【ファミリーヒストリー】(2025年4月時点) - 阿波水軍、森権平久村、碁浦番所、永塩因幡守氏継、赤沢信濃守宗伝、瀬戸内寂聴、笠置シヅ子、安部譲二、昭和天皇、北朝鮮端川(タンセン)市 -
こんにちは。
トリリンガル讃岐PRオフィサーのモリヨシナリです。
今回は私のファミリーヒストリーについてです。
海外で長年働いていた為、先祖のことに関心を持つ余裕がありませんでしたが、身内の死をきっかけに戸籍謄本を入手し, 2, 3年前から少しずつ自分の先祖について調べ始めました。
調べだすと思いもよらなかった人物達との関係が浮かび上がってきました。
現在も調査中ですが、2025年4月時点で分かっていることを整理したいと思います。
・2026年4月時点までの先祖調査【讃岐秘話】摂津守護代 長塩(永塩)家から讃岐黒羽 永峰家への変遷 : 三好長慶の下克上により細川京兆家重臣から改姓、帰農→地主・庄屋へ
【記事概要】
🔸ファミリーヒストリー:知られざるルーツと激動の時代を生き抜いた家族の物語
私は、海外での長い仕事生活を経て、数年前から自身のルーツを辿る旅を始めました。
戸籍謄本を紐解き、先祖たちの足跡を追う中で、思いもよらない歴史上の人物や出来事との繋がりが明らかになってきました。
🔹森家のルーツ:阿波水軍と高松藩
森家の先祖は、徳島の阿波水軍 森氏一族の支家に当たります。特に、1583年の引田の戦いで長宗我部元親軍と戦い討ち死にしたとされる森権平久村との関係が伝えられています。彼の墓は東かがわ市伊座に、位牌は引田の日下家にあります。
阿波水軍森家の家紋は「木瓜」、そこから分かれた高松藩森家の家紋は「丸に木瓜」です。
ちなみに、森権平の母は阿波の赤沢一族、祖母は撫養城主小笠原摂津守の娘であり、信州にルーツを持つ家系との縁が深いことが分かります。
・高松藩森家が讃岐に定着した背景: 若き武士の悲劇
🔹森家の菩提寺:海暁閣 勝覚寺
森家の先祖代々の菩提寺は、香川県東かがわ市にある海暁閣 勝覚寺です。この寺は、森権平久村の母方の出身家系である阿波 赤沢氏一族の板西城主 赤沢信濃守宗伝の一子が、1582年の中富川の戦いで敗れた後に讃岐に逃れ、開基しました。
勝覚寺は四国唯一の閣寺院であり、幕末から明治期にかけて活躍した二十世 赤沢融海法師(1833年〜1895年)が旧五摂家 鷹司家から寺紋を授かるなど、歴史と由緒のある寺院です。
🔹高松藩での森家:普請と地域貢献
高松藩に属していた森家は、藩内で普請(土木工事)の仕事に携わっていました。
橋や道路の建設、さらには金刀比羅宮の石段造営にも参加するなど、地域のインフラ整備に貢献していました。また、現在の柏谷という地名は、森家が柏の木が生い茂る山を切り開いたことに由来しています。


