パンで涙を拭って 第七話 瑞稀と朝美の出会い #創作大賞2025 #恋愛小説部門
私は、最悪の気分だった。
老舗和装ブランド《燈衣(とうい)》――
その名を知らぬ者はいない。だが、実態は酷いものだった。
経営方針も生産体制も、すべてが時代遅れ。
名前だけが独り歩きする、まさに張子の虎だ。
倒産寸前のこのブランドを再生させるプロジェクトを、上から一方的に押しつけられたあの日。
「私のキャリアはここで終わる」――そう悟ったあの瞬間の、血の気が引くような感覚を、今もまだはっきりと覚えている。
時流分析、世間の評価、目に見えるあらゆるデータはすべて逆風。
PRの立案さえままならず、苛立ちまぎれに頭を掻きむしる日々。
加えて、唯一の味方であるはずのクライアント側も私の敵だった。
依頼を持ちかけた社長こそ前向きだったものの、それ以外の従業員は、SNSなどの広報手段に強く懐疑的だった。
「イメージが落ちる」と、露骨に不快感をあらわにする始末。
中でも酷かったのが、私が最初に挨拶に伺ったときのことだ。
応対に出てきたのは、販売員兼社長夫人・早瀬静子さん。
“燈衣”前社長の一人娘で、現在も店舗に立ち続けている、筋金入りのベテランだ。
五十代半ば。目尻の皺は笑いよりも睨みで刻まれたものに見え、
きっちりと整えられた眉、薄紅の口元、銀の混じった黒髪はきつく結い上げられている。
一目で“お局”とわかる、圧のある人だった。
「良いものは、余計なことをせずとも売れますからねぇ」
私の広報プランの説明の最中、薄笑いを浮かべながらそう言い放つ。
「目先の売上を気にして、ブランドの品位を落とすような真似をしたら――
古くからのお客様や、先代たちに申し訳が立ちませんよ」
つまり、私の提案は“下品”で“品格を損なう”と言いたいのだ。
ため息を吐きながら、静子さんは夫への愚痴をこぼす。
「和彦さんにも困ったものだわ。一人で勝手に行動して。今が苦しいだけで、これまで通り、真摯な販売と対応を心がけていれば、経営なんてものはいずれ持ち直すのに。……まあ、元が職人の出だから、そういうことは分からないのでしょうね」
骨董品のような時代遅れの発言に、私は苦笑しながら曖昧に頷いた。
社長の和彦さんは、もともと《燈衣》で働いていた仕立て職人で、婿養子として迎え入れられたと聞いている。
おそらく本人も、静子さんに頭が上がらない立場なのだろう。それでも、今の会社の状況を憂えて動き出したのだとしたら、それは苦渋の決断だったに違いない。
社内で彼がどんな扱いを受けているのかを思うと、同情を覚える。
だが、他人の心配をしている場合ではなかった。
実質的にこのブランドを牛耳っている“お局様”を説得できない限り、プロジェクトは一歩も前に進まない。
結局その日は、煮え切らない会話と、最後に静子さんから小さく投げつけられた皮肉だけが成果だった。
私は重い足取りで本社に戻り、こうして今、デスクの前で唸っている。
――一体、何時代の価値観で経営をしているんだ。あのお局は。
「良いものは、何もしなくても売れる」だなんて。
そんな時代は、とっくの昔に終わっている。
今は、“変化し続ける欲望の上澄み”をいかに見極め、どんな言葉と手法で刺激を与えるか――それがすべてだ。
でなければ、消費者の視線は一秒たりとも止まってくれない。
静子さんはきっと、かつてのように「お得意様が新たなお得意様を連れてくる」という循環を夢見ているのだろう。
けれど現実は、安くて便利で、しかもデザイン性の高い服が市場に溢れている。
わざわざ手間と金をかけて《燈衣》を選ぶ理由など、今の顧客には存在しない。
人は、低きに流れる。
その当たり前の現実に目を背け、過去の成功体験にすがる姿勢は、私にはどうにも“甘え”に見えた。
加えて、《燈衣》にはすでに「古臭い」というレッテルが貼られている。
一度ついた印象を覆すことが、どれほど難しいか――彼女には想像もつかないのだろう。
思わずため息が漏れそうになったが、突っ伏しかけた体をなんとか持ちこたえる。
いけない。こんなときこそ、冷静でいなければ。
