の社会全体を読む」という型がここで示され、社会学は読者にとって、制度を説明する学問であるだけでなく、自分の気分や生活の意味を説明してくれる学問になった。
一九八〇年代には、ニュー・アカデミズム、現代思想、記号論、消費社会論が出版市場で注目される。ここで強調すべきは、出版社や雑誌が学界の研究動向をそのまま紹介していたわけではないことである。学会誌と論壇誌・思想誌を計量的に対照した知識社会学的研究によれば、論壇誌・思想誌は特集編集と執筆者選択を通じて、何が重要な思想課題であるかを能動的に組織する場として機能していた。例えば「遊び」は、主要学会誌ではカイヨワやホイジンガの引用が一九七〇年代以降もきわめて散発的で、中心的研究領域になったとは確認できないのに対し、『現代思想』一九八三年二月号の特集に象徴されるように、論壇・思想誌では知的流行として集中的に可視化されたテーマだった[20]。学界内部で重要とされる研究と、編集者が市場に出す「社会学」との間のずれが、この時期に制度化された。
内容面では、豊かになった日本を、商品の記号的意味、若者のライフスタイル、広告と欲望、性別役割、家族と主婦、サブカルチャーから読み解く言説が量産された。上野千鶴子は消費社会論、主婦論争、家族、フェミニズムを横断し[21]、社会学の公共イメージにジェンダーと家族制度への批判という要素が強く組み込まれた。制度面でも、一八歳人口の減少が進むなか、「文化の研究」は受験生の関心を引く社会学のセールスポイントとして利用され、多くの大学で関連科目が設けられた。永井良和によれば、既成の学問領域に居場所を得にくかった文化研究は、ジェンダー・スタディーズと同様、社会学の制度的な受容力によって大学内に場を得たのである[22]。現在の「身近な文化を意外な角度から解釈する学問」という公共イメージの多くは、この時期の編集と制度設計に由来する。
5.一九九〇年代――スター社会学者と診断の時代
一九九〇年代、バブル崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教事件を背景に、「日本社会はどうなったのか」を説明する需要が急増した。見田宗介、橋爪大三郎、大澤真幸、宮台真司をつなぐ理論社会学・現代社会論の系譜が、論壇と一般書市場で強い存在感を持った[23]。
宮台真司は一九九二年頃から女子高校生への聞き取りを行い、援助交際やブルセラ現象を、個人の道徳的退廃ではなく都市化、学校、家族、郊外化、コミュニケーション様式の変容として分析した[24]。メディアにとってこの構図は魅力的だった。社会学者が、大人には見えない若者文化に接触し、当事者への聞き取りを持ち、それを理論で社会全体へ接続し、世間の道徳的常識に逆らう説明を提示する。ここで社会学者は、隠された現実を知り、常識を覆し、日本社会を診断する人物として演出されるようになった。
もう一つの型は概念のメディア化である。山田昌弘『パラサイト・シングルの時代』(一九九九)は、親と同居する未婚者という家族社会学上の現象に記憶しやすい名称を与え、未婚化・少子化をめぐる大規模な議論を引き起こした[25]。この型では、本人のテレビ出演以上に、社会学者がつくった言葉が新聞見出し、行政文書、日常会話に入ること自体が露出である。ただしこの種の命名は、複雑な社会変動を圧縮して伝える一方、名指された当事者を非難する道徳的ラベルとして流用される危険も伴っていた。
後に佐藤俊樹が指摘したように、この時期に論壇で「社会学」として流通していたものは、主として宮台・大澤ら特定の理論的スタイルであって、学術内部の社会学全体が普及したわけではない[26]。一九九〇年代に起きたのは「社会学の露出の増大」というより、「特定の社会学者の露出の増大」だった。分野の平均像と可視的な標本との乖離は、この時点で構造化されていた。
6.二〇〇〇年代――一般語化と乖離の同時進行
二〇〇〇年代には、新書、批評誌、ブログ、掲示板を通じて社会学的な用語と説明図式がさらに拡散した。若者、家族、格差、承認、ナショナリズム、サブカルチャーを社会全体の変動と結びつける文章が大量に流通し、いわゆるゼロ年代批評の中でも論壇的「社会学」は重要な位置を占めた[27]。
同時に、社会学的な世相診断を疑う言説もジャンルとして成立する。二〇〇四年に書籍化されたパオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』は、恣意的なデータ利用、安易な時代診断、権威的な説教を笑いによって批判した[28]。同書が社会学全体を代表していたかは別として、「社会学」を掲げた世相論が一般読者に通じるほど露出しており、それをからかうことが出版として成立するほど批判の需要も育っていた。この段階の「社会学を疑うこと」は、敵意というより知的娯楽である。
