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パンで涙を拭って 第十四話 #創作大賞2025 #恋愛小説部門

入り口に足を踏み入れると、従業員のひとりが私に気づいた。

「あら、橘さん。どうされたんですか?」

「どうも。静子さんに、少し用がありまして」

「それなら、お呼びしてきますね」

彼女はそう言って、店の奥へと消えていく。
私はその場で静かに待っていた。

やがて、静子さんが姿を現す。

「橘さん。お待たせして申し訳ありません」

そう言いながら、私の顔を見てふっと眉をひそめた。

「……ずいぶん、おやつれね。大丈夫?」

「なんとか」

無理に笑ってみせたが、それがかえって心配を誘ったのか、静かに手を握られる。

「とりあえず、お茶でも飲んでいきなさいな」

そう促され、私は応接間へと案内される。
差し出された湯呑みに、そっと口をつけた。

「葬儀って……ご親族の方?」

首を横に振る。

「いえ、友人です。その……事故に遭ってしまって。
身内の方がいなかったので、代わりに私が喪主を務めることにして」

「……そう」

静子さんはそれ以上何も言わず、少しの沈黙が落ちた。
間を埋めるように、互いの啜る音だけが小さく響く。

「……日々、どこかで必ず起きていることなのにね。
その選別に、手心なんてないわ。死ぬということに」

「そのくせ、誰かが代わってあげることもできない。……本当に、理不尽よね」

それは私に向けられたというより、どこか独り言のようだった。

どう返せばいいのか迷っていると、静子さんはそっと湯呑みを置き、私へ視線を送る。

「私と和彦さんのあいだに子がいない理由、話したことあったかしら」

「いえ、ございません」

お子さんがいらっしゃらないことだけは知っていたが、経緯までは知らなかった。
あえて詮索もしなかった。そういうプライベートなことを、興味本位で探るべきではないと思っていた。

一つ、息を溜めるようにして、静子さんは目を伏せた。

「男の子を、授かっていたの。でも、流れてしまって。そのときに子宮も一緒に」

そう言って、自身の下腹を指先でなぞる。
その動きに合わせるように、顔がほんの一瞬だけ、痛みに耐えるように歪んだ。

堪らず、私は口を挟んだ。

「お辛いことでしたら、無理なさらないでください」

しかし静子さんは、短く「大丈夫よ」とだけ言って、語りを続ける。

「数えきれないほど、自分を責めたわ。
何度、後を追おうとしたか分からない。
でも、あるきっかけがあってね。会社を“我が子”だと思い込むことで、なんとか持ち直したの」

けれど、その声はどこか遠かった。

「だからなのよ。経営が傾いたときは、今度こそ一緒に——って、覚悟を決めていたの」

その言葉を聞いて、彼女が最初、再建に消極的だった理由と、“心中”という言葉の意味がようやく腑に落ちた。
きっと静子さんは、自分が選んだ“母”としての役割を、最後まで全うしようとしていたのだ。

「先に伝えておきますね」

ふいに、静子さんが私をまっすぐに見つめる。

「そういう過去があるからといって、“あなたの辛さが分かる”なんて、軽々しく言うつもりはないの。
私の痛みと、あなたの痛みは、きっと別もの。
だから、安易に同情はできない」