🔹世代を繋ぐ婚姻と著名人との繋がり
高祖父 森喜平:高松藩で普請の仕事に従事していた森喜平は、徳島藩の禄持ちの碁浦番所役人兼庄屋を務めた八田家の当主 八田孫平の長女キヨと結婚しました。八田家は200年以上碁浦番所役人を務め、阿波水軍 森家とも繋がりがあり、藩を越えた婚姻関係となりました。この碁浦番所には測量中の伊能忠敬や久米通賢、北海道の名付け親である松浦武四郎らも訪れました。
曽祖父 森虎太郎:森虎太郎は、東かがわ市黒羽にあった黒羽城主 永塩因幡守氏継の末裔にあたる庄屋 永峰家の長女チヨと結婚しました。永塩因幡守氏継は1467年に黒羽神社を創建し、その後応仁の乱で細川方として参戦し、安富元綱らと共に壮絶な最期を遂げた武将でした。虎太郎とチヨの娘 森ミヤコ(私の祖父の姉)は黒羽の永峰杢左衛門の末裔である同じ永峰家に嫁いでいます。
高祖父 森喜平の長女 森トヨ:森トヨは、東かがわ市黒羽の旧家である三谷総本家の三谷磯八と結婚しました。この三谷家は戦国大名 十河氏の血筋を引く旧家です。そして、瀬戸内寂聴(三谷晴美)さんは、この三谷総本家の分家(屋号:甚六)の末裔にあたります。
森虎太郎と永峰チヨの娘 森トメノ(大伯母):明治生まれのトメノは、1925年(大正14年)から英語を使い旧・神戸オリエンタルホテルで勤務していました。このホテルには、アインシュタイン、ヘレンケラー、マリリンモンロー、川島芳子、そして昭和天皇など、数々の著名人が宿泊しました。大正、昭和の激動期の人生とホテル勤務について神戸新聞からインタビューを受けた記事が残っています。
笠置シヅ子さんとの縁:歌手の笠置シヅ子さんは、香川県東かがわ市黒羽で製糖業を営む豪農だった三谷家の出身でした。黒羽の三谷栄五郎宅で生まれ、生後間もなく大阪の亀井家(東かがわ市引田出身)の養子となりました。現在は、分家の孫黒茂が讃岐和三盆の製造・販売をしています。
🔹激動の時代を生き抜いた祖父母と両親
祖父:私の祖父は、日中戦争の最中、27歳の若さで戦没しました。祖母のお腹に父がいた時でした。
父:幼くして両親を亡くした私の父は、10代で香川の片田舎から神戸へ渡り、西洋料理人の道を志しました。厳しい修行に耐え抜き、旧・神戸オリエンタルホテルで料理を提供するようになります。父は昭和天皇や皇后両陛下、皇太子殿下(現 上皇)を含む皇族に料理を献上するという大役を果たしました。また、作家 安部譲二さんの父、安部正夫氏がオリエンタルホテルの社長を務めていた時代に、皆勤表彰を受けています。この頃、日航のパーサーをしながら安藤組組員だった安部譲二さんに何度も遭遇しています。安部譲二さんに2018年にメールで尋ねると実際、安部さんの両親が住んでいた神戸市垂水区のジェームス山の家や旧・神戸オリエンタルホテルには何度も訪れていたとのことでした。
母:私の母は、戦前、実父の仕事の関係で日本の領土だった現在の北朝鮮の端川(たんせん)市へ渡りました。しかし、日本の敗戦後も現地に残留を余儀なくされ、命からがら陸路を何日も歩き、船を乗り継いで日本へ引き揚げてきました。
🔹私、森啓成の現在
現在、私は、アメリカ、シンガポール、中国(上海、北京、深圳)での生活を経て、日本でビジネス英語講師、全国通訳案内士(英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタントとして活動しております。
🔸森家の先祖
森家の先祖は徳島の阿波水軍 森氏一族の支家で、森権平久村と関係があると伝わる。森権平久村は1583年、引田の戦いで長宗我部元親軍と戦って討ち死にした。
東かがわ市伊座に森権平久村の墓がある。位牌は引田の日下家にあり、過去帳は積善坊にある。これは、森権平の実叔母が引田の四宮家に嫁ぎ、その夫が日下家の養子となった関係による。
🔸阿波水軍 森家と高松藩 森家の家紋
・阿波水軍 森家の家紋 木瓜、支家 高松藩 森家の家紋 丸に木瓜

※四宮家は信州から讃岐に来た。讃岐の四宮家、阿波 撫養城主だった小笠原家、その小笠原家の庶家である阿波の赤沢家、仙石秀久など信州にルーツを持つ者が多い。
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森権平久村の兄 森村重が阿波水軍初代 森甚五兵衛