他方、学界内部では正反対の動きが進んでいた。日本社会学会は一九九一年から社会調査資格の検討を開始し、二〇〇三年には関連学会との協力で社会調査士資格認定機構が設立された(二〇〇八年に一般社団法人社会調査協会へ改組)[29]。二〇〇〇年代には、新書とネットで日本社会を一気に説明する社会学と、調査設計・統計・聞き取りを専門的に行う社会学が並走し、前者はよく見え、後者はほとんど見えなかった。
この時期はまた、後の反感の政治的土壌が形成された時期でもある。二〇〇〇年代半ば以降、掲示板やブログを通じてマスコミ・大学人・リベラル知識人への不信が可視化され、「ネット右翼」という語が普及した[30]。ほぼ同時期にジェンダー政策とフェミニズムへの組織的なバックラッシュが展開され[31]、北田暁大が分析した冷笑的なアイロニズムとつながりの快楽の結合は[32]、後に「社会学者」を嗤うコミュニケーション様式と接続していく。
7.二〇一〇年代――キャラクター化と、二〇一八年前後
二〇一〇年代には、テレビの情報番組とSNSが結合する。従来の社会学者は自著や長い評論で社会を論じたが、情報番組では芸能ニュースから政治家の発言、事件、流行まで、数十秒から数分での反応が求められる。代表例が古市憲寿であり、二〇一〇年代後半には複数の情報番組で「空気を読まない」コメンテーターとしての位置が定着した[33]。テレビ上の「社会学者」は、特定分野の調査結果を説明する肩書であることをやめ、「世間の常識から一歩引いて、冷静または挑発的なことを言う人物」というキャラクター記号として機能するようになる。視聴者には、その発言が調査結果なのか、個人的感想なのか、番組が求めた役割なのかが判別できない。これは、ブルデューがテレビについて論じた「即答できる知識人」の選抜という問題と重なる[2]。
SNSはこの変化を増幅した。論壇誌の時代、読者は数千字の論文を読んだが、SNS時代には一文、一場面、切り抜き動画が拡散する。露出の単位は著作や理論から、発言、態度、炎上履歴へと変わり、個人への反感が学問名に直接加算される回路が強まった。
反感の定型化には転機がある。二〇一八年一〇月、ノーベル賞のNHKネット解説にバーチャルYouTuber「キズナアイ」が起用されたことをめぐり、社会学者・千田有紀の批判記事を起点として大規模な論争が発生し、女性表象の是非だけでなく、社会学者の権威、研究業績、査読制度、専門家が趣味文化を批判する資格までが一挙に争点化した[34]。ただし本稿は、この論争を反社会学感情の起源とはみなさない。オタク言説史の研究が整理するように、九〇年代の社会学は当事者の外側からオタクを分類・説明する批評の中心にあり、「自分たちの趣味を外部の知識人に勝手に分類される」という感覚を残していた[35]。二〇〇〇年代の反権威・反リベラル言説とバックラッシュがそれを育て、テレビとTwitterが拡大した。実際、この時期には「社会学者」を名乗ることのリスクを論じる記事(二〇一八年)や、「ネット上で社会学者の評判はなぜ悪いのか」と題する論考(二〇二〇年)が相次いで書かれており[37]、定型の成立を同時代的に傍証している。二〇一八年前後は、以前から存在した批判が「社会学者」という肩書のもとで集約された、象徴的な結晶点の一つと位置づけるのが妥当である。
同時代には別の動きもあった。生活史、聞き取り、貧困、ケア、労働、移民を丁寧に記述する研究が一般書を通じて読者を獲得し、岸政彦らの生活史研究は、華麗な社会診断とは対極の、小さな事実の集積によって安易な一般化を留保する「普通の社会学」の公共的提示として受容されている[36]。現在の社会学には、大きな言葉で時代を説明する様式と、一般化を留保する様式が併存するが、テレビとSNSで目立ちやすいのは前者である。
8.なぜこうなるのか――選択バイアスと分類誤差
ここまでの経緯は、次のように整理できる。ネット上の分野イメージは、分野成員の無作為標本から形成されるわけではない。可視性は研究の質ではなく、短文化のしやすさ、論争性、既知性、番組上の使いやすさによって大きく偏る。さらに、津田正太郎が指摘するように、本来なら社会学者に分類されない人文社会系の研究者や論者までが、政治・社会について発言して反発を受けると「社会学者」と見なされることがある一方、実際の社会学者の大半はそもそも観察されない[37]。つまりネット上の分野イメージには、可視性による選択バイアスと、肩書の誤認による分類誤差が同時に作用する。
