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【連載①】マッキンゼー流のロジックで、離職率60%の絶望施設を再生させた話【はじめに+プロローグ】

著:高坂涼介(社会福祉法人いちご会)
介護職員の働きやすい職場環境づくり内閣総理大臣表彰及び厚生労働大臣表彰 厚生労働大臣奨励賞受賞・介護労働安定センター理事長表彰 最優秀賞(日本一)受賞
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はじめに

また、辞めた。
スマートフォンに届いたLINEを見た瞬間、あなたは何を感じただろうか。
「〇〇さん、辞めます」

怒り、でも、ない。
悲しみ、でも、ない。
もしかしたら、驚き、でも、ない。

「ああ、また、か」
そう思った自分に、気づいた瞬間、少し怖くなる。
いつから、自分はこんなに慣れてしまったのだろう、と。

――――――――――――――――――――

採用にお金をかけた。求人サイトに出稿した。
面接を丁寧にやった。歓迎会もした。
それでも、三ヶ月、半年、1年。
入ってくるそばから、辞めていく。

現場は常にギリギリだ。有給なんか取れる状態じゃない。夜勤の穴が空くたびに、誰かが泣きながら出勤してくる。
面談をすると、「大丈夫です」と言う。
でも大丈夫じゃない顔をしている。

「どうですか、困っていることはありますか」と聞く。
「特にないです」と言われる。

その夜、LINEが届く。「辞めます」と。

自分には、この人たちの本音が、見えていない。
そう気づいたとき、管理職として何をすべきかが、わからなくなる。

面談を増やせばいいのか。給与を上げればいいのか。もっと厳しくすべきなのか。もっと優しくすべきなのか。

正解がわからない。
そして、いちばん怖いのは、このまま何も変わらないことだ。

「介護は離職率が高いもの」という嘘

本書を手に取ったあなたに、最初に1つだけ言わせてほしい。
介護施設の離職率が高いのは、仕方がない。
これは、嘘だ。

正確に言えば、仕方があるかどうかは、施設長や管理職のあなた次第だ。

日本の介護施設の平均離職率は、約15%だ。
低い施設は、もっと低い。
一桁台の施設もある。
当然、業種特性はある。夜勤がある。体力を使う。感情労働だ。そういった負荷は確かに存在する。
でも、それはあなたの施設だけの問題ではない。隣の施設も、全国の施設も、同じ条件で戦っている。
それでも、定着している施設がある。
何が違うのか。

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もう1つ、壊しておきたい勘違いがある。
「離職を止めるには、給与を上げるしかない」
これも、正確ではない。
僕が3年かけて離職率を60%から9%に下げていく中で、わかったことがある。
人が辞める理由の本質は、お金ではない。

「言っても変わらない」という絶望だ。

「自分の声が、届いていない」という感覚だ。

「この職場で、自分は見えていない」という孤独だ。

だから、まず必要なのは給与改定ではない。
「聴く仕組み」だ。
声を拾い、応え、形にする。
それだけで、組織の空気は変わる。
お金では買えない変化が、ある。

この本を読み終えた先に

本書では、1枚のアンケートから始める方法を書く。
難しいことは、何もない。五つの問いを職員に渡す。返ってきた声を、全件読む。全件に、返事を書く。それだけだ。
それだけで、三ヶ月後には、職場の空気が変わっている。

会議の話もする。30分で終わらない会議は、職場を壊す。30分で終わる会議は、職場を救う。そのルールは、たった1つだ。

採用の話もする。「入ってきても辞める」のは、採用の方法に原因がある。面接でたった1つの仕掛けを入れるだけで、定着率は変わる。

評価制度の話もする。「頑張っても評価されない」と思われている職場では、誰も頑張らない。でも評価制度は、ゼロから作る必要はない。「職員と一緒に決める」だけで、機能し始める。

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本書の内容は、すべて、実際に僕の施設でやったことだ。
机の上で考えた理論ではない。現場で失敗しながら、修正しながら、積み重ねてきた実践の記録だ。
ここが、机上の空論を語るコンサルタントとは重みが違う。