🔸森家の菩提寺 海暁閣 勝覚寺 (板西城主 赤沢信濃守宗伝の一子が開基)
森権平の母は、阿波の赤沢家一族の赤沢伊賀守の娘、祖母は撫養城主 小笠原摂津守の娘。赤沢家は小笠原家の庶家にあたる。小笠原家も赤沢家も元は信州に住んでいた。


森権平久村の母が阿波の赤沢一族の赤沢伊賀守の娘であった。その関係から同じ阿波の赤沢家一族の板西城主 赤沢信濃守が1582年、中富川の戦いで長宗我部元親軍に敗れ討ち死にした後、その一子が讃岐の小砂(こざれ)に逃れ開基した勝覚寺が私の先祖の菩提寺となった。

四国唯一の閣寺院である海暁閣 勝覚寺の二十世 赤沢融海法師(1833年〜1895年)は、三条実美公と交流があった。
勝覚寺の三つ紅葉の寺紋は、赤沢融海法師(庄松同行在世当時住職、本山興正寺執事)が、多年にわたる本山に対する功績に対し、旧五摂家 鷹司家より下賜されたものである。

🔸海暁閣 (かいぎょうかく)
本願寺 第二十代御門主、広如宗主より、山号、海暁閣を賜り、四国唯一の閣寺院として、今日に至る。
🔸広如(こうにょ)宗主
1798年7月14日(グレゴリオ暦換算) – 1871年10月3日(グレゴリオ暦)
幕末の浄土真宗の僧。
浄土真宗本願寺派第20世宗主。
西本願寺住職。
🔸勝覚寺は昭和の時代、テレビドラマ「裸の大将」の撮影地にもなった。

🔹海暁閣 勝覚寺サイト
🔸高松藩 森家
高松藩に籍を置いていた森家は、藩内で普請の仕事をしていた。
橋や道路を作ったり、金刀比羅宮の石段造営にも参画した。
柏の木が生い茂っていた山を切り開いて柏谷と名付けた。


小磯の浜に高松藩の松平の殿様が涼みにきた際は、お膳立てしなければならず経済的に大変だった。

戦前までは甲冑、刀、槍があったが、戦中の金属回収令で国に供出した。戦後は、刀のツバが残っており額に入れて飾っていた。
高祖父の父:
森義右エ門 (高松藩 普請方)
森権平久村の母が阿波の赤沢一族の赤沢伊賀守の娘であった関係から、同じ赤沢一族の板西城主 赤沢信濃守宗伝の一子が開基した海暁閣 勝覚寺が森家先祖代々の菩提寺となった。
高祖父母:
森喜平 (高松藩普請方) 1864年(元治元年)結婚
八田キヨ(徳島藩の禄持ちの碁浦番所役人兼庄屋 八田家当主 八田孫平の長女)
徳島藩の碁浦番所の役人を200年以上務めた八田家は地理的に高松藩との境の海沿いにあった為、海の警護役も兼ねていた。260年間、徳島藩の海防を担っていた阿波水軍 森家と八田家は既知の関係であり、そのような背景から藩をまたいで高松藩の森家と禄持ちの八田家は婚姻関係を結ぶに至った。
曽祖父母
森虎太郎 1889年(明治22年)結婚
永峰チヨ (黒羽城主 永塩因幡守氏継 末裔、黒羽庄屋 永峰家 永峰市次郎の長女)
曽祖父の妹
森トヨ 1893年(明治26年)、黒羽 三谷総本家 三谷磯八と結婚。
瀬戸内寂聴(三谷晴美)さんの先祖は三谷総本家の分家で屋号は甚六。大叔母は引田の積善坊での瀬戸内家の法事には手伝いに行き参列していた。
祖父母
祖父 1937年、日中戦争の最中、香川県の善通寺陸軍病院丸亀分院にて27歳の若さ生まれてくる長男(私の父)の顔を見る前に戦没。
祖母 戦後、間もなく若くして亡くなる
父母
父 幼少期に父母を亡くし、10代で香川県の片田舎から徒手空拳で神戸へ渡り、料理の道に入る。神戸のホテルで皿洗いから始め、鉄拳制裁の厳しい修行に堪えながら西洋料理人となる。昭和天皇皇后両陛下、皇太子殿下(現 上皇)を含む皇族に料理献上
母 父親は香川県で瓦工場を営んでいたが、戦時中、父の仕事の関係で、当時、日本の領土だった現在の北朝鮮の端川(たんせん)市へ渡るも日本の敗戦で残留、戦後、命からがら日本へ引き揚げる。