補助的に一点だけ形式的に述べれば、仮に分野の全成員について、印象 $${s}$$ を可視性 $${v}$$ で加重平均した像 $${\hat{S}}$$ を考えると、単純平均 $${\bar{S}}$$ との乖離は
$$
\hat{S}-\bar{S}=\frac{\operatorname{Cov}(v,s)}{\bar{v}}
$$
で与えられる。乖離を生むのは可視性の偏在それ自体ではなく、可視性と印象の共分散である。つまり「目立つ人が平均的な人と違うとき」に限って世評は歪む――そして前節までの歴史は、メディアの選択がまさにこの共分散を体系的に作り出してきた過程として読める。もっとも実際の観察集合は全成員ではなく、成員の一部と誤分類された部外者の混合であるから、この恒等式は直観の骨格を示す以上のものではない。
この二重のバイアスに、社会学に固有の三つの脆弱性が重なる。第一に、研究対象が「自分自身」に近すぎること。社会学が扱うのは家族、恋愛、性、仕事、階層、趣味、政治である[38]。物理学者に宇宙を説明されても人格を否定されたとは感じないが、「その趣味はジェンダー構造の産物だ」と言われれば、「自分より自分のことを分かっているつもりか」という反発が生じうる。社会学の長所である「当たり前の相対化」は、対人的には侵入性として受け取られやすい。第二に、事実認識と価値判断の境目が見えにくいこと。日本学術会議の参照基準は、社会学を実証的・理論的な学問であると同時に、社会を評価し改善策を構想する規範的・実践的な学問とも位置づける[38]。この二面性はバーラウォイの「公共社会学」の構想にも通じる正当なものだが[39]、SNSの短文では、確認された事実、解釈、価値判断、提案が一つに潰れ、「政治的結論を学問の言葉で飾っている」ように見える。第三に、文化戦争の代理戦場になりやすいこと。社会学はジェンダー、性的表象、差別、少数者というネット上で最も対立の激しい問題群を扱うため、反フェミニズム、反ポリコレ、オタク文化防衛といった別々の立場から共通の敵として名指されやすい。しかも批判は右派からだけではなく、反レイシズム運動の側からも「加害者を研究対象として消費している」という批判が向けられてきた。価値判断を前に出せば「イデオロギー」と呼ばれ、距離を取れば「傍観」と呼ばれる位置に、社会学は立っている。
なお、批判のすべてが誤認だと述べているのではない。専門外への断定、根拠の薄い時代診断、研究者としての発言と一個人の感想の混同、学問的権威を用いた道徳的説教は、実際に批判されて当然であり、社会学の側でも自らの学問的性格を社会に説明する必要が論じられてきた[40]。問題は、そこから「社会学は全部疑似科学だ」への一般化が、炎上した少数を標本とし隣接分野まで数え入れるという二重の誤りを踏むことにある。
9.海外事例との照合――反復する論理と異なる制度的帰結
では、この現象は日本固有なのか。以下の検討は、各国の反社会学感情の強度を同一指標で比較するものではない。日本の事例と構造的に似た論争を探索的に照合し、どの論理が反復され、どの点で制度的帰結が異なるかを確認するものである。
9.1 フランス――「社会学的言い訳」論争
フランスでは遅くとも九〇年代から、社会学者が犯罪者や暴徒を「社会環境の被害者」として弁護しているという批判が繰り返されてきた。象徴は二〇一五年一一月、パリ同時多発テロ後のマニュエル・ヴァルス首相の発言である。ヴァルスは上院で「起きたことに対して文化的・社会学的な言い訳を探し続ける者にはうんざりだ」と述べ、翌一六年一月には「説明することは、すでにいくらか言い訳しようとすることだ」と踏み込んだ[41]。社会学者ベルナール・ライールは『社会学のために――いわゆる「言い訳の文化」なるものに終止符を打つ』を著して反論している[42]。さらに二〇二一年二月、高等教育相が大学における「イスラム左翼主義」の調査をCNRS(国立科学研究センター)に要請すると、CNRSは公式声明でこの語を科学的実在に対応しない政治的スローガンと退け、特定分野を汚名化する利用を非難した[43]。フランスでは「社会学は犯罪者を弁護する」「移民・イスラムに甘い」「研究ではなく左派運動だ」という三つの批判が結合しており、日本の反社会学言説とよく似た構造を示す。
9.2 カナダとイギリス――原因を問うことへの疑義