真摯で、誠実で——そして本当に私を思ってくれた、温かな言葉だった。

その温もりを保ったまま、彼女はもう一言、私の胸に言葉を置く。

「でもね。大切な人を失った者同士として、ひとつだけ助言させて。
自分を傷つけて、死を受け入れようとしないで」

「え……? いえ私は、そんな事——」

反射的に否定しようとしたけれど、言葉の途中で、静子さんは静かに立ち上がる。
私の隣に腰を下ろし、そっと頬に触れた。

少し冷たく、そして硬い指先だった。

「いくら葬儀が忙しいからって、ここまで無理をすることはないわ。
ろくに、食事もできていないんじゃない?」

ドキリとした。身がこわばる。
食欲のなさも、味覚の消失も——そして、それらがどこかで”朝美との繋がり“を得る手段になっていたことまで、見透かされたようで。

「忙しくして現実を忘れるのも、時には必要よ。
でも、そればかりじゃ、いつか限界が来てしまう」

「ちゃんと、自分で“どう折り合いをつけるか”を考えなさい」

私は、消え入りそうな声で問い返した。

「……静子さんは、どうやって折り合いを?」

それに対して、静子さんはふっと笑った。

「あなたのおかげよ」

「——私の?」

驚く私に、静子さんはゆっくりと頷いた。

「あの茶室で、あなた——燈衣への思いを語ってくれたでしょう?」

私は息をのむ。

「……あの言葉が、本当に嬉しかったの。
たとえ大勢に忘れられても、誰か一人に望まれる限り、この子の終わりを決めるのは、私たちじゃない」

一拍おいて、続ける。

「それに——誰かが紡ぐ、新しい燈衣を見てみたいと。
そんな……夢を描けた」

その言葉とともに、手がぎゅっと握られる。
そのぬくもりの中に、微かな震えがあった。

目の前の濡れた瞳に、私が映っている。

「死に意味を与えるのは、生きている私たちよ。
でも——その意味に、死者が言葉を返してくれることはない」

静かで、確かな声。

「だからこそ、私たちに“どう生きてほしいと思っているのか”……
それを考え続けることが、本当の弔いになるのではないかしら」

握られていた手の力が、ゆるやかにほどけていく。
けれど、静子さんのくれた温度だけは、胸の奥に静かに残っていた。

「私はね、息子がどんな子かも知らぬまま、失ってしまった。
でも——あなたは、そのご友人と出会い、言葉を交わしたのでしょう?」

「なら、その方が今、あなたに何を思っているのか……
どうか、よく考えてみて」

僅かに、私は頭を下げた。
それ以外に、彼女の言葉への感謝を伝える術が見つからなかった。

朝美が、いまの私に何を伝えようとしているのか。
想像すらできないけれど、知りたい。

そして、私が伝えたかった気持ちも——
亡き彼女に、ちゃんと届けたい。

「……ごめんなさいね。急にこんなことを言ってしまって。
かえって、困らせただけかしら」

「いえ。……おかげで、ずっと止めていた感情に、息継ぎをさせてあげられた気がします」

「詩的な表現ね」と、静子さんがふっと笑う。

「本当ですね」と、私は、少しだけ笑った。
——いったい、いつぶりの笑顔だったろう。

その後、静子さん自身の手で採寸が行われ、
明日の早朝、ここで着付けをしてもらえることになった。

別れ際、もう一度お礼を伝える。
それには、言葉にしきれないいろんな想いを込めて、ただ静かに、深く頭を下げた。

彼女は何も言わず、そっと肩に手を添えてくれた。
揺れる心を、支えるように。

私はそのまま、一礼して踵を返した。
足音だけが、静かに廊下の上を過ぎていく。

振り返らなくても分かる。
彼女はきっと、無言のまま——
背中越しに、私を見送ってくれているのだと。



自宅に戻った私は、清掃業者について調べていた。
ずっと頭の片隅で気にかかっていたが、朝美のあの部屋は、もはや個人で片づけられる状態ではなかった。

スマホをスクロールすると、そうした特殊清掃を請け負う業者は意外と多く、プラン表も詳しく掲載されている。
部屋の広さや状況によって、軽度から重度まで分類され、料金もそれに応じて変わるらしい。

即日対応可能とあった業者に連絡を入れると、すぐに応じてくれた。
部屋の状況を簡潔に説明すると、早ければ明日にも現地確認と作業に入れるとのこと。お願いすることにした。

電話を切り、一息つく。
静子さんと話せたことで、少しだけ自分を取り戻せている気がする。
朝美は、あの部屋で普段、何を思っていたのか。
そして今の私に、どんな想いを残しているのか——

そんなことを考えていると、一つの記憶がふと浮かんだ。
二人で計画していた、あの旅行。

あれだけは、きっと朝美も楽しみにしていたはずだ。
私たちに共通する、最後の“心残り”

なら——まずはそこから始めよう。
それに、旅先で気を紛らわせながらなら、あの日記にも向き合える気がする。

スマホを開き、淡路島の宿泊サイトへアクセスする。
休みは……まあ、なんとかなるだろう。
来週いっぱいまでは、部長の言葉に甘えて休ませてもらおう。

平日の水曜と木曜に空いていた、良さげなホテルを予約する。
計画性なんてなかった。けれど、それがよかった。

ようやく——本当の意味で、朝美との時間が動き出す気がしていたから。

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