「うちの施設には当てはまらない」と思うかもしれない。
でも、離職率60%の施設に僕のやってきたことは当てはまったのだ。

職員が次々と辞め、満床にもならず、赤字が続き、「親の七光りが来た」と冷たい目で見られた施設に。

その施設が、国から「日本一の職場」と呼ばれるようになった。
あなたの施設に当てはまらない理由は、何もない。

「なんで今?」と言って出勤した、あの朝のこと

父から「会社を売った」と告げられた朝、僕が言えた言葉は、たった一言だった。
「……なんで今?」
それだけ言って、出勤した。
跡取りとして育てられ、薬剤師の資格を取り、家業に入った。

それが廊下の立ち話で、消えた。

その後、買収先の太陽薬品で数字と効率の世界を生きた。マッキンゼー・アンド・カンパニーとのプロジェクトで、全国120店舗の人時を1分単位で設計した。数字こそが正義だと信じていた。

その同じ僕が、コロナ禍の真っ只中、介護未経験のまま特別養護老人ホームの事務長になった。
デスクに座ってわずか5分後、施設長が気まずそうな顔でやってきた。差し出されたスマートフォンの画面には、スタッフが施設長に送ったLINEが映し出されていた。
「もう無理です」

僕が積み上げてきた経営の知識は、この四文字の前で、完全に沈黙した。

そこから3年かけて、離職率を9.1%まで下げた。日本で最も働きやすい介護施設として、国に認定された。
この本は、その3年間の、正直な記録だ。

颯爽とやってきたカリスマが、颯爽と変えた話ではない。

一人ひとりに頭を下げて、聴いて、失敗して、また聴いた話だ。

あなたの施設でも、きっとできる。

なぜなら、あの廊下の立ち話で夢を失った僕にも、できたのだから。

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本書を読み終えたとき、あなたの手元には、明日から使えるツールが残っている。
アンケート1枚。会議のアジェンダ1枚。採用チェックシート1枚。
でも、それよりも大事なものが残っている。
「この職場を、変えられる」という確信だ。
それだけを持って、ページを開いてほしい。

高坂涼介(こーさか)
社会福祉法人いちご会 事務長

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プロローグ


最初のいちご

父が「イチゴ薬局」という薬局を創業したのは、昭和51年だった。
場所は岐阜県某市。

父は地元の薬科大学を出たあと、愛知県のみなとドラッグという薬局に就職し、5年間、ひたすら働いた。
給料はほとんど使わなかった。
薬局で出るダンボールを古紙回収業者に売り、浮いたわずかな金も貯金に回した。
目標があったからだ。
「自分の薬局を持つ。」

5年でその夢を叶えた。当時一緒に働いていた女性の従業員を口説き落とし、2人で地元に帰って開業した。
イチゴ薬局。

開業したドラッグストアは、大当たりだった。
朝9時から夜の11時まで、年中無休で両親は働いた。
地元の薬剤師会からは相当な嫌がらせを受けたが、父は屈しなかった。
「お客様のために商品は日用品、食料品、くすり、なんでも1円でも安く届けること、それが街のよろず薬局の使命だ」と言って、圧力を無視し続けた。

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その翌年、長男の僕、涼介が生まれた。
生まれるその日まで、母は店でレジを打っていたという。

僕は、お客さんに育てられたといっても過言はない。
朝9時から夜の11時まで、年中無休で開いているイチゴ薬局に、両親がゆっくり子どもの世話をする時間はなかった。
だから、歩き始める前の赤ん坊の頃から、僕は店の中に歩行器ごと置かれ、代わる代わるお客さんにあやしてもらっていた。
常連のおばさんが頬をつんつんしてくれる。
おじさんが抱っこしてくれる。
「涼介くん、大きくなったね」という声が、いちばん古い記憶のひとつだ。

さらに、気がつくとお客さんのお家に連れていかれ、晩御飯を食べさせてもらったり、お風呂に入れてもらったりしていた。
親戚でも何でもない。
ただ、薬局の常連さんだ。
そういう幼少期だった。

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小学校に上がると、店の手伝いが始まった。
商品の品出しと、ダンボールの解体。
箱を潰して、まとめて、所定の場所に積む。
それが、僕の「仕事」だった。
こなした分が、小遣いになった。
遊ぶお金は働いて稼ぐものだ、と思っていた。