二〇一三年、テロ計画容疑者の逮捕を受け、カナダのハーパー首相は「根本原因」を論じるべきだという議論に対し「今は社会学的分析をしている場合ではない」と発言した。原文は "commit sociology" であり、通常は犯罪などを「犯す」ときに用いる commit を社会学に接続した揶揄的な表現だった[44]。二〇一一年のイングランド暴動の際には、ロンドン市長ボリス・ジョンソンが、暴動参加者への「経済的・社会的な正当化を聞かせるのはやめるべきだ」と述べている[45]。両者に共通するのは「社会的原因の説明→責任の軽減→犯罪の正当化」という連想である。しかし、なぜ起きたかという因果判断と、どれほど責任を負わせるかという道徳的・法的判断は、概念的には区別され、一方が他方を自動的に決定するわけではない。社会学は前者を扱うが、政治的危機の直後には後者への介入として受け取られる。
9.3 アメリカ――ソーカルからフロリダへ
アメリカでは敵意が「社会学」一語に集中せず、"woke academia"、ポストモダニズム、批判的人種理論、"grievance studies" といった複数の名称に分散するが、系譜は明瞭である。
前史は一九九六年のソーカル事件である。物理学者アラン・ソーカルは、意図的に誤った物理学と進歩主義的結論を組み合わせた偽論文をカルチュラル・スタディーズ誌『Social Text』に掲載させ、後に種明かしをした[46]。同誌は標準的な社会学誌ではなく、当時は通常の意味での外部査読も行っていなかったが、事件は次第に「ポストモダン思想はでたらめ」「社会科学は政治的結論を先に決めている」という、より広い学問批判の象徴となった。一誌の失敗が複数分野の象徴になる――日本で一人の炎上が「社会学の本質」とされるのと同じ、部分による全体の代表である。
二〇一七〜一八年の「グリーヴァンス・スタディーズ事件」はその増幅版だった。三人の実行者はジェンダー、人種、セクシュアリティ研究などの学術誌に偽論文を投稿し、これらの分野では政治的に望ましい結論なら粗悪な研究でも掲載されると主張した[47]。これに対しラーゲルスペッツは、対照群の欠如や対象誌選定の非体系性などを理由に、実行者の一般的主張を裏づける実験にはなっていないと論じている[48]。また、ムサ・アルガルビによる投稿記録の分類では、社会学誌に送られた六本はすべて不採択だった[49]。それでもネット上では、方法論上の留保よりも「犬のレイプ文化を扱った偽論文が通った」という印象的な物語の方が強く残った。
そしてアメリカの一部では、社会学を非学問として位置づける言説が教育行政に到達した。フロリダ州では、二〇二三年の州法SB266(一般教育科目から「アイデンティティ・ポリティクス」等を排除)を経て、州立大学システム理事会が二〇二三年一一月に「社会学原論」の州共通コア科目からの除外を決定、二〇二四年一月に規則改正を正式承認して米国史科目に置き換えた[50]。州教育長官は社会学が「左派活動家に乗っ取られた」とSNSで公言していた[51]。この時点では各大学独自の一般教育科目としては残せたが、二〇二六年三月二六日、同理事会は公開議題にない動議によって、「社会学原論」を州立一二大学すべての一般教育科目リストから除外し、選択科目としてのみ残すことを決定した(適用は二〇二六-二七年度。専攻・専門科目としての社会学は存続する)[52]。席上、州立大学システム総長は、社会学は今や学問の装いをまとった社会的・政治的アドボカシーであり、イデオロギー的に「乗っ取られた」と述べている[53]。同年四月には州教育委員会が州カレッジ・システムでも同様の除外を決定し、教育長官は社会学を「沈みゆく船」と形容した[54]。加えて州の大学システムは、人種・ジェンダー・社会的不平等などの単元を大幅に削った改訂教材を作成・承認して各大学へ配布したが、その運用は一律ではなく、採用した大学と正式採用を見送った大学に分かれていた[55]。
境界画定作業の観点から言えば、フロリダで起きているのは、「何が事実に基づく学問か」の線引きを州の行政権力が代行する事態である。日本の反社会学感情の多くがネット上の評判形成にとどまるのに対し、ここではそれと同型の言説がカリキュラムの政治に接続している。
9.4 ブラジルとハンガリー――実用主義と認定撤回
二〇一九年、ブラジルのボルソナロ政権は、社会学・哲学分野への公的資金を削減・転換する方針を表明した(これとは別に、連邦大学全体への予算凍結も行われており、両者は区別される)[56]。「大学は左派の政治活動の場だ」という文化戦争型の批判に、「社会学は納税者に即時の利益をもたらさない」という実用主義型の批判が重なった事例である。ハンガリーでは二〇一八年、政府がジェンダー研究を認定修士課程の一覧から削除し、国内で政府認定のジェンダー研究修士号を取得する道を事実上閉ざした[57]。標的は社会学そのものではないが、「科学ではなくイデオロギーだ」「伝統的家族秩序を破壊する」「労働市場で役に立たない」という批判の語彙は、社会学に向けられるそれとほぼ共通する。いずれも、ネット上の冷笑が予算や学位認定という制度的措置に接続した点で、日本より深刻な事例である。
