『帰る場所を決めるまで』 第1話 帰りたいのあとで
【あらすじ】
第4腰椎圧迫骨折で入院した八十歳の西岡隆三は、妻を亡くしてから一人で暮らしてきた自宅への退院を望んでいた。
歩行器で歩けるまでに回復したものの、着替えや入浴、調理、買い物など、一人の暮らしを再び続けられるかには不安が残る。
理学療法士の中本悠真、看護師の森下玲奈、作業療法士の桐谷奈緒らは、隆三の「帰りたい」という願いを、単なる希望で終わらせず、実際の生活へつなげようとする。
一方、娘の高橋美和は再転倒を恐れ、自宅退院に迷いを抱いていた。本人、家族、支援者がそれぞれの思いに向き合いながら、隆三は「帰れる場所」ではなく、これから暮らしていく場所を選んでいく。
患者の退院支援を通して、悠真と玲奈もまた、自分にとって帰りたくなる相手の存在を静かに意識し始める。
中本悠真は、病棟へ向かう前に電子カルテを開いた。
西岡隆三、八十歳。
第4腰椎圧迫骨折。
保存的治療。
回復期リハビリテーション病棟へ入棟したばかりだった。
画像を開き、骨折部の状態を確認する。
医師の指示、疼痛の経過、離床状況。
コルセットの装着についても記載があった。
妻とは五年前に死別。
現在は一人暮らし。
娘の高橋美和は、車で四十分ほどの場所に夫と暮らしている。
必要な情報を一つずつ拾っていく。
理学療法士が患者に会う前にできることは、少なくない。
けれど。
画面を見ているだけでは、分からないこともある。
この人は、今、何を怖いと思っているのか。
何ができるようになりたいのか。
そして、どこへ帰りたいと思っているのか。
悠真はカルテを閉じた。
それを知るには、本人に会うしかない。
病室へ入ると、隆三はベッドの上で横になっていた。
「西岡さん、こんにちは」
隆三が顔を向ける。
「理学療法士の中本です。今日から担当させてもらいます」
「理学療法士?」
「はい」
悠真はベッドの横まで行った。
「西岡さん、腰の骨を折られていますよね。起き上がったり、立ったり、歩いたり。そういう動きを安全に取り戻していくお手伝いをする仕事です」
隆三は少しだけ眉を上げた。
「歩く練習する人か」
悠真は笑った。
「それもします。でも、歩けたら終わり、ではないです。家に帰ってからどう暮らすかも、一緒に考えていきます」
「そうか」
隆三の声が、少し柔らかくなった。
悠真は、それ以上急がなかった。
初めて会った相手に、いきなり身体を任せる人はいない。
まず、
この人なら少し任せてもいい。
そう思ってもらうところから始まる。
「今日は、少し身体を動かしてみても大丈夫ですか」
「ええよ」
「ありがとうございます」
ベッドの脇には、腰椎用のコルセットが置かれていた。
「起きる前に、これを着けましょう」
隆三はコルセットを見た。
「これ、窮屈なんよな」
「そうですよね」
悠真は位置を確認しながら装着を手伝った。
「きつ過ぎませんか」
「まあ、このくらいやったら」
「苦しかったり、痛かったりしたら言ってくださいね」
隆三は小さくうなずいた。
コルセットは、ただ締めればいいものではない。
位置がずれていないか。
締め付けが強過ぎないか。
装着したことでかえって動きにくくなっていないか。
それも含めて、その人の動きを見る。
「では、起きてみましょうか」
隆三は身体を横へ向けた。
悠真はすぐには手を出さなかった。
どこまで自分でできるのか。
どう身体を使おうとするのか。
痛みが出るのは、どの瞬間か。
その動きを見ながら、必要なところだけを支える。
隆三はベッド柵に手をかけ、ゆっくり上体を起こした。
途中で、一度動きが止まった。
「腰、痛いですか」
「少しな」
「ここで休みましょう」
隆三は息を吐いた。
しばらくしてから、再び身体を起こす。
端座位になると、悠真は足の位置を確認した。
「ふらつきは?」
「ない」
「足のしびれとか、感覚が分かりにくい感じはありますか」
「それはないな」
「分かりました」
次は立ち上がり。
隆三は歩行器の前に座り、両足を床につけた。
「いつものやり方で立ってみてもらえますか」
「いつものって言われてもな」
そう言いながら、隆三は笑った。