🔸高祖父の父 森義右エ門
高松藩で普請の仕事をしていた。
🔸高祖父 森喜平 八田キヨ (徳島藩 碁浦御番所役人 八田家)と結婚
八田キヨは徳島藩の碁浦番所役人兼庄屋を200年以上務めた八田家の当主 八田孫平の長女だった。
碁浦番所は高松藩との境の海沿いにあり、海の警備役も担っていた為、260年間、徳島藩の海防役を務めた阿波水軍 森家と八田家には繋がりがあった。その関係から徳島藩の八田家と高松藩の森家の藩を跨いだ婚姻に至った。
碁浦番所には松浦武四郎や伊能忠敬、久米通賢らも訪れ手形改めを行っている。

🔸曽祖父 森虎太郎 永峰チヨ (黒羽城主 永塩因幡守氏継の末裔)と結婚
永峰チヨは、黒羽城主 永塩因幡守氏継の末裔で黒羽の庄屋 永峰家の出身
永塩因幡守氏継は、己の最期を悟ってか1467年8月に黒羽神社を創建した。その後、細川方として応仁の乱に参戦し、1946年、京都御所の北側にある相国寺で安富元綱らと共に壮絶な最期を遂げた。その後、永塩家は帰農し、永峰家に改姓した。
・永峰家 家系図 (引田町人物史)




◆永峰チヨの先祖 永峰杢左衛門 (ながみねもくざえもん)
曽祖母 永峰チヨは、東かがわ市黒羽の旧家 永峰杢左衛門の末裔 永峰市次郎の長女だった。チヨの娘の森ミヤコは、同じ永峰家に嫁いでいる。先祖は、応仁の乱で討ち死にした謎多き武将 永塩因幡守氏継 (黒羽神社創建)。
◆『引田町人物史』より
永峰杢左衛門。黒羽の人。祖は黒羽永峰家の元祖である永嶺宅本是則妙空(寛永八年(一六三一年)十月十五日没七八歳)、永峰五郎右衛門の子孫 興左衛門(元文四年(一七三九)七月一日没九〇歳)の別家である。屋敷も元祖の永嶺宅本墓碑の横にある。屋号は「お頭」。
三代 永峰杢左衛門は文政十一年(一八二八)に与頭を務る。(引田町社の棟札引田町教育委員会)
一族の黒羽村庄屋 西家 永峰五郞三郎に続き苗字をもつ有力者と思われる。
屋敷前には砂糖縮小屋を持ち「出口」と呼ばれ砂糖などで繁栄した。
・永峰家系図
①杢左衛門 ②久米七 ③杢左衛門 ④杢左衛門 ⑤直三郎 ⑥市次郎 ⑦栗太郎 ⑧義史
参考文献: 「永峰義史家過去帳」