夏休みになると、3人兄弟で1ヶ月間、おばあちゃんの家に預けられた。
両親は店を休めない。
だから子どもだけで過ごす。
寂しかったかというと、そうでもなかった。
おばあちゃんの家には自由があった。

忘れられないのは、夏祭りだ。
町内会の夏祭りに、イチゴ薬局が出店した。
兄弟3人で店番をした。
何を売ったのかは、もう覚えていない。
ただ、その日の売上は40万円だった。
3人の小学生が、1日で40万円。

父はその話をするとき、いつも少し誇らしそうな顔をした。僕はその顔を見るたびに、何かを証明した気持ちになった。
この店は、ちゃんと僕たちのものだ、と。

父から「お前がここを継ぐんだぞ」と言われた記憶は、正確には思い出せない。
言われたというより、そういうものだと最初から知っていた気がする。
家の空気が、そして地域がそう言っていた。

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ただ、父は早くから、ひとつの習慣を持っていた。
息子の人生を、息子に聞かずに決めることだ。
小学校の時、僕は野球が好きだった。クリーンアップを打たせてもらっていて、ある夏の試合で満塁ホームランを打ったこともある。その夜の祝勝会で父が全員の焼肉代をおごらされた話は、今でも覚えている。

中学に上がるとき、父が言った。
「野球はいつでもできる。勉強は今しかできないぞ」
小学校6年生の子どもに、それを決めさせる大人がいるだろうか。わかるわけがない。ただ、父が言うのだから、そういうものだと思った。
野球をやめた。
進学校に進んだが、勉強についていけなかった。一度やめた野球を高校で再開したが、中学でのブランクもあり、万年補欠だった。

高校で、今度は料理人になりたいと思った。
テレビで見た料理の世界に本気で憧れた。
それも、周囲の大人たちの空気が許さなかった。「お前は薬剤師になるのだ」
「お前はイチゴ薬局を継がなければならない」。

言葉にされるより前から、その方向にしか道がなかった。
だから、大学は、薬学部しか受けなかった。
十二もの薬科大学を受けた。
ハガキをめくるたびに「桜散る」「桜散る」「桜散る」。一つを残し全部落ちた。

唯一受かったのが、福岡の大学だった。当時、偏差値が最も低いと言われていた薬科大学だ。
「まあ受かったんだし、これも何かの縁だから行った方がいい」と父が言った。

箱入りのボンボンが、福岡で一人暮らし。
無理だと思った。でも、行くしかなかった。
1996年4月。僕は福岡にいた。

福岡の4年間と、マクドナルドの教育

当時の薬学部は、四年制。2006年から六年制に移行したが、その頃はまだ4年で卒業できた。
福岡での大学生活は、いわゆる完全な大学デビューだった。

酒を覚えた。タバコを覚えた。ギャンブルも覚えた。岐阜から一人で福岡に来た僕には、干渉してくる大人が誰もいなかった。
父もいない。母もいない。薬局もない。

「イチゴ薬局の長男」という肩書きが、はるか600キロ東の岐阜に置いてきた感覚だった。

バイトはいくつも掛け持ちした。
居酒屋、コンビニ、日雇い、寿司のデリバリー、ファミレスなどなど。稼いだ分は、ほとんど遊びに使った。

そして、親友と呼べる友達が、たくさんできた。
故郷を離れ、縛るものが何もない場所で、初めて自分が何者かを選べる感覚があった。
勉強は相変わらず苦手だったが、福岡での4年間は、人間としての土台を作った時間だったと、今は思っている。
4年で卒業し、薬剤師の国家試験に合格した。
ただ、合格してすぐにイチゴ薬局へ戻るつもりは、なかった。
それほど福岡は居心地が良い土地と人柄の街だったからだ。

就職もしない薬剤師。
それでも生きていくにはお金は必要だ。
マクドナルドへ行ったのは、父のアイデアだった。
「あそこは教育制度がしっかりしているから、見てこい」と言われた。
薬局経営に活かせる何かが、あそこにある、という父の直感だった。

