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パンで涙を拭って 第十七話 #創作大賞2025 #恋愛小説部門

清潔な芳香剤の香りと、床板の柔らかな木の肌触り。
ひとりで使うには贅沢すぎるヴィラの一室で、私は宿泊の説明を受けていた。

「ご夕食のご予約はなしで、朝食のみでよろしかったでしょうか?」

「はい、それで大丈夫です」

予約の時点で、どうせ食べられないだろうと思い、食事はつけなかった。
朝食だけはすべてのプランについてくるとのことで、仕方なく残したかたちだ。

「では、明日の朝食のお時間を承ります」

時間には特にこだわりはなかったが、できるだけ混み合わない方がいい。
そう伝えると、「7時半が一番静かです」と教えてくれたので、その時間にお願いする。

その後、備品や設備についてひと通り説明を受けて、ようやくひとりになった。
深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。

変わらない孤独。でも、誰かが日常の世話をしてくれる。
“やらなければならない”という煩わしさから解放されて、少し気が楽になっていた。

荷物を床に置き、脱衣所へ向かう。
浴槽に湯を張って浸かるのは、久しぶりだった。
最近はずっとシャワーで済ませていたし、それすら億劫な日もあったぐらいだ。

檜の浴槽に足を入れる。
痺れるような感覚が、頭の先まで駆け上がっていく。

肩まで沈むと、無意識に小さな声が漏れた。
張りつめていた体の芯が、じんわりと解けていく。

掃除も、片付けも、何もしなくていい。
だからこそ、後のことなど考えず、湯の温もりだけを堪能できた。

ただ、お風呂に入っただけ。
けれど、それだけで、すり減っていた気力がほんの少し戻っていくのが分かる。

十分に温もったところで、部屋へ戻り、浴衣に着替える。
髪は乾かさず、代わりにハンドタオルを巻きつけた。

ベッドの上に、日記を四冊すべて並べる。
横になりながら、そのうちの一冊を手に取った。

骨を打ちつけるような心臓の音が、自分の中から響く。

落ち着けるように、何度か深呼吸を繰り返し——
私はページに、汗ばむ指を引っ掛けた。



最近、薬の量が増えてきた。
先生から、一つの療法として「毎日の日記をつけてみて」と言われたので、今日から始めてみることにする。

内容は、なんでもいいらしい。
出会った体験に対して、自分がどう感じたのかを正直に書くのが大切だと言われた。
それから、「あまり自分を責める言葉は使わないように」とも。

誰かに読ませるつもりで書くと、きっと嘘を混ぜてしまうから、それはしない。
これは私だけの場所。
できるだけ、正直に、飾らずに、この空間を大事にしたい。

……では、早速。

今日は夜勤だった。
この勤務が、一番体に合わなくて、やっぱり辛い。
終わった後は、なぜかいつもしょっぱい物が食べたくなるし、勤務中も勤務後も、ずっと頭がぼんやりしている。

帰りに、コンビニでご飯を買った。
唐揚げとおにぎり、それからカップスープ。
食事にはあまりこだわらないけれど、そろそろ食生活も気にしたほうがいいかもしれない。
それに、ゴミの片付けも——。

最近、よく出し忘れていて、部屋の隅にちょっとずつ溜まりはじめている。
薬を飲むとすぐ体が重くなって、やる気が出なくなるから、つい後回しにしてしまっている。
でも、いい加減に掃除しよう。今度こそ。

……こんな感じでいいのかな。
これなら、たぶん毎日書けそうな気がする。

今日の小さな目標。
「部屋の掃除」と「自炊のチャレンジ」。

——頑張れ、明日の自分。

⚪︎月×日

職場で、余り思うようにいかない。
私はもっと、入居者の方たちにしてあげたいことがあるのに、それは“行き過ぎた業務”だと周囲に止められてしまう。

今日もまた、リーダーの山崎さんに叱られた。
「もっと周りを見ろ」って。
でも、目の前で助けを求める人がいるのに、それ以上に大切なことなんて、あるんだろうか。

たとえ業務時間外になっても、私は別に構わないのに。
自分のペースでやっているんだから、できれば放っておいてほしい。

そう思って、以前吉崎さんに相談したら——
少し困った顔をして、「仕事と生き甲斐は分けなさい」と言われた。
特に、人を助ける仕事なら尚更だと。

……でも、その言葉の意味が、いまいちよく分からない。
だって実際、心から向き合っているからこそ、あの気難しい鈴木さんだって、最近は私に話しかけてくれるようになった。
私は、きっと間違っていない。