9.5 反復する構造と、日本の位置
各事例からは共通の論理が抽出できる。「説明」と「擁護」の混同。研究対象の選択(階級、人種、移民、ジェンダー)自体を党派性の証拠とみなす読み。隣接分野の一括("woke" や "grievance studies" の一語で束ねる操作は、日本で本来は社会学者でない論者まで「社会学者」に数える操作と同型である)。印象的な失敗による全体の代表。そして反エリート政治との接続――この最後の点については、二〇〇〇〜二一年の五九の自由民主政・選挙民主政を対象に、指導者のポピュリスト言説の強さと学問の自由との間に統計的に有意な負の関連を報告した比較研究がある(単一の観察研究であり、因果の確定には追試を要する)[58]。社会学は「社会問題には複数の原因がある」「個人の努力だけでは説明できない」と述べる学問であるがゆえに、「国民の常識」対「大学エリート」という政治物語の敵役に配役されやすい。
日本の位置については、限定つきで述べる。フランスでもカナダでも "sociology" の語は直接攻撃されており、「社会学」への敵意そのものは日本固有ではない。ただし海外では敵意が複数の名称に分散し、予算・カリキュラム・学位認定をめぐる制度的政治として現れやすいのに対し、日本では反大学・反リベラル的な批判が**「社会学者」という肩書に比較的強く集約され、ネット上の人格的嫌悪として現れる**、という仮説が本稿の照合からは導かれる。この集約を可能にした条件こそ、前半で辿った日本の露出史――「社会全体を語る」役割期待の形成、八〇年代の編集、九〇年代の露出集中、二〇一〇年代のキャラクター化――だった、というのが本稿の見立てである。
10.結論
日本社会学の露出は単調に増加したのではなく、露出するものが入れ替わってきた。一九五〇〜六〇年代に見えたのは戦後日本の建設という問題と大学教育であり、七〇〜八〇年代に見えたのは消費・文化・日常を読む概念であり、九〇年代に見えたのは社会を診断する少数のスターであり、二〇一〇年代以降に見えているのはSNSで切り取られた個人の発言と人格である。したがって、現在ネットで嫌われている「社会学者」は、八〇年代に出版市場が選択した文化解読型の社会学、九〇年代の社会診断型スター、二〇一〇年代のテレビ・SNSが作ったコメンテーター、そして実際には社会学者でない人々の言動までを重ね合わせた合成人物である――これが本稿の仮説である。
実践的含意を二つ述べて締めくくる。社会学の側にできることは、事実認識・価値判断・提案の水準を発話のたびに区別して見せること、可視性の低い調査・統計・生活史の公共的提示を増やすこと、肩書の誤用を含む分類誤差をその都度訂正することである。批判の側にとっての含意は、標本の偏りの自覚である。最もよく見える数人は、分野から無作為に抽出された標本ではない。彼らが分野全体をどの程度代表しているかは、可視性とは別に検証されなければならない。そしてフロリダの事例は、日本のSNS上の嘲笑が直ちに同様の政策を生むことを示すものではないが、社会学を「学問を装った政治運動」と位置づける言説が、一定の政治条件のもとで、一般教育に含める学問を行政が選別する根拠になりうることは示している。「社会学者」という悪役の解剖は、その意味で、学問と民主主義の関係を考える一つの素材である。
註
[1] 筆者が確認した公開資料の範囲では、新聞・テレビ・雑誌における分野別露出を長期通算した包括的データ、および社会学への好感度を継続測定した代表性のある調査を見いだせなかった。本稿の時代区分は二次文献と象徴的事例による復元であり、露出「量」の厳密な比較ではない。
[2] ピエール・ブルデュー『メディア批判』(櫻本陽一訳、藤原書店、二〇〇〇年)。原著 Pierre Bourdieu, Sur la télévision, Liber, 1996.
[3] Thomas F. Gieryn, "Boundary-Work and the Demarcation of Science from Non-Science," American Sociological Review 48(6), 1983, pp. 781–795.