私はデスクの脇に置いてあったハード系のベーグルを袋から取り出し、一口齧った。
パンが引きちぎられる乾いた音と、顎に響くほどの弾力。
咀嚼の刺激が脳の深部を揺らし、ほんの少しだけ視界が晴れるような気がした。
腕時計を確認する。時刻は22時手前。
やるべきことは山積みだ。だが、この状態で作業に取りかかっても、ただ体力と時間を浪費するだけだろう。
すでに佐々木くんをはじめ、チームのメンバーは全員帰宅している。
私のプランがクライアントの了承を得られず、プロジェクトは停滞したまま。
そのせいで、彼らには準備と待機ばかりを強いてしまっている。
それにしても、このメンバー構成自体、最初から胡散臭かった。
若手ばかりを集めておいて、失敗したときの“責任者”には、私。
どう見ても、尻尾切りのための人選だ。
上層部にとっては、都合のいい案件だったのだろう。
失敗すれば、鼻につく私のキャリアを潰せる。
成功すれば、それはそれで“若手を育てた成果”として美味しく頂ける。
仮にPRがうまくいかなくても、もともと傾きかけていた老舗だ。
会社の評価が下がる心配もない。
……なるほど、上等じゃない。
やってやろうじゃないか。
裏を返せば、このプロジェクトを乗り越えれば、出世は確約されたも同然。
それに、佐々木くんは新人の中でも優秀だと評判の人材だ。
露骨な嫌がらせを受けているわけでもない。
なら、やる価値はある。
ベーグルの空き袋を脇のゴミ箱に放り込み、ぐっと背伸びをする。
張り詰めた思考をいったん解いて、今夜はリセットしよう。
飲みにでも行くか。
ふとした瞬間に、何かいい案が浮かぶかもしれないし――そんな楽観は、私にしては珍しい感覚だった。
会社を出て、自宅近くの飲み屋街をあてもなく歩く。
普段なら、静かで空気の澄んだオールドバーを選ぶところだ。
一人で飲みたい夜は、誰にも邪魔されない時間が欲しかった。
でも今日は違った。
一人でいたいけれど、ひとりぼっちにはなりたくない――
そんな矛盾した気持ちを抱えて、足を止めたのは焼き鳥の看板文字が踊る、雑多な居酒屋だった。
「カウンターなら空いてますよ」
そう言われて、そのまま流れに身を任せるように中へ通された。
店内には、炭の香ばしい煙と、客たちのざわめきが漂っている。
ガヤガヤと笑いが飛び交う、決して落ち着いて飲めるような空間じゃない。
けれど、不思議と今夜はそれが心地よかった。
店の隅のカウンター。
私が腰を下ろした隣で、大学生ぐらいの男子二人が一人の女の子に声をかけていた。
「おねーさん、ずっと前向きながら喋って疲れない?」
「視線ちょーだいよ」
絡まれている女の子。といっても年は24、5ぐらいだろうが。
その子はビールジョッキを抱えるように両手で持って、斜め前をずっと見つめながら「ええ」とか「すみません」と呟いていた。
正直、面倒な場所に来ちゃったなと思いながらその様子を見ていると、男の一人が彼女の肩を叩きながら腕を回す。
その瞬間、びくりと小さな体が跳ねたのを見た時、反射的に私の体は立ち上がっていた。
「......あっアケミじゃない?うわぁー久しぶりー!」
笑ってしまいそうなぐらいの棒読み。
しかしもうヤケだ。無意識とはいえ首を突っ込んでしまったのなら、最後まで演じきれ。
「大学以来だね!すごい偶然。え、一緒に飲もうよ!」
男達をかき分けながら無理矢理隣へ座る。
「え、なんですかおねーさん」
「この人と知り合い?てか、すごい美人ですね!カッコいい系的な」
的なとはなんだ的なとは。もっとマシな日本語を使え。
貼り付けた笑みを向けながら、私は二人の前へ向く。
「ほんと久しぶりなんだアケミと会うの。ごめんなんだけど、二人でゆっくり話させてくれないかな?」
「僕らいた方が盛り上がるかもですよ?」
ああ、うざい。しかしここで感情を出せば負けだ。こういう時の対処は心得ている。
「あ、店員さん。申し訳ないんだけど、知り合いと二人でいたいから、場所変われますかね?それか、もっと隅の方のカウンターでもいいんだけど。忙しい所すみません」
すかさず、歩いていた女性店員さんに声をかける。