——ああ、そういえば、今日もゴミ出しを忘れてた。
次こそは、ちゃんとしよう。

お願い、ちゃんと覚えててね、明日の自分。

⚪︎月◽︎日

今日は、起き上がるのもしんどかった。
たぶん、職場で私の存在が疎まれはじめているからだと思う。
誰かとすれ違うたびに、陰口を言われている気がして、気持ちが沈んでしまう。

今は、入居者の方たちと話すことだけが楽しみになっている。
尽くした分だけ、少しずつその人の「身内の輪」に入れてもらえるような気がして——
誰かに必要とされているという実感が、ただただ心地いい。

……それにしても、どうしてあんなに素敵な人たちなのに、家族はなかなか面会に来ないのだろう。
ちゃんと血でつながっているのに。
おざなりにできるというのは、それだけ甘えられる関係だということ。
それが、私には羨ましくて仕方ない。

そういえば今日は、鈴木さんに「もっと身だしなみに気をつけなさい」と言われた。
……たしかに、お風呂に入ったあと、掃除をするのが面倒で、つい入らない日もある。
でも、不快な思いはさせたくない。
どれだけ体がしんどくても、入浴だけは欠かさずにいようと思う。
家のお風呂はあまり使いたくないから、近くの入浴施設に行こう。
そっちのほうが、義務感も出て続けられそうだし。

部屋の掃除は……もういいや。
それは、ちゃんと休みの日に、時間を取って向き合おう。

がんばってね。明日からの自分。

⚪︎月△日

嫌な夢を見た。
灰色の部屋に、場違いなほど鮮やかなオレンジの夕日が差し込んでいた。
「すぐ帰ってくるからね」——そう言い残したまま、お母さんはもう二度と帰ってこなかった。
玄関のドアノブを、穴が開くほど見つめていたあの日の私を、夢の中の私はただ黙って見つめていた。

目が覚めて、最初に目に入ったのは、床に散らばるゴミ。
それを見たおかげで、心が落ち着いた。
私はこの程度の人間なんだと、思えるぶんだけ、自分を許せた。

——汚物にまみれるくらいが、ちょうどいい。
お金さんが帰ってこなかったのも、きっと仕方ない。
だって私なんて、この空袋みたいに、中身のない存在なんだから。

ひとつ、またひとつとゴミが増えるたびに、私の空っぽだった心が埋まっていく気がする。
そうすると、仕事にも集中できる。
「私みたいな人間がお世話させてもらって、ありがとうございます」——そう思いながら働ける。

職場の人間関係も、割り切れるようになった。
私の存在は、入居者の方たちのためだけにあればいい。

……がんばるぞ、明日の自分。

⚪︎月⚪︎日

今日、鈴木さんの退去が決まった。
もともと患っていた認知症が進行して、最近は暴れることが増えていたから、とのことだった。
でも——私は、あんなに必死に訴えたのに。
まだ、やりようはあった。私の手で、支えられたはずなのに。

山崎リーダーに、震える声で思いをぶつけた。
だけど、返ってきたのは「あなたは介護士失格」という、冷たい一言だけだった。

それだけじゃない。
吉崎さんにまで呼び出され、「入居者に依存するような関係を抱くなら、これ以上働かせるわけにはいかない」と、静かに突きつけられた。

どうして、そんなことを言われなきゃいけないんだろう。
あの人たちは、誰一人として、鈴木さんの「嫌だ、嫌だ」と叫ぶ声を聞いていなかったのか。

あんなにも、助けを求めていたのに。
あんなにも、私を頼ってくれていたのに。

……ごめんなさい、鈴木さん。
私が、あなたを救えなかった。もっと、一緒にいたかった。
もっと、寄り添いたかった。

依存して、何がいけないの?
それで相手を救えるなら、それは“支え”なんじゃないの?

