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パンで涙を拭って 第12話目 #創作大賞2025 #恋愛小説部門

スマホのアラームを止める。時刻は、朝四時半。
眠気はしつこく残っているが、無理やり体を起こして、真上に伸びをした。少しでも眠気を追い払うように。

台所に立ち、朝の支度を始める。
バゲットを三つほど切り分け、オーブンへ。焼き上がりを待つ間に、ベーコンエッグとサラダを手際よく用意する。
スープはインスタント。正直、自分で作るより、こっちのほうが美味しい。

二人掛け用の小さなテーブルに、朝食を並べる。椅子は一脚だけ。誰かを招いたことなんて、これまで一度もない。

席につき、手を合わせる。

今日から、いよいよ本格的にプロジェクトが動き出す。
進行中はかなりの多忙が予想されるから、体調を崩さないよう、朝食だけは欠かさず用意して食べるのが、自分で決めたルーティンだ。

一日の最初を整えて始める。それだけで、少し気持ちに余裕が持てる気がして。
そんなふうに思いながら、もう何度もこうして朝を迎えてきた。

食事を進めながら、ふと――
目の前の空いた場所に、朝美がいたら、と思った。

一緒に食べたら、きっともっと楽しい時間になるのだろう。
仕事の話でも、他愛ない雑談でもいい。
いや、なにも話さなくたっていい。同じ空間にいるだけで、きっと食事以上に満たされる。

そんな日が、いつか来たら――なんて。
どうしようもなく、叶いそうにない夢を、つい勝手に描いてしまう。

私は朝美を思いながら、香ばしく焼き上がったバゲットを口に運んだ。
パリッとした皮が歯に触れ、心地よい音をたてて潰れていく。

ふっと笑みがこぼれ、自分で照れてしまった。
今日は、いつもよりほんの少しだけ、特別な朝。



企画のGOが出てからというもの、怒涛の日々が続いていた。

国内向けには、ターゲットを“子どもを持つ親世代”に絞る。
ただ着物を売るのではない。「新しい世代に寄り添う衣装」として物語を伝えること――それが、このプロジェクトの核だ。

主軸となるのは、私が依頼した和彦さん自ら手がけた子ども用の着物。
その製作過程を追った映像を、メイン広告として仕立てる。
伝統の技術を未来へ繋ぐ一枚。
《燈衣》が“技術伝承の担い手”であることを、世界に発信するストーリーにする。

映像はSNSに特化させた。
YouTube、TikTok、Instagram……若い世代が一瞬で心を惹かれるように、短尺動画を複数制作。
投稿は季節ごとの文脈に連動させ、“親子の記憶”として広がるよう設計している。

制作スケジュールはタイトだった。
特急で仕立ててもらう着物に、映像撮影をどう合わせるか――まさに綱渡りだったが、佐々木君の的確な采配で、何とか回った。

社内外の調整、営業との連携、インフルエンサーとの折衝。
若手モデルたちに実際に着てもらい、「私も、これが良かった」という体験とともに発信してもらう。
今年の“記憶”が、来年の“動機”になるように。
そんな仕掛けも忘れず築いている。

映像班も、今では私の意図を先回りして提案をくれるほどになった。
SNS戦略の方では、仮投稿の段階で異例のリーチ数を叩き出し、社内には久々に熱が生まれた。

工房の職人たちにも変化が見え始めている。
最初は戸惑っていた撮影にも、今では堂々と自らの技を語ってくれるようになった。

そしてなにより――
和彦さんが図案から手がけたあの衣装は、まさに“芸術品”だった。

ワンタッチ式のセパレート構造で、着脱は簡易。
それでいて意匠には一切の妥協がなく、伝統の品格と実用性が見事に共存している。

和モダンな意匠も印象的だった。
「ブーツと帽子が似合う着物」をテーマに図案したというその一着は、確実に今の時代へフィットしたものであった。

すべてが、噛み合いはじめていた。
文化推進会の後援が決まり、展示会の規模も一気に拡大。
国内外の配信者を招いた体験会では、昴君の朗らかなキャラクターが映像を一段と引き立ててくれた。

構想が形になっていく。
そのたびに、胸の奥で、静かに鼓動が強くなる。

そして――ローンチの日が決まった。
3月10日。展示会の初日。



「朝美! こっちこっち!」

会場の入口でおどおどしながら歩く彼女を見つけ、私は手を振った。

「あ、瑞稀さん。ど、どうも……お久しぶりです」

「ほんと久しぶり。やっと会えたね」

メッセージや電話はよくしていたけど、実際に会うのは、あの居酒屋以来。
彼女が周囲を見渡して、目を丸くする。

「それにしても、すごい規模ですね。展示会って聞いてたから、もっとこじんまりしてるかと」

私は得意げに笑ってみせた。

「文化推進会の協力が大きかったかな。色んな出資者が集まって、展示会っていうより、もうちょっとしたイベントになっちゃって」

PRの公開も、ここに合わせた方が効果的だと決まって。
せっかくならと、派手な演出やコラボ企画も盛り込まれた。

「でも、本当に良かったんですか? 私なんかが来ても」

「関係者パス、何枚か自由に使っていいって言われててさ。せっかくだから、朝美に渡したの」

私は少し照れながら、もうひとこと付け足した。

「それに、“一般の人からどう見えるか”って視点も大事でさ。来てもらえると、私的にも助かるんだ」

そして、少し声をやわらげて。

「今日、誕生日なんでしょ? 私からのプレゼント。楽しんでって」

電話でやり取りをしていた時。
朝美が展示会の日にちを聞いて、「実はその日、誕生日なんです」とつぶやいた声を、私はまだ覚えている。
だからこそ、今日、彼女をこの場所へ招きたかった。