私の意図を汲んでくれたようで、すぐご用意しますねと私達の近くへ寄ってくる。
「こちらのグラスも、テーブル移動する時お運びしましょうか?」
「お願いします。後、私用にビール一つ」
そんな風に“私達だけ”の空間を作っても、懲りずに絡んでくる二人。
「え、こっち無視ですかー?」
「冷たいですねー」
じろりと、店員さんと一緒に面倒そうな視線を向ける。
すると、少し強面のおじさん店員が後ろからぬっとやってきた。
「お客さん、そちらの方の迷惑なってますから。ナンパはご遠慮下さい」
「いやいや、言い過ぎでしょ」
そういって周りを見渡す二人。しかし、もうこの空間は私達の出来事に釘付けになっている。
そして、どう見ても分かりやすい“悪”はこの男達。
大勢から向けられる刺すような視線に耐えかねたのか、舌打ちを落としながら「何、この空気。だる」と言って店外へ出る彼ら。
私は他のお客さん達に軽く頭を下げると、ちらほら手を上げたり、気にしないでーと言った声が聞こえる。
個人が発する抗議の声は、しばしば無視されるけど、それが集団の声となった瞬間、空気は変わる。
多数の視線が同じ一点に集中することで、そこに明確な「圧力」が生まれるから。
しかもその集団が社会通念上の“正義”に立っていれば、支持や共感も得やすくなる。
構図が単純であるほど、観衆は自然とその「正しさ」に加担するのだ。
案件の方も、これくらい簡単に世論を動かせたらいいのにな。
気を抜けばすぐ仕事と結びつけてしまう自分に、少し笑った。
私は運ばれてきたビールに口をつける。
冷たく、ほろ苦い中に感じる麦の香りが喉奥に広がった。
「あ、あの……先ほどは……」
おずおずと感謝の言葉を口にしようとする、さっきの女の子。
ふんわりした頬のラインに、ほんのり膨らんだ唇。
素朴な眉毛のせいか、ちょっと芋っぽい印象もあるけれど、それがむしろ可愛らしかった。
「いいの、気にしないで。半分は仕事のイライラをぶつけた八つ当たりみたいなもんだったし。丁度いいガス抜きになって、むしろ感謝してる」
そう言って私は座り直し、彼女の方へ身体を向ける。
「さっきは大丈夫だった? 変なことされてない?」
「ええ、たぶん…...正直、酔ってて、あまり覚えてないんですけど」
えへへ、と照れたように肩を揺らす彼女。
あまり飲み慣れているようにも見えないのに、なんでこんな店で一人飲みなんかしていたんだろう。
そんな好奇心が勝って、私は自己紹介を始める。
「橘瑞稀っていいます。あなたは?」
「た、高橋です。高橋朝美」
右手を差し出すと、彼女は指先だけを両手でそっと包むように握り返してきた。
「変わった握手の仕方だね」
「あ……その、どうやればいいのか分からなくて」
「普通に片手で握ればいいのに」
一拍置いて、ふたりでくすっと笑う。
グラスを手に取り、軽く合わせる。中のビールを口に運ぶと、彼女はマグカップを抱えるように両手でグラスを持ったまま、ちびちびと飲んでいた。
「飲み方まで個性的なんだね」
「これが、一番落ち着くんです」
彼女が申し訳なさそうに笑う。その姿に、私はそっと肩を叩いて微笑む。
「お酒は飲みたいように飲むのが一番だ。ねえ、“朝美ちゃん”って呼んでもいい?」
「はいっ、もちろん。好きに呼んでください」
私は彼女の大きな二重の瞳を見つめながら尋ねた。
「朝美ちゃんは、よく一人で飲みに行くの? お酒、好きなの?」
「いえ、好きどころか……今日が初めてなんです。お酒、飲むの」
「え、うそ。朝美ちゃんいくつ?」
「25です……」
恥ずかしそうに答える彼女。
25歳で初めてのお酒、しかも一人飲み。少し浮世離れした感じが、逆に魅力的だ。
「私より4つ下かぁ。初めてのお酒で一人飲みって、何かあった? 例えば、失恋とか?」
左手を小さく振りながら、彼女は否定する。
「恋愛って、したこともないし、そもそも……そういう気持ちになったこともなくて」
「瑞稀さんと一緒です。仕事のことで、ちょっと胸がいっぱいになっちゃって。よく“お酒飲んだら忘れられる”って言うから……それで試してみたんですけど、ただ気持ち悪くなっただけで、全然ですね」