当時は、80円ハンバーガー、100円チーズバーガーの時代だった。値下げキャンペーンが話題を呼び、どの店舗も信じられないくらい忙しかった。
バイトで入って、初めて知った。

その店舗は、全国で売上ランキング三位の店だった。知らずに面接に行っていた。
シフトは、だいたい15時からクローズ(23時)だった。
バイト仲間のほとんどが、一六歳から一八歳の高校生だった。大学を出た二二歳は、ほぼ最年長だった。
最初は「なんでこの人がここにいるんだ」という顔をされた。でも、繁忙時間に一緒に並んでフライヤーを揚げていれば、そんなものはすぐ消えた。

その店には、仁村さんという社員がいた。年は少し上だったが、気が合った。バイトが終わると、よく一緒に出かけた。ダイエー戦も見に行った。(今はソフトバンクホークス)休みの日も連絡が来た。「今日どこか行かんか」と。

その頃、マクドナルドが徹底していたのは、誰が入っても同じ品質を出せる仕組みだった。マニュアル。タイム管理。ポジション別の動き方。一六歳のアルバイトが、初日でもある程度動けるように設計されていた。

面接は、アポなしだった。履歴書を手に持って、店に入り、「面接してください」と直談判した。
当然、「今日は無理です」と言われた。
それでも粘って、無理やり面接してもらった。
「なぜ薬剤師なのに、マクドナルドで働くんですか?」
店長に聞かれた。「教育制度を学びに来ました」と答えた。
少し間があって、採用された。
バイトを始めて3か月。CクルーからBクルーに昇格した頃、父から連絡が来た。
「イチゴ薬局が薬剤師不足で回らない。帰ってきてくれないか」

マクドナルドの経験を持って、僕は岐阜に帰った。そして家業であるイチゴ薬局に入社した。

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入社から3年目の、ある朝のことだ。
出勤の支度をしていると、父が廊下に出てきた。
立ち話だった。玄関の前で、靴を履こうとしていた僕に、父は言った。

「会社を、売った」
太陽薬品に、と父は続けた。
その言い方が ―― どう表現すればいいか ―― まるで、いらなくなった何かをメルカリで手放したような、そういう軽さだった。
相談でも、謝罪でもなく、ただの報告。
しかも、もう済んだあとの話。

父の表情には、申し訳なさそうな色があった。
それだけは見えた。
僕は、少し考えた。

怒鳴ろうとしたのか、泣こうとしたのか、今となってはわからない。
ただ、腕時計を見て、遅れそうだと気づいた。
「……なんで今?」
それだけ言って、僕は出勤した。
あの朝、父は何も言い返さなかった。僕も、振り返らなかった。

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その後の数日間は、今も記憶に残っている。
父に、質問攻めをした。
「部長には、もう伝えているのか?」
「職員にはいつ伝えるんだ?」
「これからイチゴ薬局はどうなるんだ?」
「僕はどうなるんだ?」
父は、明確な答えを返さなかった。
「まあ、なんとかなる」
「向こうがちゃんとしてくれる」
「大丈夫や」。
そういう言葉ばかりだった。
不安だった。

それからも毎日、店に出た。笑顔で接客した。レジを打った。処方箋を確認した。
でも、頭の中はずっと別のことを考えていた。
誰かに話したかった。
でも、誰にも話せなかった。
職員には、まだ知らせてはいけない。
知らせる前に僕の口から漏れたら、どうなるか。

そして、もう1つの怖さがあった。
公表したとき、職員はどういう反応をするか。
あの常連のおばさんは。店を守り続けてくれたベテランの薬剤師は。買収を知ったとき、辞めてしまうのではないか。
その恐れを抱えたまま、何日も過ごした。

結局、父が選んだのは、日を改めてではなく、ある朝の朝礼での一斉告知だった。職員の表情は、複雑だった。泣いた人もいた。黙っていた人もいた。
継ぐはずだったイチゴ薬局は、その廊下の立ち話で、僕の手から消えた。

あとから知ったことだが、会社が倒産寸前だったのだという。このまま続ければ大切な従業員たちを路頭に迷わせることになる。
だから売った、と。
その判断が正しかったかどうか、今でもわからない。