[4] 日本社会学会「学会のあゆみ」(https://jss-sociology.org/)。東京大学における社会学講座の設置については、秋元律郎『日本社会学史――形成過程と思想構造』(早稲田大学出版部、一九七九年)を参照。
[5] 河村望『日本社会学史研究』(人間の科学社、一九七三―七五年)。
[6] 石田雄『日本の社会科学』(東京大学出版会、一九八四年)。
[7] 川合隆男編『近代日本社会調査史』(慶應通信、一九八九―九四年)。
[8] 富永健一『戦後日本の社会学――一つの同時代学史』(東京大学出版会、二〇〇四年)。
[9] 『社会学評論』第一巻第一号(一九五〇年)特集「日本社会の非近代性」。
[10] 松下圭一「大衆国家の成立とその問題性」『思想』一九五六年一一月号。
[11] 福武直ほか編『講座社会学』全九巻・別巻一(東京大学出版会、一九五七―五八年)。第七巻『大衆社会』が先行して刊行され、第四巻が『家族・村落・都市』である。
[12] デイヴィッド・リースマン『孤独な群衆』(加藤秀俊訳、みすず書房、一九六四年)。原著 The Lonely Crowd, 1950.
[13] C・ライト・ミルズ『パワー・エリート』(鵜飼信成・綿貫譲治訳、東京大学出版会、一九五八年)。
[14] 竹内洋『メディアと知識人――清水幾太郎の覇権と忘却』(中央公論新社、二〇一二年)。
[15] 文部省『学制百年史』(帝国地方行政学会、一九七二年)および学校基本調査各年度。
[16] 各大学の学部沿革(関西学院大学社会学部一九六〇年、立命館大学産業社会学部一九六五年、関西大学社会学部一九六七年)。
[17] 盛山和夫・金明秀・佐藤哲彦・難波功士編著『社会学入門』(ミネルヴァ書房、二〇一七年)、とくに井上俊による戦後社会学史の整理を参照。一九七〇年代に構造機能主義とマルクス主義の影響が相対的に低下し、新しい観点が導入されたという流れが記述されている。
[18] 見田宗介「まなざしの地獄」『展望』一九七三年五月号(のち『まなざしの地獄――尽きなく生きることの社会学』河出書房新社、二〇〇八年)。
[19] 真木悠介『気流の鳴る音――交響するコミューン』(筑摩書房、一九七七年)。
[20] 佐々木基裕「『ニュー・アカデミズム』の学際性に関する知識社会学的研究」(JSPS科研費19K14137、若手研究、二〇一九〜二〇二四年度)研究成果報告書(https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-19K14137/19K14137seika.pdf)。同報告は、主要学会誌の引用・著者属性と、『現代思想』『批評空間』『エピステーメー』等の執筆者構成・特集を計量的に対照し、論壇誌・思想誌が社会学者・文学研究者らを起用して横断的な問題設定を能動的に構築していたこと、「遊び」研究の引用が学会誌では散発的だった一方、論壇・思想誌では流行的テーマとして可視化されたことを示している。あわせて佐藤俊樹『社会学の方法――その歴史と構造』(ミネルヴァ書房、二〇一一年)を参照。
[21] 上野千鶴子『家父長制と資本制』(岩波書店、一九九〇年)、同『〈私〉探しゲーム』(筑摩書房、一九八七年)。
[22] 永井良和「文化社会学のおよそ40年をふりかえって」第94回日本社会学会大会シンポジウム1「文化社会学の快楽と困難――文化社会学会は可能かを問う」報告1、二〇二一年一一月一四日(オンライン開催、大会開催校:東京都立大学)。報告要旨は日本社会学会ウェブサイト、二〇二一年一一月八日掲載。永井は同要旨において、一八歳人口の減少下で「文化の研究」が受験生への訴求材料、社会学のセールスポイントとして利用され、多くの大学で関連科目が設置されたこと、また文化研究がジェンダー・スタディーズと同様、社会学の受容力によって大学内に場を得たことを述べている。論文版は、永井良和「文化社会学のおよそ40年をふりかえって」『社会学評論』73巻4号、二〇二三年、345–362頁、DOI: 10.4057/jsr.73.345(とくに345頁、354–356頁)。なお「社会学がジェンダー研究の制度的受け皿となった」という比較は大会報告要旨の方が直接的である。
[23] 大澤真幸『虚構の時代の果て』(ちくま新書、一九九六年)、佐藤俊樹前掲書(二〇一一年)。
[24] 宮台真司『制服少女たちの選択』(講談社、一九九四年)、同『終わりなき日常を生きろ』(筑摩書房、一九九五年)。
[25] 山田昌弘『パラサイト・シングルの時代』(ちくま新書、一九九九年)。
[26] 佐藤俊樹、前掲『社会学の方法』(二〇一一年)。
[27] 東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、二〇〇一年)以降の批評空間の展開を参照。
[28] パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』(イースト・プレス、二〇〇四年。ちくま文庫、二〇〇七年)。著者は後に、社会学そのものへの敵意が動機ではないと説明している。
[29] 一般社団法人社会調査協会「沿革」(https://jasr.or.jp/)。