黒羽の永峰家は、西家が黒羽村の庄屋、東家が地主だった。私の曽祖母の子孫にあたる方は不動産業をしていた。

◆永塩因幡守氏継の居城 黒羽城
◆【ファミリーヒストリー】細川京兆家の家臣 長塩備前守又四郎元親と永塩因幡守氏継の関係は? 阿波水軍 森家と永塩/長塩家の関係は?
🔸高祖父 森喜平の長女 森トヨ (黒羽の旧家 三谷家総本家の三谷磯八と結婚。 瀬戸内寂聴は三谷総本家の分家)
三谷家は戦国大名 十河氏 の流れを組む旧家。
曽祖父 森喜平の長女 森トヨは明治26年、東かがわ市黒羽の三谷総本家の三谷磯八に嫁いだ。
瀬戸内寂聴(瀬戸内晴美)さんもこの黒羽の三谷総本家の分家である三谷甚六の末裔にあたる。瀬戸内寂聴さん父 三谷豊吉さんが、瀬戸内家の養子となった為、瀬戸内姓に改姓した。瀬戸内寂聴さんの父母の墓は引田の積善坊にある。
歌手の笠置シヅ子さんは黒羽の三谷家で生まれ、その後、亀井家の養子となった。笠置さんの実家は製糖業を営む豪農だった。笠置さんの養父母と弟の墓は引田の積善坊の隣りの萬生寺にある(引田の亀井家の菩提寺は萬生寺)。笠置さんは萬生寺近くでコンサートも行ったことがある。

・三谷家 家系図 (引田町人物史)




・瀬戸内寂聴さんの母 コハルと1才の晴美(瀬戸内寂聴さん)、姉の艶(つや)(真ん中)、瀬戸内いと(左端)。瀬戸内いとの夫は、坂出の塩田を開発した久米通賢の次男だった。

🔸森虎太郎と永峰チヨの娘 明治生まれの森トメノ (神戸新聞インタビュー記事: 英語を使い神戸オリエンタルホテルに勤務)
明治生まれの大叔母(祖父の姉)は引田の積善坊で執り行われる瀬戸内寂聴さんの家の法事に出席していた。瀬戸内寂聴さんのことは、晴美さんと呼んでいた。
大叔母は、1924年に孫文と頭山満が会談した旧・神戸オリエンタルホテルに1925年(大正14年)から英語を使って電話交換手として働き出した。この旧・神戸オリエンタルホテルには、アインシュタインやヘレンケラー、マリリンモンロー、昭和天皇、皇族から政財界人、川島芳子などが宿泊した。
大叔母が子供の頃は、まだ武士だった祖父の森喜平が存命しており厳しいしつけを受けた。祖母の碁浦番所 八田家出身の八田キヨは、阿波浄瑠璃の三味線が上手い人で、春にはると船に乗って三味線を弾きながら近くの島に遊山に行くような風流な人だった。
大叔母は、警察官と結婚し、神戸空襲で家が全焼するなど激動期の大正、昭和の時代を旧・神戸オリエンタルホテルに勤めながら駆け抜けた。


🔸東かがわ市黒羽で製糖業を営む豪農だった三谷家出身の笠置シヅ子さんの激動の人生
🔸祖父 日中戦争の最中、27歳で戦没
私の祖父は日中戦争の最中、1937年(昭和12年)10月20日に香川県の善通寺陸軍病院丸亀分院で無念にも27歳の若さで亡くなった。私の父が祖母のお腹の中にいるときだった。



🔸善通寺陸軍病院丸亀分院の場所
丸亀城が所在する香川県丸亀市に歩兵第十二聯隊があった。
兵営では後に歩兵第百十二聯隊、歩兵第三百五十二聯隊、歩兵第四百四十九聯隊、歩兵第四百五十二聯隊が編成された。
また、隣接して善通寺陸軍病院 丸龜分院、丸龜西・東陸軍練兵場、丸龜歩兵作業場、城内射撃場、丸龜憲兵分遣隊があった。

