パンで涙を拭って 第十話 #創作大賞2025 #恋愛小説部門
その夜、帰宅してすぐに、私は高鳴る気持ちのまま朝美へ連絡を入れた。
『ねぇ、今って電話できたりする?』
数分後、返信が返ってくる。
『もちろん! 何かありました?』
文字で説明しようとしたけれど、もどかしくてたまらない。
勢いに任せて、コールボタンを押した。
「朝美!」
「わ、瑞稀さん。どうしたんですか?」
驚く彼女に「ごめん」と軽く謝る。いけない、落ち着け私。
「実はね。あの企画案、あと一歩で通りそうなの」
「ほんとですか! あぁ、良かったですね」
まるで自分のことのように喜んでくれる朝美の声に、自然と表情が緩んだ。
「残るは、反対しているもう一人のクライアントを説得するだけ。絶対に成功させる」
「瑞稀さんなら、きっと大丈夫です。上手くいきますよ」
その言葉がスッと胸に沁み、心に残っていた小さな不安が、じわじわと溶けていく。
「ありがとう。……でもね、実はちょっと困ってて」
「困ってる、というと?」
「茶室でPRの説明なんてしたことがなくて。どんな服を着て行けばいいのか、分からないのよ。スーツじゃまずいかな」
「……え?」
朝美が小さく息を呑んだその雰囲気が、電話越しに伝わってきた。
「ん? どうかした?」
「ちゃ、茶室でお仕事の話をするんですか……?」
震えるような声に、私は眉をひそめる。
「ええ、先方のご自宅に備えた茶室で、という指定があって。……何か気になる?」
数秒間の沈黙。
そして、まるで何かを押し殺すように、朝美がそっと言った。
「……ダメです、瑞稀さん。そのお話、きっと失敗します」
「……は?」
さっきまでの高揚が一気に冷える。怒りとも戸惑いともつかない感情が、胸の奥でじりじりと渦を巻いた。
「朝美……冗談でも、そういうのは今、聞きたくないんだけど」
思わず、声が冷たくなる。
その瞬間、「ごめんなさい……」と聞こえた謝罪の声は、涙ぐんでいるようで、胸がチクリと痛んだ。
「でも、お願いです。聞いてください。……本来、茶室ではーー」
彼女の説明が始まった瞬間、私は思わず言葉を失った。
自分の足元がぐらりと揺れたような感覚。背中に冷たい汗が伝う。
――そんなこと、知らなかった。知らなかったけれど、確かに、その理由なら静子さんが素直に場を設けた事にも、説明が付く。
「……じゃあ、どうすればいいの……? 説得なんて、できないじゃない……」
そう呟いた私に、電話越しの朝美が、静かに、けれど力強く言った。
「作戦を、立てましょう」
そのひと言で、もう一度前を向く。
こうして、私と朝美の長い作戦会議が始まった。
*
水屋の冷気が、骨の芯まで染み渡る朝。
私は黙々と、茶室の準備を進めていた。
今日迎えるのは――“望まれざる客人”。
彼女のやり方に、賛同するつもりはない。
けれど、交渉の場を設けるには、“形式”という口実が必要だった。
掛け軸には「無一物(むいちもつ)」の語を選ぶ。
持たざる者にこそ道は開かれる、という禅の教え。
だがそれは、空無を讃える言葉ではない。
利潤と効率ばかりを追う者に向けて――
「あなたは本当に、“何か”を持っているのか」と、問いかける一句でもある。
花は、咲きかけの椿と、枯れかけの青竹。
咲ききらぬ椿は、意志ある沈黙の象徴。
まっすぐで脆い竹には、「折れても曲がらぬ心」を託した。
茶碗は、重く静かな黒楽を選ぶ。
棗は、古びた唐物。
わざと、漆の傷が最も目立つ角度に据える。
そのひと筋は、変化ではない。
燈衣が歩んできた、“時間”の痕跡だ。
香は焚かない。
代わりに、炭の熾火だけが、室内の温度をじわじわと上げてゆく。
客付けの座には、あえて座布団を敷かなかった。
それは、茶の湯における、最大の“拒絶”――
すべての設えを終えた私は、炉の前に正座し、静かに一礼した。
間もなく、約束の時刻となるだろう。
……まったく。
あの橘という娘も、和彦さんも、しつこいというか、頑固というか。
まあ、人のことは言えた義理じゃないが。
最近、寒さのせいか関節が痛む。けれど、それ以上に――
そっと、着物越しに下腹部へ手を添える。
不意に思い出す、遠い日の記憶。
あの時ほど、我が身の虚弱さを呪った事は無い。
ーー宿っていたのは、男の子だった。
日に日にゆっくりと膨らんでいくお腹とは裏腹に、毎日はせわしなく過ぎていった。
「燈生」――と、父が名の案を持ってきたとき、
最初は「そこまで会社に寄せるなんて」と家族で反対したけれど、
時が経つにつれ、「悪くないかもしれない」と思うようになっていた私。
出産準備で編み物をこしらえていた時。
燈籠の火のように、誰かの夜道を照らし、導く子になりますように。
そんな願いをこめながら、編み針を動かしていたっけ。
帽子ができて、ブランケットが編み上がり、
「ベビー服は、やっぱり和装がいいかしら」――
そんなことを、和彦さんと話していた頃。
夜中、突如として激しい痛みに襲われ、私は布団から飛び起きた。
血と羊水で濡れた布の感触は、今でも肌の奥に残っている。
「静子さん!」
私の声に、和彦さんが寝室へ駆け込んできた。
私を抱き起こし、人を呼ぶ大きな彼の声――
そこで、私の意識は、ぷつりと途切れた。
......目が覚めると、見慣れぬ白い天井。
「ああ、静子さん。目が覚めましたか」
隣には私の手を握る、目を腫らした和彦さんの姿。
「和彦さん。私、あの後......」
身を起こそうとする。しかし、違和感があった。
引き千切れるような痛みなんて、忘れてしまう程の、違和感。
お腹が、軽い。あの愛おしかった膨らみは、一体どこへ?