[30] 樋口直人『日本型排外主義』(名古屋大学出版会、二〇一四年)、辻大介編『ネット社会と民主主義』(有斐閣、二〇二一年)。
[31] 山口智美・斉藤正美・荻上チキ『社会運動の戸惑い――フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』(勁草書房、二〇一二年)。
[32] 北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス、二〇〇五年)。
[33] 古市憲寿『誰の味方でもありません』(新潮新書、二〇一九年)。同書には自身のコメンテーターとしての役割と受容についての言及がある。出発点が『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社、二〇一一年)――若い本人が若者について書いたこと――であった点も含め、メディアが社会学者をどう選び見せるかの事例として参照した。
[34] 千田有紀「ノーベル賞のNHK解説になぜ『キズナアイ』?」Yahoo!ニュース個人、二〇一八年一〇月三日。
[35] 東浩紀前掲書(二〇〇一年)、難波功士『族の系譜学――ユース・サブカルチャーズの戦後史』(青弓社、二〇〇七年)。
[36] 岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社、二〇一五年)、岸政彦編『東京の生活史』(筑摩書房、二〇二一年)。
[37] 津田正太郎「ネット上で社会学者の評判はなぜ悪いのか」『擬似環境の向こう側』二〇二〇年二月二四日。津田は、ネット上で積極的に発言する社会学者は実際にはそれほど多くない一方、本来なら社会学者に分類されない人文社会系研究者も、政治・社会について発言して反発を受けると「社会学者」と見なされることがあると指摘している。同様の議論は、津田正太郎『ネットはなぜいつも揉めているのか』(ちくまプリマー新書458、筑摩書房、二〇二四年)にも見られる。具体的な誤分類の事例として、社会学者を自認していないライターの北条かやが、出演先企業のプロフィールで「社会学者」と記載された経験を報告している。北条かや「"好感度至上主義"のネット社会で、『社会学者』を自称することのリスク」『ハーバー・ビジネス・オンライン』二〇一八年一〇月二七日。ただし、これらはいずれも体系的な内容分析や定量調査ではなく、論者による観察および個別事例である。
[38] 日本学術会議「大学教育の分野別質保証のための教育課程編成上の参照基準 社会学分野」(二〇一四年)。
[39] Michael Burawoy, "For Public Sociology," American Sociological Review 70(1), 2005, pp. 4–28.
[40] 『社会学評論』誌上には、社会学の学問的性格を社会に説明する必要を論じた自己反省的な論考が複数ある。なお、政治的分極環境下で学問名が陣営識別語として機能しうるという本文の推測は、日本のTwitter政治空間のクラスタ分析(鳥海不二夫らの計算社会科学的研究)が示す分極的な情報環境を踏まえた本稿の推論であり、当該研究が「社会学者」という語の機能を直接検証したものではない。
[41] フランス上院、二〇一五年一一月二六日本会議の議事録(« J'en ai assez de ceux qui cherchent en permanence des excuses ou des explications culturelles ou sociologiques à ce qui s'est passé »)。二〇一六年一月九日の追悼式典での発言(« expliquer, c'est déjà vouloir un peu excuser »)は Le Monde ほかが報道。
[42] Bernard Lahire, Pour la sociologie. Et pour en finir avec une prétendue « culture de l'excuse », La Découverte, 2016.
[43] CNRS公式声明(二〇二一年二月一七日)。franceinfo « "Islamo-gauchisme" à l'université : ce terme "ne correspond à aucune réalité scientifique", répond le CNRS », 18 février 2021(https://www.franceinfo.fr/societe/islamo-gauchisme-a-l-universite-le-cnrs-condamne-l-utilisation-d-un-terme-qui-ne-correspond-a-aucune-realite-scientifique_4300847.html)。
[44] CBC News, "Harper on terror arrests: Not a time for 'sociology'," April 25, 2013.
