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平成トレンディ小説 彗星群 第2話 映画でトラブル

第2話 映画でトラブル

 紳士服店を後にした二人は、食事のために駅前の繁華街を並んで歩いた。

 隣には、すっかり変身した田澤がいる。
 見上げる横顔は、さっき裏切りを目撃したかつての恋人――三島よりも高い位置にあった。

 (本当に背が高いな。百八十、超えてるよね)

 すれ違う人の中には、田澤に視線を向けたり、振り返ったりする者もいる。

 (やっぱり、かっこいいよね)

 そんな視線を感じた志織は、どこか誇らしかった。
 すると田澤が、妙に申し訳なさそうに口を開く。

「なんか、変に目立っちゃってる気がするな」

「そりゃあ、すごいかっこよくなってるから。前の服装も目立ってたけど」

「なんか……ごめんね。気を使わせちゃって」

「えっ?」

 申し訳なさそうな田澤の言葉に、志織の思考が一瞬止まる。

 そうこうしているうちに、目的の店に到着した。

「ここ、取引先の人とよく来るんだ。料理おいしいから。ここでいい?」

「うん、楽しみ」

 曇った顔をしていた田澤だったが、すぐに優しい穏やかな笑顔を志織に向けた。

 店は駅から少し歩いたところにある、小さな居酒屋だった。 
 古びた暖簾に、狭いカウンター。
 ガヤガヤした空気の中へ入ると、外の冷たさが一瞬でほどけた。

 田澤は、まだ少し緊張している。

 ビールが来て乾杯。
 グラスが鳴った瞬間だけ、二人の距離が近づいた気がした。

 志織は少しだけ話し方を崩す。

「いまの仕事...なんか、向いてない気がするんだよね」

 田澤は、志織の話を黙って聞いている。
 その真剣な表情に、志織の口は止まらない。

「実は、転職、考えてるんだ」

 田澤は驚いた顔をした。
 でも否定しない。

「……うん、それは……志織さんが考えることなら」

 志織は視線を落として笑った。

「ほんとはね。グラフィックの仕事、やってみたいんだ」

 田澤の目がぱっと動く。

「グラフィック?」
「うん、ポスターとかチラシとか、そう言うのデザインするの」

 志織ははっと我に帰る。
 言ってしまった。
 自分でも、希望としては持っているが、現実的な話ではない。
 胸の鼓動が速まるのを感じてしまう。
 しかし、田澤は笑わなかった。