「燈生……燈生は、どこ!?」
叫ぶ私に、和彦さんは黙って目を伏せる。
嘘、そんな――
「ああ……!」
それは、慟哭だった。
縫ったばかりの傷が開こうと構わず、私は暴れた。
大勢の手に押さえつけられても、止まらなかった。
死んでもいいと思った。
やがて、何かを注入されたのか、身体の力が徐々に抜けていく。
涙に沈む意識が途切れるまで、私はただ、我が子の名を呼び続けた。
「常位胎盤早期剝離」――と、後に説明された。
本来、赤ちゃんが生まれたあとに剥がれるはずの胎盤が、出産前に子宮壁から剥がれてしまったのだと言う。
妊娠33週目、そして私の体が生まれ付き虚弱なのも相待って、母体か子か、一刻も早く選ばなければならない状態だったそうだ。
親族が狼狽える中、和彦さんは迷う事なく、私を選んだらしい。
「どうして……」
私は彼を責めた。酷く、激しく、何度も。
八つ当たりだった。そんなことは、わかっていた。
それでも、和彦さんはただ黙って、私の言葉に打たれていた。
涙の代わりに、噛み締めた唇から、血を流しながら。
退院後の私は、抜け殻だった。
景色に色はなく、何を見ても胸が締めつけられる。
放っておけば、あてもなく彷徨い、死に場所を探し始める私を止めるために、誰かが常にそばにいた。
その気遣いすら、ひどく煩わしく思えた。
もう、子は望めないのだ。私のせいで、燈生は暗い場所で一人沈んでしまった。
ずっとずっと、寂しいと声を上げて泣いているのが聞こえる。
母として、一緒に後を追わなければ。
そんな事を考えては止められるのを繰り返す毎日。
父も母も和彦さんも、誰もかれもが優しかった。
私が悪い訳では無いと。後を追っても子が喜ぶ筈がないでは無いかと。
皆色んな言葉で慰めてくれたが、私は耳を塞ぎ、もうどこにもいない、息子の声だけを聞いていた。
病んだ私の体は、みるみる痩せ細っていった。
やがて、自分で起き上がることすらできなくなったある日――
気晴らしになればと、母が何気なくつけていたテレビから、七五三の風景を映す映像が流れた。
慌てて消そうとする母の手を、私はそっと制す。
「……消さないで」
枝のように細くなった腕で上体を支え、私は画面をじっと見つめた。
映っていたのは、名前も知らない小さな男の子。
けれど、その子が身にまとっていた羽織袴には、見覚えがあった。
――〈燈衣〉のものだ。
千歳飴を舐めながら、お友達と楽しげに笑い、裾を揺らしている。
「燈生……」
私がその名を呼んだのは、映像の男の子ではない。
彼が身につけていた、あの羽織袴に対してだった。
涙が、静かに頬を伝う。
〈燈衣〉が続く限り、〈燈生〉もまた、誰かのもとで生き続ける。
その姿を見たとき、私はようやく気づいたのだ。
――今、ここにいるのが、私の「子供」なのだと。
それからの私は、身を粉にして会社に尽くした。
息子に注ぐはずだった愛情を、そのまま重ねるようにして。
けれど、努力が必ず報われるとは限らない。
時代の流れはあまりにも早く、思いもよらぬ出来事が、次々と逆風となって吹きつけ、経営は傾いていった。
――また、我が子を失うのか。
そう震える体の奥で、ある確信めいた思いが胸をよぎった。
ああ、きっとこれは、燈生が私を呼んでいるのだ――と。
会社を“子”に見立て、死を免れるためにすがった私に、罰が下ったのだ。
そう思った私は、ようやく腹を決めた。
今度こそ、母としての役目を果たそう。
私がすべての愛を注ぎ、先代や職人たちが命がけで守り続けてきた――そのままの〈燈衣〉を携えて、
胸を張って、燈生に会いに行こう。
だから、余計なことはさせられないのだ。
誰かの手によって、姿も意味も変えられてしまった〈燈衣〉を、あの子に見せるわけにはいかない。
ああ、だから。もういいの。
どうかこのまま――終わらせてください。
目を瞑り、息を吸う。
すると、扉の外から声がした。
「静子さん。橘様が待合にてお見えになりました」
「どうぞ、お招きして」
はい、の返事と共に足音が遠ざかる。
襟を正し、背筋を前へ伸ばす。
しばしの間。
露地を歩む気配が、庭石をかすかに揺らす。
さらり、さらりと草履が砂を払う音が、遠くから近づいて来た。
やがて、躙口(にじりぐち)の前で足音が止まる。
間をおいて、畳に掌をつく気配。
一拍、深く息を潜めるような沈黙ののち――襖がそっと擦れる音がした。