——もう、だめだ。
今日はもういい。
疲れた。
これ以上、文字にするのも、つらい。

△月⚪︎日

入居者の根岸さんに、心配されてしまった。
「少し気分が落ち込んでいて……」と伝えると、「そんな時はお酒がいいわよ」と勧められる。
他の方たちも、それにうなずいていた。

——お酒。
生まれてから、一度も飲んだことがない。
お母さんが飲んでいた姿は、何度か見たことがある。
いつも肩で息をして、しんどそうだったのが印象に残っている。
きっとあれは、私と似たような気持ちを、少しでも忘れたかったんだろうか。

明日は仕事も休みだし、試してみようかな。
少しだけ、外に出てみるのも悪くないかもしれない。

……出かけられそうな服、まだ持っていただろうか。
押し入れを探しておかないと。

△月×日

今日は、本当にすごい体験をした。
……いや、「すごい」なんて言葉じゃとても足りない。
あんな素敵な人、本当にいるんだ。
かっこよくて、スマートで、自分の芯をしっかり持っていて——
私とはまるで違う、そんな女性と、一緒に席を並べて食事をしたなんて。

あのとき、瑞稀さんに反論した自分を、今すぐ殴ってやりたい。
せっかく私のためにくれた助言だったのに、どうしてあんな返し方をしてしまったんだろう。

思えば、誰かに言い返したのなんて、初めてかもしれない。
いつもは心の中で小さく呟くだけで、すぐに飲み込んでしまうのに。
でも——瑞稀さんになら。
きっと受け止めてくれる。そんな安心感を、どこかで感じてしまったのだと思う。
つまり私は、彼女の器に、甘えてしまったのだ。

けれど、言ってよかった。
私の思いが全部間違っていたわけじゃない。
それでも、瑞稀さんの言葉から気づかされることもたくさんあった。

職場は「一人じゃ成り立たない」ということ。
そんな当たり前のことに、私は気づいていなかった。
みんな、自分が受け持った人にきちんと向き合っている。
私が「後でやるから」と言っても、それは他の人には関係ない。
私の仕事も含めて、その日の“流れ”が成り立っているのだから。

それを理解せず、自分のやりたいことだけに夢中になっていたなんて。
私はなんて独りよがりだったんだろう。
……恥ずかしい。でも、気づけてよかった。

そして——
こんな私のために、あんなにもお金を使わせてしまった。
それが、申し訳なくて仕方がない。
絶対に、必ず返さなければ。
連絡先も交換させて貰ったんだから。なあなあで終わらせないように。
いつも「後で」で終わらせてしまう私だけど、明日はちゃんとお金を下ろして準備しよう。絶対に。

それにしても、今日は本当に、出かけてよかった。
久しぶりに、日の光を浴びたような気持ち。
心が跳ねて、体がまだ少し震えてる。
明日。明日から、もう一度、自分のやるべきことをちゃんと見つめ直そう。

一緒に、頑張ろうね。明日の私。

......でも、お財布どうしよう。買い直さなきゃ。

△月◽︎日

山崎リーダーに、ちゃんと謝ることができた。
これまでの自分の行動や、入居者の方々への対応について。
それから、「どうすれば段取りよく仕事ができるのか」も、きちんと教えてくださいって、頭を下げて伝えた。

山崎さんは少しキョトンとしていたけれど、やがて、ほんの少し微笑んで——
そして、本当に丁寧に、ひとつひとつ教えてくれた。

正直、今までずっと苦手意識を持っていた。
でも、実はこんなにも優しくて、仕事に対して真摯な人だったんだと、初めて知ることができた。

これからは、これまであまり関わってこなかった人たちにも、まずは挨拶から始めようと思う。
きっと最初は、気味悪がられるかもしれない。
でも、それでも我慢。大丈夫。
「自分をわかってほしい」と思う前に、まず相手のことを知ろうとしなければ、何も始まらないんだ。