「……それ、すごいよ」

「ポスターって、俺、映画好きだからさ、あれで面白そうだな、て決めたりするよ」

「それって、志織さんにしかできない物を、作れるってことじゃない」
「すごい」

 興奮気味に話す田澤に、ぽっと胸が温まる志織、思わず苦笑。

「……大げさだよ」

「大げさじゃないよ」

 田澤はまっすぐ言った。

「……俺、尊敬するよ」

 志織は、田澤の真っ直ぐな言葉を、笑ってごまかした。

「なにそれ?恥ずかしい」

 田澤も照れたみたいにグラスに口をつけた。

「田澤くんは、何か自信を持ってることはないの?」

 不意を突かれたみたいに、田澤の視線が一瞬だけ宙を泳ぐ。

「今は、ないかな?学生時代はあったけど」

「何か、部活とか?」

「空手」

「意外」

「インターハイも行ったし、それで大学も入れた」

 志織は思わず目を見開いた。

「本物じゃん」

 田澤はグラスの水滴を指でなぞりながら、どこか照れ隠しみたいに笑う。

「うちは田舎だから、競技人口が少なくてね」

 志織は「そうなんだ」と頷きながらも、さっきの“本物じゃん”がまだ胸の奥で熱を持っている。

「インターハイの一回戦なんて、一瞬でやられたもの」

 肩をすくめる言い方は軽いのに、目だけは当時を思い出しているみたいだった。

「始め!って言われた瞬間」

 田澤は箸を止め、少しだけ目を泳がせた。
 志織が「瞬間?」と促すと、彼は苦笑して続ける。

「相手が消えたと思ったら、一瞬で目の前に顔が現れて」

「現れて?」

「気がついたら、体育館の照明を見てた」

 志織は息をのんで、「……怖いね」とだけ言った。

 田澤は小さく頷き、グラスに目を落とした。

「井の中の蛙ってのを、あの時ほんとに実感させられたなあ。……それまでの自信も木っ端微塵」

 笑って誤魔化そうとするが、まだ昇華できていないことは、表情で理解できた。

「結局スポーツ推薦で入れた大学も、惰性で四年間過ごして。大した実績も残せなかったよ」

 志織は箸を置いて、田澤の顔を見つめるだけだった。
 かける言葉を探すも、見つからない。

「ちなみにその人、今は大晦日に格闘技の番組に出てるんだよ」

 一瞬、田澤の口元が自嘲気味に持ち上がる。志織はそこで、ぱっと表情を明るくした。

「本物の本物じゃん。逆に対戦したの、自慢した方がいいよ」

 田澤は「え」と小さく声を漏らし、目を瞬かせた。

「そうか.......言われてみれば、そうだね」

 目から鱗が落ちた、と言う表情。

「営業トークで使わせてもらうよ」
「お宅の沢渡課長、格闘技好きらしいし、ありがとう」

 志織は小さく笑って、肩をすくめた。

「うん、そういうの、ちゃんと使える思い出にしなよ」

 田澤は返事の代わりに、グラスを持ち上げて口をつける。

 気が付けば、店の時計は終電の時間に近づいていた。

 二人は外へ出る、夜風がほろ酔いの頬に心地よい。
 繁華街の裏を通らざるを得なくなって、ホテルの看板が並ぶ通りを避けきれない。

 志織は歩きながら、胸が変なふうにざわつくのを感じていた。
 一瞬だけ、頭をよぎる。怖いくらい自然に。

 その気配を感じ取ったのか、田澤が突然、足を止めた。

「……志織さん」

 志織も止まる。田澤は真剣な顔で言った。

「俺と歩いていて、恥ずかしくない?」

 志織は意味が分からなくて一瞬固まった。次の瞬間、吹き出しそうになる。

「なんで?」

「……いや」

 田澤は視線を泳がせる。

「さっきから……見られたら嫌だなって」
「こんな道だし、志織さんが、変なふうに……」

 志織は笑ってしまった。
 切なさと可笑しさが同時に来る。

「ぜんぜん。恥ずかしくないよ」

「他にも歩いてる人いっぱいいるじゃん」
「誰もそこまで考えないよ」

 志織が笑い飛ばしても、田澤の表情は晴れない。

「いや、そうじゃなくて」
「一緒なのが俺だってこと」

「どゆこと?」

「……いや、なんでもない」

「もう、気にしすぎだよ」

 彼の強張った空気をほぐそうと、志織は何気なくその腕に触れようとした。

 その時。

 ――するり

「え?」

 志織の手が空を切る。田澤は一歩、反射的に距離を取っていた。

「……俺に、触らないほうがいいよ」

「え? 何?」

「その手、腐っちゃうから」

「何なの?」

「俺、バイ菌だから」

 その言葉の響きに、志織の心臓が冷たく跳ねた。

 その時の田澤の目が、先程まで志織の話を熱心に聞いていた目ではない。瞳は完全に光を失っていた。

「……何? どういうこと?」

「ごめん。……ちょっとトラウマがあって、つい」

 繁華街のネオンに照らされた彼の横顔は、一瞬だけ、ひどく遠い場所にあるように見えた。

(なんか、この人、色々抱えちゃってるのかな)