歩兵第十二聯隊営門(昭和初期)
右側に「歩兵第十二聯隊」、左側に「善通寺陸軍病院丸龜分院」の門札が掛かる。現在の丸亀城近くにあった。

🔸日中戦争
日中戦争(中国名:中国抗日战争、第二次中日战争)
盧溝橋事件により発生した、1937年(昭和12年)7月7日から1945年(昭和20年)8月15日まで、大日本帝国と蔣介石率いる中華民国国民政府の間で行われた戦争。
支那事変(しなじへん)、日華事変(にっかじへん)、日支事変(にっしじへん)とも呼ばれる。
【ファミリーヒストリー】祖父が戦没者として亡くなった善通寺陸軍病院 丸亀分院の現在地と戦没記録を追って
【ファミリーヒストリー】父が生まれる前に戦没した祖父の記録を追う。 香川県庁に軍歴資料申請、善通寺市の陸上自衛隊内の乃木資料館に問い合わせた結果は?
🔸父 西洋料理人。 昭和天皇に料理献上
西洋料理人。オーナーシェフ。ホテルで勤務後、レストラン開業。
今は亡き父は、幼くして両親を亡くし口では言い表せないような苦労をしたようだ。本人の口からは聞いたことがないが。
戦後の混乱期に両親がいないと言う逆境の中にあり、肉体的、精神的に鍛えられたことは容易に想像できる。私が、小学生の頃、父が犬に手をガブリと深く噛まれた際、ガスコンロで家にあった針をあぶり自分で傷口を縫っているのを見たことがある。今から考えれば色々な意味で恐ろしいことだ。
だからブラックジャックやランボーが自分自身の傷口を縫うシーンを見ても驚かなかった。
戦後のホテルは、軍隊並みに厳しく鉄拳制裁は日常であり、想像を絶する修行に耐えれたのも幼い頃からの境遇があったからだろう。生まれてきた時から父が味わってきた精神的、肉体的苦痛に比べるとホテルでの修行は屁でもなかったのかもしれない。普通の人ではホテルでの厳しい修行と人間関係には耐えられないようだ。
ホテル勤務時代、当時、第12代 料理長だった伊藤孝二氏のもとで修行し、昭和天皇や皇族、政財界人、阪神タイガースの外国人選手、石原裕次郎さん等の俳優に料理を提供していた。
・旧神戸オリエンタルホテルとは?
谷崎潤一郎の『細雪』にお見合いの場所として登場する旧・神戸オリエンタルホテル
<井谷と云うのは、神戸のオリエンタルホテルの近くの、幸子たちが行きつけの美容院の女主人なのであるが、縁談の世話をするのが好きと聞いていたので、幸子はかねてから雪子のことを頼み込んで、写真を渡しておいたところ、先日セットに行った時に、「ちょっと奥さん、お茶に附き合って下さいませんか」と手の空いた隙に幸子を誘い出して、ホテルのロビーで始めてこの話をしたのである。> (細雪より)
昭和天皇へ料理献上
日本が高度経済成長期にあった昭和30年代、神戸元町の京橋通りにあった旧・神戸オリエンタル・ホテルにて1つのプロジェクトチームが結成された。
そのプロジェクトの目的は、昭和天皇がオリエンタルホテルで宿泊する際の料理を作り献上することであった。
当時ホテルに勤務していた数百名の中から5名が御献上料理担当のメンバーに選抜された。
選抜メンバーは、第12代総料理長である伊藤孝二氏、石坂勇氏(後に名誉総料理長)、梶谷氏、森功、梅田氏の5名であった。
選抜メンバーは、料理を作る1ヶ月前から兵庫県庁職員立会のもと、健康診断、検便などの検査、そして、戸籍などの身元調査が開始された。
当時、私の父 森功の東かがわ市の実家にも調査員が訪れた。
昭和天皇への料理を作る1週間前になるとホテルから外へは出られず、ホテルに缶詰状態となり、抗生物質の投与が開始された。
料理に使う調理道具類は、全て大きな鍋で沸騰させた熱湯の中に入れられ絶えず煮沸消毒された。
昭和天皇へ実際に提供された料理は、神戸牛、明石の鯛など最高級の食材数種類の一番美味な箇所が少量ずつ献上された。
神戸牛は元町で現在も営業を続ける創業明治6年の「森谷商店」から提供された。