数字こそ、正義だった

跡取りという肩書きを失った僕に、残ったのは、薬剤師の資格と、負けたくないという気持ちだけだった。
買収された側の人間が、買収した側で、何ができるか。僕は、それを証明することに、十数年を費やした。
太陽薬品に入って最初の数年は、現場だった。薬剤師として店に立ち、患者さんと話し、父がやっていたのと同じ仕事をした。そこでひとつ、確かなことを知った。
目の前で薬を受け取る人には、必ず、その人の事情がある。その一人ひとりに、ちゃんと向き合いたいと思っていた。

人を大切にしたい。
そういう気持ちは、ずっとあった。

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太陽薬品での最初の数年は、調剤薬局の現場だった。
処方箋を受け取り、薬を確認し、患者さんに渡す。それが仕事の基本だった。ただ、僕がこだわったのは、そこから先だった。
薬を渡しながら、話を聞く。どんな症状で、何が辛くて、普段の生活はどうか。患者さんが話しやすい空気を作るのが、得意だった。聞き出すというより、気づいたら話してくれている、という感じだった。

ある日、常連のお婆さんに言われた言葉が、今でも記憶に残っている。
「あなた、太陽のように明るい笑顔だね」
嬉しかった。
薬剤師として、技術より先に、その言葉が嬉しかった。

僕が心掛けていたことが3つあった。
1つは、人の三倍は働くこと。
2つ目は、大変な仕事はまず自分がやること。
3つ目は、掃除をしっかりやること。
地味な話だ。
でも、この3つは、その後もずっと変わらなかった。
トップがやらなければ、誰もやらない。
組織は頭から腐る。
その考え方の原型は、現場薬剤師の時代に、すでに根を張っていた。

2016年、太陽薬品の本社へ出向の命令が下された。
社長の特命で、1つのプロジェクトを任された。
京都、富山、山形、栃木、東京、神奈川、釧路 ―― 全国7つの地域に点在する、4社・27店舗を、1つの会社に統合する。
1年で、やり切った。
だが、翌年、自分でまとめた1社を、太陽薬品グループへ分割する仕事を任された。まとめた人間がバラす。ありえない命令だ。

だが、かつて買収された側のイチゴ薬局の一薬剤師が、本社肝いりのM&Aを主導した。
本社への出向を選んだとき、1つのことを意識していた。
イチゴ薬局のメンバーを、残していくということだ。
太陽薬品に買収されたあと、一緒に働いてきた仲間がいた。「この先どうなるのか」と不安を抱えていた人たちだ。その人たちを残して、自分だけ本社へ行く。それが正しいのかどうか、一度は考えた。
でも、行くことを選んだ。買収された側の人間が、どこまでやれるか。それを証明することの方が、長い目で見れば、仲間にとっても意味があると思っていた。

家族は、一緒に転居してくれた。
だが、1年が経つ頃、家族を地元へ戻した。仕事のペースが、家族と一緒に暮らすリズムを、完全に壊していたからだ。神奈川から京都・山形・栃木・さいたまへの移動、月の交通費は50万から70万円。個人のクレジットカードは限度額に達し、毎月制限がかかり使えなくなっていた。法人カードを何度も申請したが、作ってもらえなかった。妻から「また使えない」と連絡が来るたびに、申し訳なかった。

一年後には単身赴任となり、数字だけが、友達になった。
2019年、今度の相手は、マッキンゼー・アンド・カンパニーだった。「2億円の効果額を生み出す人時施策」。全国120店舗の薬剤師と調剤事務の人時を、1分単位で設計する。僕は、太陽薬品側の責任者として、毎週副社長へ報告した。

数字こそが、正義だった。データは感情を超え、立場を超え、議論を終わらせる。
僕は、その思想を、誰よりも信じていた。

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だが、プロジェクトは、途中から、色を変えた。
「人を活かす」ための設計だったはずのものが、いつのまにか、「人を減らす」ための数字に、すり替わっていた。
効率のメスが、人に向き始めていた。

もともと、従業員を大切にしたいという気持ちで仕事をしてきた。効率化もそのためだと思っていた。だから、この変化には、気づかないふりをしていた節がある。いや、正確には、気づいていた。ただ、それを認めると、自分がやってきたことの意味が、ぐらつく気がした。
その揺らぎは、じっとしていた。
そこに、父からの電話が来た。