あのとき、瑞稀さんと向き合ったように——
きっと、また少しずつ変われるはず。

めげるな、明日の私。

×月⚪︎日

毎日が、本当に楽しい。
日々、気づかされることばかりだ。

仕事をみんなで回す難しさや、相手にきちんと意思を伝える方法。
どれもこれも簡単ではないけれど、大切なことだと、ようやく実感できている。

それに、**“心のつなげ方”**も、少しずつ掴めてきた気がする。
相手の思いを受け取り、自分の思いをそっと渡す——
言葉にすれば簡単だけど、実際はとても繊細で、難しい。

意図していなかった気持ちが伝わってしまったり、私が勝手に勘違いしてしまったり。
そんなすれ違いもあったし、あからさまに疎まれたこともある。

でも、それ以上に、たくさんの同僚が優しく手を差し伸べてくれた。
正直、ずっと職場の人たちは“敵”だと思っていた。
だけど、それは違っていた。
きっと私が、勝手にそう思い込んでいただけだったんだ。

ひとりひとりに、優しいところがあって、愛すべき長所がある。
それに気づけた今、世界の色が少し変わって見える。

入居者の方々との関わりも、確かに変わってきた。
“できること”と“できないこと”を、きちんと見極めて支える。
それだけで、以前よりずっと、感謝されることが増えた。

「自分でできた」という実感は、
何ものにも代えがたい、かけがえのない喜びだ。

今日は、よく頑張ったね。
本当によくやった。えらいぞ、私。
明日も、よろしくね。

×月△日

今日は、たくさん瑞稀さんと話せたし、少しはお役にも立てた気がする。
その一方で、ちょっと恥ずかしい思いもした。

部屋の片付け……いよいよ、本気でやらなくちゃ。
積み上げていたゴミの山が机から崩れ落ちたときは、本当にヒヤッとした。
こんなだらしない私生活、瑞稀さんには絶対に見せられない。

かつては“安心の象徴”だったこの空間が、
今は「片付けたい」と、心から思える場所になっている。
もしかするとこれは、自分自身を大切にしようとし始めた、小さな兆しかもしれない。

——今まで、そんなふうに考えたことなんて、一度もなかった。
でも、自分を大切にしてくれる人たちの期待を、裏切りたくない。
その思いが、私の中で確かに動き始めている。

さて、どこから手をつけようか。
まあ、明日は時間もあるし、ゆっくり考えよう。

いつもは「また今度」で終わっていたけど——
きっと今回は、ちゃんとできる気がする。

……そうだよね? 明日の私。

×月◽︎日

久しぶりに、夢を見た。
お母さんの夢じゃない。瑞稀さんと一緒にいた夢だ。
同じベッドの中で、笑いながら、いろんな話をしていた。

いつも寝室は、疲れと一緒に悲しい気持ちを溶かす場所だった。
けれど今日見た夢のおかげで、ここは——
私にとって、初めて“大切で特別な空間”になった気がする。

だから、ここから片付けよう。
瑞稀さんのことを思い出せる、この場所から。
汚れたままには、しておきたくない。

少しずつ、少しずつでいい。
愛されなかった過去の自分を、ゆっくり赦していこう。

……それにしても、同じベッドで眠っている夢を見るなんて、我ながらちょっとはしたない。
今まで、そんな気持ちを抱いたことはなかったのに。

昔、施設で男の子に告白されたときの、あの得体の知れない違和感。
あのときとはまったく違って——
瑞稀さんと一緒にいると、不思議と自然で、心が安らぐ。

どうしてなんだろう。
いつか、この気持ちの名前が、ちゃんとわかる日が来るのかな。

……まずは掃除。少しでも進めよう。
頑張ってね、明日の私。

◽︎月⚪︎日

今日は、人生でいちばん怖い日だったかもしれない。
ある意味では——お母さんが帰ってこなかった、あの日よりも。

瑞稀さんの、あの冷たい声が、今も胸の奥を引っかいている。
でも、どうしても言わなきゃいけなかった。
茶室でしてはいけない、タブーの事を。

瑞稀さんが、どれだけ真剣に毎日仕事に向き合っていたか。
その姿を、近くでずっと見てきたから。
だから、つい口をついて出てしまったんだ。あの忠告が。
……もし、あのまま怒られて、縁を切られていたらと思うと、怖くて、今も泣きそうだ。