その笑顔を見て、悠真も笑った。
「じゃあ、西岡さんのやりやすいやり方で」
隆三は身体を少し前へ移し、両手でベッドを押した。
立ち上がる。
一瞬、膝が揺れた。
悠真の手がすぐ近くまで動いたが、触れずに止まった。
隆三は自分で立位を保った。
「立てたやろ」
「はい」
「まだ、そんな年寄りちゃうで」
「八十歳ですけどね」
「言うな」
二人とも笑った。
その短いやり取りで、隆三の肩の力が少し抜けたように見えた。
悠真は、その表情も見ていた。
身体だけを見るのではない。
不安。
自信。
無理をしているのか。
本当に大丈夫だと思っているのか。
そういうものも、動作の中に現れる。
歩行器で病棟の廊下を歩く。
一歩。
また一歩。
悠真は横で歩きながら、足の運びを見ていた。
歩幅。
支持性。
方向転換。
その裏では、いくつものことを考えている。
筋力はどうか。
関節は十分に動いているか。
痛みが動作を止めていないか。
足底からの感覚は保たれているか。
そして何より、
この歩き方で、家の中を一人で移動できるのか。
リハビリセンターへ戻ると、隆三は椅子に座った。
「疲れました?」
「これくらいやったら大丈夫や」
「腰は?」
「少し重たいくらいやな」
悠真はうなずいた。
基本動作を中心とした評価では、自宅へ帰るための条件が、少しずつ見え始めていた。
しかし、まだ足りない。
「西岡さん」
「ん?」
「退院したら、どこへ帰りたいですか」
隆三は間を置かずに答えた。
「家や」
「やっぱり、ご自宅ですか」
「当たり前やろ」
「そうですよね」
「四十年以上住んどるからな」
隆三は窓の外を見た。
妻と暮らした家。
娘を育てた家。
五年前に妻を亡くしてからも、一人で守ってきた家。
「食事も自分でされてたんですか」
「してたよ。飯炊いて、総菜買って。朝はパンでええしな」
「買い物は?」
「近所のスーパーまで歩いてた。重たいもんは、美和が来た時に買うてくれた」
悠真はうなずいた。
そして、少し間を置いた。
「家に帰ることについて、心配なことはありますか」
隆三は答えなかった。
窓の向こうで、木の葉が揺れていた。
やがて隆三が、膝の上で両手を組み直す。
「帰りたいのは、帰りたい」
「はい」
「けどな」
声が少し低くなった。
「……帰って、一人で大丈夫かは、分からんけどな」
悠真は、すぐには答えなかった。
大丈夫ですよ。
そう言えば、隆三は安心するかもしれない。
難しいですね。
そう言えば、退院への気持ちを削いでしまうかもしれない。
どちらも、今の悠真には言えなかった。
まだ分からないのだ。
隆三が何を「大丈夫ではない」と感じているのか。
歩くことなのか。
風呂なのか。
食事なのか。
夜、一人でトイレへ行くことなのか。
それとも。
一人でいること、そのものなのか。
「分からないところを、一緒に確かめていきましょう」
隆三が悠真を見る。
「一緒に?」
「はい。西岡さんが家でしていたことを、一つずつ」
「大げさやな。入院する前まで普通にやってたんやで」
「そうですよね」
悠真は笑った。
「だから、その普通を取り戻せるか、一緒に見ていきましょう」
隆三は少し考え、
「まあ、頼むわ」
と小さく言った。
その日の記録。
起居動作。
立ち上がり。
歩行器歩行。
方向転換時のふらつき。
疼痛。
コルセット装着下での動作状況。
悠真は、一つずつ入力した。
最後に、
《自宅退院を希望》
と書いた。
そこで指が止まった。
――帰って、一人で大丈夫かは、分からんけどな。
その言葉は、記録には書かなかった。
書けなかったのではない。
まだ、その言葉が何を意味しているのか、分からなかったからだ。
悠真は画面を閉じる前に、西岡隆三の名前をもう一度見た。
帰りたい。
その言葉のあとにあるものを、
これから一緒に探していく。
[続きはこちらからどうそ]
『帰る場所を決めるまで』 第2話 できることの、その先|はるき たかお
『帰る場所を決めるまで』 第3話 心配する理由|はるき たかお
『帰る場所を決めるまで』 第4話 同じ人を、違う場所から|はるき たかお
『帰る場所を決めるまで』 第5話 歩ける、だけでは|はるき たかお