1958年、石原裕次郎さんは、日活の映画「赤い波止場」の撮影のため神戸に来ていた。「赤い波止場」は、舛田利雄監督、石原裕次郎、北原三枝出演の映画で、神戸港や三宮など全編神戸をロケ地として撮影された。ちなみに石原裕次郎さんは、兵庫県神戸市須磨区生まれ、北海道の小樽育ち。


1959年4月28日(昭和34年)。第12代総料理長 伊藤孝二氏(左)とともにホテル5階にて撮影。背後にある歌碑は、1956年(昭和31年)に昭和天皇が神戸に来た際、 旧・神戸オリエンタルホテルの屋上から、 神戸みなと祭・海上提灯行列の夜景を見た印象を、 翌年(昭和32年)、 宮中歌会始の儀に「灯」の御題のもとに詠んだもの。
この歌碑は、現在、神戸メリケンパークオリエンタルホテルの最上階14階のバルコニーにある。
< 歌の内容 >
「港まつり 光りかがやく夜の舟に こたへてわれも ともしびをふる」

オリエンタル・ホテルにて勤務した期間、昭和天皇、皇后、皇太子(平成天皇)、財界、政界の著名人、石原裕次郎さんに代表される芸能人、ジーン・バッキー投手を始めとする阪神タイガースの選手面々、当時、来島ドック社長であった坪内寿夫氏、そして、作家の安部譲二氏の父親である安部正夫氏らに料理を提供した。



石原裕次郎さんが、神戸オリエンタルホテルへ来た際は、何か軽食をとの注文があり、特製クラブサンドイッチを作って出した。
当時、父は大阪のあべの辻調理師学校や芦屋の主婦を対象とした料理教室の講師も務めていた。
・父が担当したディナーメニュー。


・当時、昭和30年代、父が担当したメニューの記録。 1960年代初めまで、調理場では英語とフランス語しか使えず、メニューや食材を丸暗記した。失敗すれば怒声が飛び、平手で殴られた。厳しい修業が料理人を育て上げた。




・作家 安部譲二さんの父 安部正夫さんから表彰される
この頃、作家 安部譲二さんの父 安部正夫氏が日本郵船を退職後、オリエンタルホテルの第5代社長を務めていた。安部正夫氏は神戸牛のステーキを好んで食した。私の父は、当時、オリエンタルホテルにて、食材から調理器具類(シャープの国産第一号電子レンジなど)まで購買も担当していた為、安部さんから頼まれて神戸市垂水区のジェームズ山の自宅まで神戸牛を届けたこともあった。父は、息子である安部譲二さんを何度も見かけた。
当時の安部譲二さんはといえば、1961年1月に23歳で日本航空に入社、スチュワードからパーサーまで出世し、1965年1月に退社した。日本航空の同僚に後に力道山の妻となる方もいた。
退社の理由は、理不尽な要求をする乗客とトラブルになり殴ってしまったことをきっかけに、前科3犯(当時)で執行猶予中であることや暴力団組員であることが露見してのことだったそうである。




当時、オリエンタルホテルの第5代社長に就任していたこの日本郵船の安部正夫氏が、 「港街・神戸のシンボルに」と、 1964年(昭和39年)に日本で初めてホテルの敷地内に建つ公式灯台を設置した。この灯台は、今も神戸メリケンパークオリエンタルホテルの最上階に残る。

神戸メリケンパークオリエンタルホテル

・安部正夫さんが垂水区のジェームス山に住み、神戸オリエンタルホテルに勤めていた頃の様子が安部譲二さんの「秋は滲んで見えた」に書かれている。
・作家 安部譲二さん
父が1972年に開業した店