 改札の前。
 人の流れが急に増える。
 田澤は改札に入る前で立ち止まり、志織の方を見る。

「なんか、こんな時間まで付き合わせちゃってごめん。また、会ってくれるかな?」

「もちろん、色々と話を聞いてくれてありがとう」

 そう告げた志織は、田澤に向けてすっと手を差し出した。
 田澤は困惑の表情を向ける。

「握手」
「仲良くなれたから、これからもよろしくね」

 不安そうに志織の手を見つめて躊躇する田澤に、志織が慈しみの籠った瞳で微笑みかけた。

「大丈夫だよ、私、あなたをバイ菌だなんて思わないから」

 目を潤ませた田澤は、恐る恐る、志織の掌を優しく握った。
 帰路につく電車の車中、志織は自分を励ましてくれる田澤のまっすぐな目を思い浮かべる。

 (なんか、私には三島さんしかいないって思い込んでたな)

 裏切りの現場を目撃した時の悲しさは、すっかり消えている。
 彼女の中で田澤の存在が大きくなっていくのを、実感していた。

 (いい出会いに、なったらいいな)

 車窓に映る自分に、軽く微笑む。

 田澤と出会い、不思議な夜を過ごした翌日。
 志織は会社の食堂で、同僚の里沙子と向かい合っていた。

「志織〜……あんた、本当に大丈夫?」

 里沙子が心配そうに覗き込んでくる。

「何が?」

「三島主任のこと」
「あんた部署違うから知らないかもだけど、あの人最近――」

「知ってるよ、昨日、見たから」

「……えっ、そうなの?」

 里沙子が絶句したその時、背後から無神経に明るい声が響いた。

「志織〜!お疲れ〜今日そっち行くから、なんか作って待っといて」

 トレイを持った三島が、当然のような顔で志織の隣に座ろうとする。
 昨日、歓楽街を歩いた男が、平然と「飯を作れ」と言ってくる。
 その厚顔無恥さに、志織の心は驚くほど冷めていった。

「申し訳ありませんが、来ないでください」

「……え?」

「昨日は、何をなさっていたんですか?」

「は? ……なんだよ、何拗ねてんだよ」

 鼻で笑う三島。
 その態度に、志織は決意を固めた。

「拗ねているつもりはありません」
「見ましたので」

「っ……い、いやいやいや! 違うって、あれは仕事の……」

「たまには、つまみ食いしたいとか?お仕事ですか?」

「それは……」

 三島が言葉に詰まる。
 すっと手を差し出した。

「鍵、返してください」

「へ?」

「うちの鍵です」
「そのチェーンの先に、じゃらじゃら付いている中にありますよね」
「今、返してください」

 周囲の視線が集まる中、三島は顔を引きつらせながら、渋々と鍵を外してテーブルに置いた。
 志織はそれを迷わず回収し、立ち上がる。

「今まで、ありがとうございました」
「さようなら」

 淡々と、一度も振り返らずにその場を去る志織。
 背後で里沙子が「志織、かっこいい……!」と小さく呟くのが聞こえた気がした。
 わなわなしている三島の腕を、昨夜の女が無神経に掴んだ。