あの夜の電話

夜だった。自宅で、仕事の資料を眺めていた。
スマートフォンの画面に、父の名前が出た。
父は、まず、こう聞いた。「元気か」「仕事は、順調か」
用件のない電話をかけてくる人ではなかった。僕は、黙って、次の言葉を待った。
少し間があって、父は言った。
「助けて、くれんか」

父は、イチゴ薬局を売ったあと、別の場所で、もう1つの「いちごの里」を始めていた。
社会福祉法人いちご会。特別養護老人ホーム。介護の法人だった。

2014年に父が立ち上げ、2016年に特別養護老人ホームを開設した。開設時は外部コンサルタントに約2,000万円を投じ、新卒70名を採用した。盤石の体制で始まったはずだった。
ところが、その後を父は語らなかった。
「職員が、辞めていく」という言葉だけがあった。「理念は掲げているが、現場はその理念とは正反対の場所になっている」と。
これからは、人を大切にする経営がしたい、と。

電話を切って、しばらく、ぼんやりしていた。
不思議な気持ちだった。
かつて、僕が継ぐはずだったイチゴ薬局を、廊下の立ち話で売った人が ―― いま、2つ目のいちごの里で、僕に「助けてくれ」と言っている。
しかも「人を大切にする経営」という言葉を使っている。怒りは、もうなかった。ただ、皮肉だとは思った。

もう1つ、思ったことがあった。
また、か、と。

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翌日、職場で、もう1つの話があった。
太陽薬品の部長から呼ばれた。
プロジェクトをあと1年、続けてほしいという話だった。出向延長の打診だった。
つまり、僕の前には、2つの道があった。

1つは、部長の申し出を受け、マッキンゼーとのプロジェクトをもう1年やり切ること。実績は積み上がっている。昇格の話も、遠くはなかった。
もう1つは、父の「助けてくれ」に応えること。先行きは不透明で、成功する保証などどこにもない。
3日間考えた。
考えながら、何度か、あの廊下を思い出した。「なんで今?」と言って出勤した、あの朝を。野球をやめた日も思い出した。福岡行きを告げられた日も。
父はいつも、僕に聞かずに決めてきた。今回は、僕が決める番だ、と思った。

3日目の朝、部長に電話をかけた。
「お断りします」
部長は、少し驚いた様子だったが、最後は「そうか」と言った。

2つ目のいちごへ

退職を決めたのは、2019年11月だった。
父には、こう伝えた。マッキンゼーとのプロジェクトを、最後までやり切る。そのあと、行く、と。
2年がかりのプロジェクトを、1年で離れることになった。だから僕は、自分で後継者を見つけ、育て、引き継いでから現場を去った。

――――――――――――――――――――

そのころ、父から、ある人を紹介された。
経営学者の、坂本光司先生。「人を大切にする経営学会」を主宰し、人本経営の大学院で教えている方だった。
正直に言うと、最初は半信半疑だった。
「人を大切にする経営」という言葉を、僕はそれまで、きれいごとだと思っていたところがあった。

ところが、先生の話を聞いて、何かが変わった。正確には、もともと自分の中にあった感覚が、言葉になった、という感じだった。従業員を大切にしたいという気持ちは、ずっとあった。
先生の話には、その道筋があった。
2020年4月、大学院の入試を受け、無事に合格した。きっと父のコネがあったからだと思う。

効率のメスしか持っていなかった僕が、初めて、別の道具を取りにいった。

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2020年5月。
僕は、社会福祉法人いちご会の事務長として、2つ目のいちごに、足を踏み入れた。
失った最初のいちごの跡取りが、父の2つ目のいちごを、救いにいく。
そういう物語だと、その時の僕は、思っていた。

ところが ―― その初日。デスクに座って、わずか5分後に、僕の経営理論は、たった一通のLINEの前で、音を立てて崩れることになる。

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▶ 次の記事:【連載②】第1章:ロジックは「入職初日のLINE」の前に敗北した

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【書いた人】高坂涼介(こーさか)

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