パンで涙を拭って 第二話 #創作大賞2025 #恋愛小説部門
次の日、会社で仕事をしていると私用のスマホに電話がかかる。
宛先は警察からだった。
デスクから離れて、私は外へ出た後電話を取る。
「お世話になっております、吉村です」
「どうも、橘です」
社交辞令的挨拶を交わした後、本題に入る。
内容はやはり朝美の親族とは連絡がつかなかったというものだった。
そうですかとだけ返事をし、今後どうすればいいかだけ昨日のメモを開きながら確かめる。
「先ずは、病院に引き受け意思の書類を書きに行くんでしたっけ」
「はい。ですが昨日の段階で、橘さんが引き受け人になる旨は病院側も把握していますので、おそらく用意された簡易的な書類にサインするだけだけかと思います」
腕時計を確認する。時刻は12時30分を回った所。今から半休処理すれば、間に合うだろうか。
「承知しました。今日中には対応しておきます。葬儀場の方にも、連絡しないといけませんし」
「え、もう押さえていたんですか」
吉村さんが驚く。実は昨日病院から出る前に、案内してくれた看護師さんからもしよければ参考にと、提携している葬儀場を紹介されていたのだ。
帰宅後、そのままそこに電話をかけ事情を説明すると、快く対応してくれた。
今日で引き受け人の手続きが完了するなら、打ち合わせを進めなければ。
「色々と、段取りよくて本当に助かります。でも、ご無理はなさらないで下さいね」
吉村さんから送られた労いの言葉を素直に受け取り、ありがとうございますと呟く。
「後、遺品整理の為に、朝美が住んでたマンションの鍵を借りたいのですが」
「承知致しました。こちらの方から管理会社へ事情は説明しておきますので、後日橘さんへ折り返し連絡するよう依頼しておきましょうか?」
「すみません、お願いします」
「ではこれにて。大変かとは思いますが、どうかよろしくお願い致します」
その言葉を最後に、軽く挨拶を交わして電話を切る。
さて、休暇の申請を急がなければ。
社用スマホを開き、上司の山崎部長にメッセージを打つ。
『私用で申し訳ありません。本日中に急ぎの私事対応があり、午後は休暇をいただけないでしょうか。
明日以降、長期休暇になる可能性もあります。案件の進捗には支障ありませんが、詳細は改めてご説明します』
送信を押してすぐ、既読がついた。
ほどなく返ってきたのは、短くも温かい返信だった。
『了解。無理せず対応してください。現場の調整は佐々木くんに任せましょうか』
最近の企業風土の改善に、思わず感謝した。
一昔前なら、こんな柔軟な休み方は到底できなかっただろう。
スマホをしまい、私は自分のデスクへと戻る。
部屋に入り、佐々木くんを呼んだ。
「佐々木くん。ちょっといい?」
「はい、今行きます」
小走りで近づいてくる彼は、若さと体育会系らしいバイタリティ、それに要領の良さを兼ね備えた社員だ。
懐っこい性格も手伝って、すでにアカウント・エグゼクティブのポジションに就いている。
「橘さん、さっき部長から聞きました。何かあったんですか?」
「……まぁ、プライベートで色々あって。しばらく休むことになるかもしれないの。
その間、案件任せても大丈夫?」
「頑張ります。……けど、橘さんの仕事、僕に務まりますかね」
少し不安げな顔をする彼の肩を、私は軽く叩いて笑った。
「大丈夫。困ったことがあれば、いつでも連絡して。すぐ対応するから。
それに佐々木くんなら、ちゃんと任せられると思ってる」
「評価高いなぁ、佐々木は」
チームメンバーのひとりが茶化すように言って、笑い声が上がる。
「まぁ、人一倍頑張ってますから」
おどけた彼の言葉に、オフィスの空気が一層和らぎ、明るくなった。
「みんな、ごめんね。私が休んでる間、佐々木くんのサポート、よろしく」
メンバーの返事を背に受けて、私は朝美が待っている病院へと足を向けた。
こうしてタスクを綺麗にこなしていると、心が安定するから助かる。
今はやる事が多いから、彼女の死に向き合わずに済んでいるのかもしれない。
でもそれは、状況が落ち着いたらどうなるか分からないという怖さと隣り合わせなのだが、