でも、まさか。
施設で習ったお茶の稽古が、あんなふうに役に立つなんて。
園長先生が“心の授業”として教えてくれた、あの時間。
一期一会の精神と、その意味。
思いやりと、無言で伝える礼儀のかたち。
私は、あの授業が大好きだった。

……私立の学生だなんて、ずいぶん変な誤解をさせてしまったけど。

それでも、不思議なことに。
今日の出来事があったおかげで——

お母さんに捨てられたことさえ、
ほんの少し、意味があったように思える。

もし、あのままずっとお母さんに育てられていたら。
私はちゃんと学校に通えたのだろうか。
安心できる施設で、沢山本を読んだり、お茶を習ったり——そんな体験ができたのかな。
きっと、なかった。

ここで働いて、生きている今もなかったかもしれない。
そしてなにより——
瑞稀さんと、出会うこともなかった。

私は、奇跡の連なりの中で、生きている。
私たちは、みんな。

「生きてさえいれば」——
そんな言葉、今までは嘘っぱちだと思ってた。
でも今は、信じられる。

だからどうか。
この奇跡のひとかけらだけでもいいから、瑞稀さんに、力を貸してあげてください。
お願いします、神様。

きっと明日の私は、今日よりもっと強く、そう願っているはずだから。

3月10日

待ちに待った日だった。
今日は、瑞稀さんのお仕事の成果を見られる日。
招待していただいた《燈衣》の展示会だ。

思っていたよりもずっと大きな会場に、思わず圧倒されてしまった。
そんな私の様子を見られてしまって、ちょっと恥ずかしかった。

でも——
瑞稀さんの姿を見た瞬間、ほっとした。
あの人と出会えた安心感。そして、そっと握られた指先のぬくもりを、
きっと私は、ずっと忘れないと思う。

展示会は、本当に圧巻だった。
前衛的でありながらも、温故知新の精神と、機能美を兼ね備えた新しい着物たち。
燈衣が歩んできた歴史や文化が、ひとつひとつの作品にちゃんと息づいていて——
ただ「綺麗」じゃなく、「生きている」と思えた。

そして、話に聞いていた若い職人さん、昴君。
たくさんの人に囲まれて、顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
その笑顔を見たら、私まで嬉しくなった。

何よりも、
ひとつひとつを本当に楽しそうに説明してくれる瑞稀さんの、
きらきらした横顔と瞳。
その表情を見るたび、胸がときめいてしまって、正直、展示どころじゃなかった。

それから——
中庭のベンチで交わした、旅行の約束。
本当に、私なんかでよかったのかな?と思う。
けれど、それでも胸が飛び跳ねるくらい嬉しくて。
瑞稀さんと、二人で遠くの景色を一緒に見られるだなんて、夢みたい。

一緒に観光地を調べていた時、肩がふいに触れ合って、
私の体温が伝わってしまわないか、ドキドキした。
何度、そっと手のひらの汗を拭いたかわからない。

これは——恋じゃない。たぶん、そうじゃない。
もっと深くて、静かなもの。
きっと「愛」なんだと思う。
体が欲しているわけでも、心が渇いているわけでもない。
ただ、一緒にいたい。ただ、それだけ。

恋人ではなく、家族に。
……ううん、それはちょっと、願いすぎかな。
でも、日記に書くくらいは、許されてもいいよね。

今日は、本当に特別な日だったよ、私。
ちゃんと覚えておくんだよ。

それから——旅行に行くなら、もっと可愛い服を買っておかないと。
靴も必要だし、お化粧もちょっと勉強しておきたいな。
たぶん瑞稀さんの方がずっと上手だと思うけど、
私の手でメイクして、「可愛いね」って言ってもらいたい。

私、今すっごく楽しみ。
きっと、明日の私も同じ気持ちだよね。

本当に、瑞稀さんと出会えてよかった。

4月2日

明日は夜勤。
苦手なシフトだけど、がんばろう。
もうすぐ、楽しみにしていた旅行も控えている。

淡路島へ行く前に、部屋もどうにかしないと。

この穏やかな幸せに、心から感謝して。
——ファイト、明日の私。




この後のページは、幾らめくっても白紙。続きは二度と、書かれる事は無い。

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