彼女は疎ましそうに、まだ残るジョッキを見つめた。
その様子がなんだか可笑しくて、私は彼女のジョッキを取ると、ぐいっと飲み干した。
緩くなった炭酸と、ただ苦いだけのビール。だけど、ほんのりと甘い。
「えっ。み、瑞稀さん? 何してるんですか?」
「好きでもないもの飲んだって、ストレス溜まるだけだよ。普段、何飲んでるの?」
「お茶とか、水ばかりで……あ、でも栄養ドリンクはたまに飲みます」
その選択肢の狭さが、妙に個性的で笑ってしまう。
メニューから“爽快ビタミン”と書かれたソフトドリンクを探し、カウンター越しに注文した。
「何か食べる? 奢るよ。好きな食べ物は?」
「そんな、悪いです。大丈夫ですから」
「遠慮しないで。じゃあ、私の好きなのを一緒に食べよ。すみませーん、ハツを四本、追加で」
「ハツ……ですか? 初めて食べます」
「知らない? 鶏の心臓だよ。お互い、ちょっと心が疲れてるからさ。同じ部位を食べて、元気になろう?」
「以形補形……ですか?」
予想していなかった言葉に、私は思わず手を叩いた。
「すごい。知ってたんだ」
「前に読んだ小説に、似たような場面があって……それで覚えてただけです」
そうして私たちは、ゆっくりと、でも確かに打ち解けていった。
やがて、ドリンクと串が運ばれてくる。
一本手に取って、奥歯で固定し、そのままぐいっと引き抜いた。
弾力のある歯応えと、しっかりとした塩気。安価な味ながら、これはこれで悪くない。
「か、硬いですね」
口元を隠しながら、朝美が小さな声で言う。
「私、こういう食感、好きなんだ。噛むって行為が、たぶん好きなんだと思う。だから主食もお米よりパン派。……まあ、普通に味も好きなんだけど」
少し間を置いて、続ける。
「パンの方が、こう……誰かの血肉を分けてもらってる感じがしない? それを感謝しながら噛みしめると、なんか、美味しく感じるんだよね」
朝美が目を丸くする。
「すごく、独特な考え方ですね。変わってるというか……」
思わず吹き出す。まさか朝美に「変わってる」と言われるとは。
いや、でも確かにそうだ。
パンを食べるとき、そんなことを考える人なんて、そうはいないだろう。
お酒のせいなのか、彼女のせいなのか――
誰にも話したことのない自分の考えを口にしてしまったことが、少しだけ、気恥ずかしかった。
「私は余り、食には興味無くて。食べれたらなんでもいいと思ってしまうから。だから、瑞稀さんみたいにこだわりを持っているの、素敵だと思います」
真っ直ぐで嘘のない言葉に、余計に照れてしまう私。
その感情を隠すように、グラスの縁へ唇を沿わせた。
「瑞稀さんも、よくお一人で飲みにこられるんですか?」
「ん?ああ、まぁね。仕事でストレスが溜まった時は」
「そんなにお仕事大変なんですね」
グラスを置きながら、私は愚痴るように声のトーンを変える。
「まぁ、ちょっとややこしい案件を投げられちゃってね。それが失敗しちゃうと、今後の出世に響くというか」
動かしていた口を止めて、彼女は話す。
「なんのお仕事を?」
「広報PRの仕事。朝美ちゃんは?」
「私は、介護福祉士で働いています」
ああ、ぽい。と私は思った。
雰囲気から、自分の事より他人へ奉仕できるような人間性を感じていたから。
「介護の仕事なんて、それこそ色んなストレスがありそうだね。やっぱ、大変なんだ」
「やりがいもあるし、誰かの役に立ってるっていうのが直に感じられるから、好きな仕事ではあるんです。でも、私は入居者の方に凄く入れ込んでしまう性格で」
俯きながら、辛そうに表情を動かす。
その仕草が、とても印象的だった。
「家族と長く会っていない入居者の方がいて。その方、とても気難しい方だったんですけど、少しずつ、打ち解けられるようになって……。でも、認知症が進んで、他の施設に移ることになったんです」
「やり方を工夫すれば、うちの施設でも支援は続けられると思ったんです。だから、案を持って先輩に相談したんですけど――
全く相手にされず。むしろ貴方のやってる事は介護士失格って言われて……」