[45] ボリス・ジョンソン(当時ロンドン市長)の二〇一一年八月九日の発言。The Guardian のライブ報道等を参照。
[46] Alan Sokal, "Transgressing the Boundaries," Social Text 46/47, 1996; 種明かしは "A Physicist Experiments with Cultural Studies," Lingua Franca, May/June 1996. 邦語での整理はソーカル、ブリクモン『「知」の欺瞞』(岩波書店、二〇〇〇年)。当時の『Social Text』が通常の意味での外部査読を行っていなかった点にも留意。
[47] James A. Lindsay, Peter Boghossian and Helen Pluckrose, "Academic Grievance Studies and the Corruption of Scholarship," Areo Magazine, October 2, 2018.
[48] Mikko Lagerspetz, "'The Grievance Studies Affair' Project: Reconstructing and Assessing the Experimental Design," Science, Technology, & Human Values 46(2), 2021(https://journals.sagepub.com/doi/10.1177/0162243920923087)。
[49] Musa al-Gharbi, "Academic Grievance Studies," Heterodox Academy(https://heterodoxacademy.org/blog/academic-grievance-studies/)。社会学誌への投稿六本がすべて不採択だったとの分類は同稿による。「社会学誌」の範囲の分類自体には議論の余地がある。
[50] Florida SB 266 (2023);州立大学システム理事会の二〇二三年一一月の決定と二〇二四年一月二四日の規則承認。報道として WFLX, "Florida removes sociology from core courses, bans DEI funding at colleges," January 25, 2024(https://www.wflx.com/2024/01/25/florida-removes-sociology-core-courses-bans-dei-funding-colleges/)。
[51] Fortune, "Florida just yanked sociology as a core class at its universities as the state's war on 'woke' rages," January 26, 2024(https://dc.fortune.com/2024/01/26/florida-state-universities-sociology-core-ron-desantis-war-on-woke)。
[52] The Independent Florida Alligator, "Sociology scrapped from general education in Florida universities," March 26, 2026(https://www.alligator.org/article/2026/03/sociology-removed); CBS Miami, "Florida removes sociology as a core subject in public universities," March 27, 2026(https://www.cbsnews.com/miami/news/florida-removes-sociology-as-a-core-subject-in-universities/)。
[53] Inside Higher Ed, "Florida Deals Another Blow to Sociology," March 30, 2026(https://www.insidehighered.com/news/quick-takes/2026/03/30/florida-deals-another-blow-sociology)。
[54] Florida Department of Education, "State Board of Education Removes Sociology from General Education in the Florida College System," April 17, 2026(https://www.fldoe.org/newsroom/latest-news/state-board-of-education-removes-sociology-from-general-education-in-the-florida-college-system.stml)。
[55] The Independent Florida Alligator, "'Deliberate attack': Sociology's removal from Florida general education draws criticism," March 30, 2026(https://www.alligator.org/article/2026/03/sociology-removal-from-florida-general-education-draws-criticism)。改訂教材の作成・配布と、大学ごとに採用状況が分かれていたことは同報道による。
[56] 二〇一九年四月のボルソナロ大統領・教育相による社会学・哲学分野への資金削減・転換の方針表明(ロイター、BBC等が報道)。同年に別途行われた連邦大学予算の凍結とは区別される。
[57] 二〇一八年一〇月のハンガリー政府令による、認定修士課程一覧からのジェンダー研究の削除。ELTEおよび中央ヨーロッパ大学が直接の影響を受けた。
[58] Víctor A. Hernández-Huerta and María Inclán, "Populist Attacks on Academic Freedom: How Populist Leadership Erodes Academic Freedom in Liberal and Electoral Democracies," Perspectives on Politics, 2025(https://www.cambridge.org/core/services/aop-cambridge-core/content/view/FB4B535AB73E67D5465DDD83680776D6/S1537592725102077a.pdf/populist-attacks-on-academic-freedom-how-populist-leadership-erodes-academic-freedom-in-liberal-and-electoral-democracies.pdf)。二〇〇〇〜二〇二一年の五九の自由民主政・選挙民主政を対象に、Global Populism Databaseの指導者言説指標とV-Demの学問の自由指標を結合し、民主主義水準、憲法的保障、司法・立法の独立性、社会的分極化、経済的変数を統制したうえで、ポピュリスト言説の強さと学問の自由との統計的に有意な負の関連を報告した比較研究。ただし観察データに基づく単一の研究であり、因果的解釈や一般化には独立した追試の蓄積を要する。
本稿は、日本社会学の公共的露出史・反社会学感情の形成過程・海外事例に関する三本の調査ノートを統合し、枠組みの明示と二〇二六年時点のフロリダ州の動向(一般教育科目リストからの社会学原論の除外と選択科目化)を加えて再構成したものである。本文中の時代区分と因果の見立ては、測定に基づく結論ではなく、資料から導いた仮説である。