「三島しゅに〜ん、一緒に食べましょうよ〜」

 引っ張られていく三島は、何も言えない。
 去り際、女は志織を一度だけ見て、冷やかに口元を上げる。

 食器の返却口前で里沙子が志織に声をかけてきた。

「やるねえ、でも大丈夫?」

「何が?」

 里沙子は声を落として、周囲を一度だけ見回した。

「主任、たまに若い子いびったりするから。あんたもネチネチやられるんじゃない?」

「大丈夫。私、会社辞めることにしたから」

「……え。ちょ、待って。それ、本気?」

 志織は満面の笑みを作る。

「うん。いい機会だから、元々やりたかったことに挑戦することにしたの」

 里沙子は目を見開いた。

「……本気で言ってる?」

「うん」

 終業時刻の直前、営業部の三島の上司、沢渡課長が受付に現れた。

「聞いたよ聞いたよ、多辺くん」
「……何をですか?」

「ついに、あいつを切ったって?」
「プライベートなことですので」

「いやさ、見ていて心配だったんだよ。いや〜安心したよ」

 沢渡は上機嫌のまま、身を乗り出してくる。

「でさ、取引先に君にぜひ紹介したい奴がいるんだよ〜」
「お断りします。一応、失恋して傷心中ですから」

 志織の返答を待たずに、続ける沢渡。

「おっちょこちょいで、不器用なんだけど」
「紹介の前置き、じゃないですね」

「でも誠実で真面目でさあ。君も応対したことあるだろう? この間も、約束の日を間違えて前の日に来たりして」

 志織の手が、止まった。
 笑っているのに、志織の指先だけが落ち着かない。

「へ、へ〜。確かに真面目そうで、背も高いし……ハンサムな人だったかも」

「よく覚えてるじゃない」

「ま、まあ一昨日のことですから。そうそうアポを間違う方もいないですし」

「だから、どうだい? 会ってみるだけでも。男でできた心の傷は、男で癒さないと」

 志織はきりっと顔を上げた。

「間に合ってます。それと、課長」

「はい」

「もうすぐ二十一世紀です。そういう発言は、セクハラですよ」

 沢渡は一拍置いて、肩をすくめた。

「……今のは、ごめん」

「分かればいいです」

 志織は端末に視線を戻し、手元の紙を揃える。
 終業時刻まで、あとわずか。
 胸の奥のざわつきを、仕事の動きで押し込めた。

 沢渡はそれ以上踏み込まず、いつもの調子に戻る。

「じゃ、紹介はナシ。……ただ、ああいう男は今どき貴重だぞ」

「課長」

「はいはい。仕事する顔だな」

 志織は小さく息を吐いて、淡々と告げた。

「私、今月いっぱいで退社します」

 沢渡の表情が止まった。

「……え?」

「いい機会だから。元々やりたかったことに挑戦することにしたんです」

 志織は笑ってみせる。
 まっすぐすぎて、自分でも少し可笑しいのに、笑いきれない。

 沢渡は数秒、言葉を探してから、短く頷いた。

「そうか。……応援するよ」

「ありがとうございます」

 就業時刻のチャイムが鳴った。

 志織はペンを置き、胸の奥で小さく区切りをつけた。

 数日後、田澤と志織は二人で映画を観ることになっていた。
 初夏の空は、うすい青に光っている。
 日が落ちても空気はやわらかく、湿り気を含んだ風が頬に触れる。

 待ち合わせは、大きな映画館の前。
 志織は少し早く着いて、入口のポスターの前で立ち止まった。
 文字を読んでいるふりをして時計を見て、またポスターを見る。

 (遅いな)

 そう思った瞬間、背後から慌てた足音がした。

「ごめん!」

 振り返ると、田澤が息を切らして立っていた。

「車……停めるところ、ちょっと手こずって。ごめん」

 志織は怒る準備をしていたはずなのに、できなかった。
 田澤の目が真剣すぎて、言い訳が子どもみたいに素直で。

「いいよ。間に合ったし」

 田澤は胸を撫で下ろすみたいに頷いた。

「……よかった」

 その言い方に志織は笑ってしまう。
 映画館の中は暗く、空気が少し湿っていた。席は横並びで、肘掛けが二人の間にある。

 志織は座る時、ほんの少しだけ緊張した。手を置く場所を探して膝の上に落ち着かせる。映画が始まるまでの数分が、やけに長い。

 スクリーンに光が走る。

 志織は映画を追いながら、どうしても手元が気になったが、田澤の手元は動く気配がない。

 (……まあ、まだ会って二回目だし、そうだよね)

 (何を期待してんだろ。私、三島さんは最初っからだったから、毒されてるなあ)

 志織はちらりと田澤を見た。田澤の顔はスクリーンの光に照らされている。

 ――動かない。

 手も、肩も、視線も。一ミリも動かない。

 (……え)

 田澤の横顔は信じられないくらい真剣だった。
 眉がわずかに寄り、口元が固い。スクリーンの中に入り込んでしまったみたいに、まったくこちらを意識していない。

 そして、田澤の目が、きらっと光った。涙ぐんでいる。

 (嘘でしょ?いや、確かに感動するけど)