「私はただ、一生懸命に、あの人と向き合っていただけなのに……」
朝美の声には、やるせなさと戸惑いが滲んでいた。
けれど――申し訳ないが、私はその先輩の言葉に、ある程度うなずけてしまう。
きっと朝美は、利用者ひとりひとりに対して、誠実すぎるほど丁寧な対応をしてきたのだろう。
でも、その“丁寧さ”は、ときに“偏り”として映る。
彼女が時間と心をかけたぶん、どこかに負担が回っていたのかもしれない。
職場の誰かが、密かにその分の穴を埋めていたとしても、不思議じゃない。
そうなれば「特定の入居者にばかり肩入れしている」といった不満が、知らず広がっていく。
本人にそのつもりがなくても、“そう見えてしまう”ことはある。
ひとつの対象に強く入れ込みすぎて、全体の流れからこぼれてしまう――
そんな人間を、職場という場所は案外、冷淡に扱うものだ。
私はグラスを手に取り、残っていたビールをひと口含んだ。
「……朝美ちゃんの言ってること、すごく分かるよ。
目の前の誰かと真剣に向き合うって、それだけで“誠意”だし、簡単に折れるものじゃないよね」
少し言葉を選ぶように、間を置いて続ける。
「でもね、誠意って、時に“独りよがり”と紙一重なんだ。
誰かを大切にすることが、いつの間にか他の誰かを遠ざけることもある。
チームの中では特に――そのズレが大きく響くことがあるの」
彼女の表情をちらと窺い、やわらかく微笑む。
「朝美ちゃんの優しさは本物だと思う。
でも、“誰かのために”っていう思いが強すぎると、知らないうちに周りが見えなくなることもあるから……
たまにでいい。自分を少し引いたところから見る練習、してみてほしいな」
そして、ジョッキを指で軽く叩きながら、照れ隠しのように言った。
「……なんてね、偉そうなこと言ってごめん。ビールがまずくなりそう」
普段なら絶対に言わないような“説教”。
でもこの夜だけは、言葉を交わすことが許されるような気がしていた。
疎まれたかな……と内心苦笑しながら彼女を見やると、朝美は目を伏せたまま、そっと唇を引き結んでいた。
――無言。これは、やっぱり言いすぎたか。
そう思った矢先、朝美は顔を上げ、かすかに潤んだ目で、こちらを見つめて言った。
「……瑞稀さんの言うこと、一理あると思いました」
意外なほど真っ直ぐな言葉に、こちらが戸惑う。
彼女はグラスを両手で包みながら、ぽつりと続けた。
「でも、それでも私は、“やりすぎた”って言われても、後悔してないんです」
グラスに視線を落とし、静かに言葉を重ねる。
「あの方と過ごした時間は、本当に大切でした。必要とされてるって、実感できたから。
確かに、周りをもっと見なきゃいけなかったんだと思います。
でも……“分かってくれる人がいる”って感じられることって、それだけで、すごく救いになるんです」
少し照れたように微笑みながら、続けた。
「その人がどんな人生を歩んできて、何が苦手で、どんなときに笑うのか――
少しでも知ろうとせずに支援するなんて、私には無理で。
それってもう、介護じゃなくて……ただの“作業”だと思うから」
彼女は、グラスの水滴を指でなぞりながら、ぽつりと呟いた。
「……結局、私が大事にしてるのって、“その人らしさ”なんだと思います」
言ってから、ふと顔を上げて、静かに続ける。
「……瑞稀さんのお仕事も、そういう意味じゃきっと、私の仕事と似てるかもしれませんね。
PRで“どう見せるか”を考えるなら、その人――その会社がどう生きてきたかを知らなきゃ、始まらない。
たとえ相手が“企業”でも、そこには人がいて、想いがあるから」
その言葉に、私は息を呑みかけた。
……そうか。
私が“理性的な判断”だと思っていたあれこれが、むしろ足かせになっていたのかもしれない。
数値やトレンド、世代別の購買層データ。もちろん、それらは正しい。
けれど、それだけでは語れない何かが、この案件にはあったのでないか。
欠点と見なしてきた“伝統”や“古さ”、“非効率”というレッテル。
でも――それは本当に、取り除くべきものだったのか?