「……ありがとうございます」

朝美が小さく、それでもはっきりと微笑む。
先ずは和彦さんの仕立てた着物を展示してる場所へ行こうと、彼女を案内する。
なるべく自然に、そっと手を繋ぎながら。



会場をひと通り見て回ったあと、二人で人の少ない中庭のベンチに腰かけた。
会場のガラス越しに差し込む午後の光が、淡く足元を照らしている。

「……すごかったです、本当に」

朝美が、胸に手を添えて息をつくように言った。

「映像も、着物も、職人さんの言葉も、全部がちゃんと“物語”になってて…...なんていうか、まっすぐ、心に届きました」

私は思わず、頬を緩める。

「嬉しいよ。……そう言ってもらえて、本当に」

「最初の映像……あの、着物を仕立てる社長さんの手元。あそこだけで、泣きそうになって」

「わかる。私も何十回も見てるのに、あそこだけは毎回、きゅってなる」

「あと、映像の中の子どもが、着物を羽織ったときの顔も……すごく“大事にされてる”って顔をしてて」

その一言に、私はハッとした。
朝美は、きっと誰よりも、そういう気持ちに敏感なのだ。

「ねぇ、瑞稀さん」

「ん?」

「今日……来てよかった。心から、そう思います」

それは、展示の成功とか、評価なんて枠を超えて――
まっすぐに胸へ届いてくる言葉だった。

私は、静かに頷く。

「ありがとう。……ねぇ、少しだけ時間ある?」

「ええ、大丈夫です」

「よかった。じゃあさ、私と一緒に、お昼食べない?」

そう誘うと、朝美はぱっと手を叩いて、嬉しそうに頷いた。

「ぜひ! ちょうど今、瑞稀さんに返すお金も持ってきてるんです。私に払わせてください」

「いいって、そんなの。しまっておいて」

「だめです。今日だけは、どうしても私が」

一向に引く気配のない彼女に、私は苦笑しながら、ふと思いついた提案を口にする。

「……じゃあさ。そのお金、頭金にしない? 一緒に旅行、行こうよ。温泉とか。最近ずっと忙しくて、身体バキバキでさ」

「一人で行くのも寂しいし。……どうかな」

朝美は、一瞬きょとんとした顔で私を見つめ、そしてぽつりと呟いた。

「私、誰かと旅行なんて、したことなくて……
しかも瑞稀さんと一緒に……えっと、私なんかで、本当にいいんですか?」

「“なんか”なんて言わないで」

私は静かに、言葉を継ぐ。

「もし、あなたに出会ってなかったら、今日のこの日は迎えられなかったと思う。……だから、感謝してるのは私のほう」

衝動的に、朝美の髪に触れそうになった手を、そっと引っ込めて、自分の膝の上で握る。

「もちろん、無理にじゃないよ。……朝美さえ良ければ、だから。嫌だったら、遠慮なく断ってくれていい」

すると、彼女は首を振った。
ふわっとした甘い香りが、風に混ざって鼻先をかすめる。

「ぜひ、行きましょう。……私、瑞稀さんと行きたいです。どこがいいか、何か決まってますか?」

緊張していた自分の表情が、花がほどけるように柔らかくなった。

「熱海とかどうかな。電車で乗り継いで行けるし、ちょうどいい距離感かなって」

「熱海……も良いですけど。せっかくなら、もっと遠くの行ったことのない場所にしましょう。二泊くらいで」

「じゃあ……淡路島とかどう? 神戸まで飛行機で行って、そこからバス乗り継いだりしてさ」

「いいですね! 淡路って、何があるんだろう」

肩を寄せ合いながら、お互いのスマホをのぞき込む。
地図や写真を見せ合いながら、笑い合って、ああでもない、こうでもないと話が尽きない。

「暑くなる前に行きたいよね」

私がそう言ったのは、ただ早く朝美と旅に出たい――その気持ちを、やんわりと包んだだけの言葉だった。

それを知ってか知らずか、朝美は小さく頷く。

「そうですね。春のうちに」

まるで、ずっと一緒に日々を過ごしてきた親友みたいに。
それよりも、もっと近い存在のように――

私たちは、たくさんの笑顔を向け合った。

これから、もっと彼女のことを知っていきたい。
そして、私のことも――いずれ、彼女に知ってもらいたい。

色めく幸せとともに、二人の時間は、ゆっくりと溶け合っていく。

「貴方と出会えて、本当に良かった」

その言葉を、口には出さず。
私は、瞳に込めて彼女を見つめた。

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