 志織はしばらく田澤の顔から目が離せなくなってしまった。
 じっと見つめていても、田澤の目線はスクリーンから動かない。

(なんか……こっち見てる方が、面白いかも)

 田澤の頬を、涙がつたう、それがスクリーンの光に照らされてキラリと輝いた。

 そして、映画は幕を閉じ、映画館に光が戻ってきた。

 志織は伸びをしながら田澤を見る。
 彼はまだ余韻の中にいた。ぼんやりして、でも目だけが熱い。

 志織が言う。

「……映画、好きなんだね」

 その瞬間、田澤のスイッチが入った。

「好きだよ」

 そう言い切ってから止まらない。

「あの場面さ、カメラの寄り方が……」
「役者の息のタイミングがさ……」
「演出が、あれ、わざと一拍遅らせてるんだよ」
「音も、あそこで一回落として……」

 志織は笑ってしまう。さっきまで泣いてた人が、急にこれ。

 田澤は歩きながら語り倒した。志織が相槌を打つ暇もないくらい、言葉が溢れてくる。

 映画の話が人生の話に繋がっていく。

 いつの間にか志織は、それを聞いているのが心地よくなっていた。

 (この人、言葉が好きなんだ)

 切なくて、可笑しくて。まるで二人の関係そのものだった。

 夕方。車の場所に戻ると、田澤の足が止まる。

「あ……」

 志織も見る。田澤が運転席に滑り込み、キーを回す。

 ――反応がない。

 もう一度。さらにもう一度。
 メーターは薄く瞬いたきり、すぐに落ちた。

「……うそ」

 田澤の顔から血の気が引く。志織は、笑っていいのか分からなくて、でも笑ってしまった。

「……バッテリー、切れた?」
「慌ててたから、助手席から滑って落ちた財布探すのに、室内灯....消し忘れてた」

 田澤はうなだれたまま、小さく頷く。

「……どうしよう」

 その言い方が小学生みたいで、志織はもう駄目だった。

「……もう。田澤くん、ほんと……」

 その続きが言えない。
 田澤はしょげたまま、でも志織の笑い声に救われたみたいに小さく息を吐いた。

「ブースターは積んでるから、駐車場に誰か来るまで待とうか。」
「じゃあ、私飲み物でも買ってくるよ、コーヒーでいい?」

「面目ない」
「ほら、そんな気にしないで」

 その後、二人は車を挟んで缶コーヒーを口にしていた、項垂れる田澤を、慈しむように眺める志織。

「ほら、大丈夫だって、待ってる間に話もできるし、そんなに落ち込まないでよ」
「結構あるんだよね、俺。だからブースターは常備してるんだ」

「それ、危機管理ができてるか、できてないのか、わかんないね」
「.....注意力、散漫なんだよね」

 そんな時、志織はふと、初めて会った時に、気になっていたことを口にした。

「あのさ、落ち込んでる時に、こんなの聞くのもどうかなんだけど」
「何?」

「自分がバイ菌だ、とか、誰かに言われてたの?」

 田澤はまた、一瞬目の光を消した、虚ろな眼差しを志織に向ける、志織が一瞬肩をびくつかせた。 

「小学校の時、当時の俺、根暗だったし、体は大きいけど気が弱くて、ターゲットになっちゃったんだよね」
「その時は、空手やってなかったの?」

「やってたよ」
「だったら、反撃しなかったの?」

「相手が怪我しちゃうよ、それは師範からも、言われてたから」
「でも、それじゃあ、いつまで経っても終わらないよね」

「うん、体が大きくて、空手やってる俺が、何も反撃しないのが、楽しかったんだろうね」 
「男らは、好き放題言いたい放題、手も出されてたなあ、ま、あんまり痛くもなかったし」

「そっか」
「でも、女の子たちの方は、机をあからさまに遠ざけたり、肩が触ったら泣き出したり、目が合ったら、あかんべー。正直しんどかったよ」

 志織は、若干心がざわついていくのをかんじた。

「なんか、話聞いてると、私も腹立ってきたなあ」
「中学卒業まで続いてね、高校になると、急にみんなが無関心になって、楽だった、部活の奴らはみんな、良いやつだったから」