朝美の話を聞いているうちに、むしろそれらが、今のブランドにしか持ちえない“唯一無二の物語”だと気づいた。
ずっと目の前にあったのに、私はずっとそれを「ノイズ」だと思っていたんだ。
……違う。あれは、“語るべき核”だった。
朝美のように、まっすぐで、融通がきかないくらい真剣な人間。
合理性の外側に立っていても、それでも伝わってしまう本物の熱量。
それこそが、いまこのブランドが持つ唯一の長所であり、勝負できる商材。
その瞬間、頭の中で何かが音を立てて組み変わった。
プランの構想が、まるで自動で再構築されていく。
今すぐにでもデスクに戻って、資料をひっくり返したい。
ペンを持って、一気に走り出したい衝動が、胸の奥で脈打っていた。
そんな私の様子に気づかず、朝美はふと申し訳なさそうに言った。
「すみません、生意気に反論なんてしてしまって……
でも、職場って一人じゃないんですよね。
私、それが分かってなかったんだと思います」
少しうつむいて、ぽつりと続ける。
「入居者の方だけじゃなくて……同じ職員も、ちゃんと大事にしなきゃいけなかったなって」
「いや、私の方こそ感謝してる。うん、なんかさ……私、正しい事を決めつけすぎてたのかもしれない。
朝美ちゃんみたいなプロ意識、ちゃんと見直してみるよ」
そう言いながら、自然と目が合う。
そして、お互いに照れくさそうに笑った。
きっと他人には見せないような、自分の青臭い部分をさらけ出したからだろう。
「そろそろ……私、明日も仕事があるので」
「うん、じゃあ出ようか。奢るって言ったしね」
「いえ、そんな、申し訳ないです……」
そう言いながらバッグに手を入れた彼女の顔が、みるみる青ざめていった。
「……え、うそ。なんで……?」
震える声で、鞄の中身をがさがさとあさる朝美。
「どうしたの?」
「さ、財布がないんです。ここに入れてたのに……ほんとに、嘘じゃないです!」
肩がガタガタと震える。私は慌てて彼女の肩に手を置き、席に座らせた。
「ここに来るまで、どこか寄った?」
「い、いえ。家からタクシーで直接来て……そのとき支払いもしたから、絶対に財布は持ってたんです。お店に入る前にも確認したし……」
きっと嘘ではない。
……まさか、と脳裏にあの若い男たちの顔が浮かぶ。
「さっき、あの二人に絡まれてたとき、バッグを触られた可能性ってある?」
「わ、分かんないです。でも……あの人たちが座ってた方にバッグを置いてたかも」
不用心とは思ったが、それを責めても仕方ない。悪いのは盗ったほうだ。
「大丈夫。ここの支払いは私が持つよ」
「そんな……今日会ったばかりで……申し訳なさすぎます」
「気にしないで。じゃあさ、もし返せるときがあればでいいから、連絡先だけ交換しよう?」
「……本当に、それでいいんですか?」
彼女が不安げに言うのに、私は「もちろん」と頷いて、さっと会計を済ませた。
外へ出ると、彼女は何度も頭を下げながらお礼を繰り返す。
「そういえば、カードは? 止めておかないと」
「あ、えっと……私、クレジットカードは持ってないんです。キャッシュカードも通帳と一緒に家にあって……大丈夫です」
この時代にキャッシュレス決済手段を持たないのは驚きだったが、なんとなく彼女らしいとも思えた。
「じゃあ、家まではどうやって?」
「ちょっと時間はかかりますけど、歩ける距離なので……」
「この時間に一人歩き? 危ないって」
そう言って、私は通りかかったタクシーを止めた。
財布から一万円札を取り出し、彼女の手に無理やり押しつける。
「お支払いまでしてもらって……さすがに、これは……!」
「いいから。返したくなったら、また会ってくれればいいよ」
そう言って、さりげなく“次”を仄めかす。
朝美は、何度も何度も「必ず返します」と言いながら、タクシーに乗り込んだ。
「また、会わせてください。……このままお別れなんて、絶対できません。すぐ、私の空いてる日、送りますから」
窓を開け、大きな声でそう言って頭を下げる彼女。
その姿を見送るうち、タクシーは夜の街へと消えていった。
――変わった子だったな。
真っ直ぐで、気弱そうに見えて芯があって。
どこか世間とズレてるけど、そこがまた、可愛かった。
私は両頬を軽く叩くと、深く息をついた。
さぁ、せっかくいい案が浮かんだんだ。
家に帰ったらすぐにでも、提案資料の作成に取り掛かろう。
雑多な声が混じった冷たい夜風が、火照った身体を優しく冷ましてゆく。
その風に乗って、私の中に残っていたモヤモヤも、ふっと消えていった。