今は努めて、そのことは頭の端に押し込んだ。
病院に着くと、受付から医事課へ案内され、そこで引き受け人としての書類に署名をした。
葬儀社のことを尋ねられ、連絡済みであると伝えると、その場で確認の電話が入り、
朝美の遺体は本日中に搬送されることになった。
同時に、葬儀の打ち合わせの予約も取ってもらう。
開始は15時から。ありがたい事に、病院まで迎えに来て貰えるそうだ。
時刻を確認すると、まだ1時間以上ある。私は軽い食事を済ませようと、院内のレストランへと足を運ぶ。
色々ありすぎて、昨日から水しか胃に入れていない。空腹では無いが、流石に何か食べておかないと、体が持たない。
辿り着いた一階。レストラン入り口のメニュー表にはA〜Cセットがあり、私は一番軽めのCセットを選ぶ。
鶏ささみとブロッコリーのサラダボウルに、豆と根菜のミネストローネスープ。
主食は雑穀米か胚芽パンから選べるが、私は迷わずパンを選んだ。
昔から、主食はパンと決めている。
単純に、お米よりパンが好きなだけなのだけれど。
中庭が見える窓際の席に座る。花壇にはクロッカスの花が香り立つ様に咲いていて、春の足音を感じさせた。
──来月末には、旅行の計画を立てていたのに。
「暑くなる前に温泉行こうよ」と私が言い出し、彼女を誘ったのだ。
場所は淡路島。最初は熱海の予定だったけど、朝美がせっかくなら遠い所がいいと、そこに決めたのだ。
連泊しちゃおうか、奮発して高い旅館に泊まっちゃう?なんて、まるで学生みたいにはしゃいでたっけ。
それなのに、事故で死んでしまうなんて。
私は怒りのやり場が分からず、紙ナプキンを一枚取り出して、細く千切った。
店内のテレビからニュースが流れる。
「20代女性が飲酒運転の車に撥ねられ死亡」
まさかと思って目を向けると、それはまさしく朝美の事故だった。
運転していたのは、40代の無職男性。
「無くなった酒を買いに行こうとしていた」と、馬鹿げた理由が報道される。
ぐしゃりと、千切っていたナプキンを握り締めた。
怒りが身体を駆け巡ったが、すぐに力が抜けてしまう。
──私が怒ったところで、何が変わるのか。
犯人はすでに逮捕され、これから法の裁きを受ける。
今からできることなんて、何もない。
ただ感情だけが置き去りになって、私は再びナプキンを細く、丁寧に裂いていった。
番号札の呼び出し音が鳴る。
トレーを受け取って席へ戻り、「いただきます」と手を合わせた。
ミネストローネに口をつける。しかし、思わず吹き出しそうになった。
ーー何これ、味が全くしない。
続けて口に運ぶも、やはりまったく味がしない。
トマトの酸味も、豆の甘みも、根菜の滋味も、何ひとつ感じられない。
味付けを忘れたのかと疑い、店員を呼ぼうとしかけて、ふと手を止めた。
こんなに赤いミネストローネに、味がないなんて――ありえるのか?
“薄い”のではない。“まったく味がしない”のだ。
食感だけがやけに際立ち、砕けた豆のざらつきが口の中に嫌な不快感を残す。
サラダボウルにも手をつけてみるが、やはり味はない。
胡麻のドレッシングが、ちゃんとかかっているのに。
どうしちゃったの、私。
あまりの衝撃に、体が震えていた。
自分に起きていることが信じられず、耳の奥でキーンという音が鳴る。
恐る恐る、パンをちぎって、一口だけ頬張った。
同じく味はしない。だけど、鼻に抜ける風味だけは感じられて、私は安堵の息を漏らした。
穀物と優しいナッツの香りを抱きしめるように噛み締め、ゴクリと飲み込む。
良かった。これまでダメなら、どうしようかと。
結局私はパンだけを平らげ、他は全部残してしまった。
返却する時、ごめんなさいとだけ声をかけると、おばちゃんの店員さんが優しく「気にしないで」と言ってくれて、救われる。
時計を見る。時刻はまだ14時過ぎ。
もっと早くにお願いしとけば良かったと後悔する。
今は一刻でも早く、忙しい状況に自分を戻したくて、堪らなかった。
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