 田澤の話す幼少期の思い出は、どれもが志織には信じられないものだった。

「みんな、多分あなたが怖かったのかもね」
「怖い?」

「人間、自分にはない物があって、自分のできない事をやってる存在って怖いものだよ」
「実際、インターハイに出るくらいだもの、みんな、あなたの凄さがわかって、話しかけられなかったんじゃないの」

「そうかなあ」
「そうなんだよ、私が言うんだから」

 田澤は、目を見開き志織と目を合わせた。

「だから、自信持って、ね。」
「うん、ありがとう。」

 その時、駐車場に人影が現れた、精算機の前の中年男性に駆け寄り、頭を下げる。
 男性は、必死に頭を下げる田澤を笑顔で制し、こちらに向かってくる。

(辛い事があったから、あんなに他人に対して、丁寧でいられるんだろうなあ)

 ぶおん!

 田澤のスターレットのエンジンに火が入る。

「あの、ありがとうございました。お時間取らせてしまって、駐車料金、私が払いますので、金額を教えてください」

「いいよいいよ、それより、彼女さん待ってるから、早く行ってあげな」

 田澤は少し驚いたみたいに瞬きをして、それから頷く。
 恥ずかしそうな笑顔で、近づく志織。

「彼女さんだって」
「ごめん、変に誤解されちゃって」

 その田澤の言葉が、神経を逆撫でした。

 「.....いい加減にしなよ」

 低い、地の底から響くような志織の声。
 そのまま言葉は続く。

「あなたは、もう子供の頃のあなたじゃないんだよ!あなたはもう、バイ菌なんかじゃないの!だから、もうその、俺なんてって言うのはやめて」
「少なくとも、私の前では....」

「……志織さん」

「あなたのことが嫌だったら、今日、一緒に映画は見に来てないから....」

 初夏の日差しは、茜色の光となり辺りを照らす、田澤の揺れる瞳は潤みを増して、志織を見つめるのだった。

 車が止まり、ハザードが点滅する。

 田澤はまだどこかしょげていた。
 バッテリーのせいだけじゃない。
 たぶん今日の終わりが近いせいだ。

 志織が勢いで言った。

「今度、ドライブ連れてって!」

 言った瞬間、自分で驚いた。
 次を約束する言葉だったからだ。

「今日はさ、バッテリー切れで終わったじゃん」「だから、取り返して」

 田澤の顔がふっと固まる。
 次の瞬間、ぱっと明るくなった。

「……もちろん!」

 声が大きい。

「そんなに?」

「うん」

 頷きながら、子どもみたいに言った。

「……すごく嬉しいよ」

 真っ直ぐすぎて、一瞬だけ言葉を失った。

「じゃ」

 志織はできるだけ軽く言う。

「またね」

 田澤は満面の笑みで手を振った。

「うん、また!」

 志織は車を降りて数歩歩いてから振り返る。田澤はまだ手を振っている。

 笑いながら小さく手を振り返し、歩き出した。

 背中を向けた瞬間、胸の奥にひとりごとがこぼれる。

 (……あれは、根深いなあ、あそこで、なにか気づくでしょ普通)

 自分を否定する田澤を、諌めた時の様子を思い出すと、思わず口を尖らせてしまう。

(いつか、もっと積極的になって、くれるよね?)

 冗談みたいな、少し本気のこもった願いだった。 

次のお話はこちらです↓

↓以下のマガジンに全話まとめております。

※ご拝読ありがとうございます。
1998年の物語です、ご意見、ご感想。
各話それぞれのBGMに似合いそうな、90年代の楽曲などを、コメントにてお寄せください。
励みになります。では、次回も是非読んでいただけると嬉しいです。

ちなみに、著者の第2話のイメージは
くじら12号(JUDY&MARIE)
でした
ではでは

↑こちら筆者の別作です
是非ご覧ください

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