当時、香川県には、オープンキッチンで目の前でステーキを焼くスタイルは殆どなかった。

昭和、平成時代

現在

店紹介動画
インスタグラム リール
https://www.instagram.com/p/DCA6VrtsPwQ/?q=#ステーキレストランオリエンタル
🔸旧・神戸オリエンタル・ホテル歴代料理長:
明治時代、ルイ・ベギューがオーナー兼シェフを していた「オテル・デ・コロニー」の料理長に就任し、このホテルが、後に「神戸オリエンタルホテル」となり、黒沢為吉が初代料理長に就任する。
日本の西洋料理史に名高い伝説のシェフ達が歴代の料理長を務め西日本屈指の名門ホテルとしてその名を馳せた。
・旧神戸オリエンタルホテルの歴代料理長
第1代料理長:黒沢為吉
第2代:羽谷寅之助
第3代:米沢源兵衛
第4代:鈴木卯三郎
第5代:鈴本敏雄(1890~1967)『築地精養軒』の全盛期をもたらす
第6代:杉本甚之助(阪急百貨店食堂顧問、宝塚ホテル料理長など歴任、宝米ピラフの考案者)
第7代:内海藤太郎(1874~1946)『帝国ホテル』の礎を築く
第8代:木村健蔵(東洋ホテル料理長)
第9代:岡山広一(倉敷国際ホテル総料理長)
第10代:田上舜三(倉敷国際ホテル総料理長)
第12代:伊藤孝二。父は伊藤氏のもとで修行し、腕を磨いた。
第-代:石坂勇(神戸オリエンタルホテル名誉総料理長) 伊藤料理長のもと一緒に働いていた。父より1, 2年先輩だった。父は、「いっさん」と呼んでいた。
その他、兵庫県庁前で2016年11月12日まで営業していた『帝武陣』の山田美津弘さんは父の後輩にあたる。他の後輩、JR三宮駅前にあった「クックナカタ」の中田博一さんは旧オリエンタルホテルで料理長を務めた。
JR三宮駅北側の写真のビルの地下に「クックナカタ」があった。


2002年1月13日撮影。第12代総料理長 伊藤孝二氏を偲ぶ会。神戸メリケンパークオリエンタルホテルにて。
・百年の時を超えて蘇るカレーライス。神戸の旧オリエンタルホテル名誉総料理長・石坂勇がレシピを再現した「100年前のビーフカレー」
帝武陣
山田美津弘さんのお店。兵庫県庁前にあった神戸の伝統的な洋食店。父が亡くなったことを伝えに訪問した。

🔸母 戦前、実父の仕事の関係で北朝鮮の端川(たんせん)市へ渡るも敗戦で残留、命からがら引き揚げる
1910年に当時の総理大臣 伊藤博文が朝鮮半島を併合して以来、1945年まで35年間、日本が統治していた。
私の母方の祖父は香川県で瓦工場を経営していたが、商機を求めて戦前、日本の領土だった朝鮮の端川市(たんせんし)へ家族と共に渡った。
しかしながら1945年8月、日本が敗戦、1946年まで残留した家族4人は端川市から命からがら陸路を何日も歩き、たどり着いた港から船を乗り継いで北九州市の門司港近くの浜辺の沖に流れ着き木の板を渡って上陸した。
敗戦後、朝鮮や満州から帰国できない人たちも大勢おり、そのまま現地で生活せざるを得なかった残留孤児も多い。
門司港駅から高松駅に帰る際、門司港駅でスリにあいお金を盗まれたが、危篤な方がおり、お金を貸してくれて高松駅まで帰ることができた。
1946年の春ごろに実家にたどり着いた際、父の兄の奥さんが作ってくれた豆ご飯がこの上なく美味しかったようで、今でもえんどう豆の豆ご飯が大好物である。
・端川市(たんせんし)
朝鮮民主主義人民共和国,咸鏡南道北部の郡。咸鏡山脈から日本海へ流入する北大川,南大川の二つの渓谷を中心とする。北大川渓谷沿いはマグネサイトの埋蔵量世界一とされる竜陽鉱山をはじめ,銅,亜鉛の検徳鉱山など希少鉱物資源の宝庫となっており,山深く鉱山鉄道がのび,鉱山町がつらなっている。中心地端川邑は南大川河口の沖積平野に位置し,咸鏡線の中間要駅があるほか耐火煉瓦工業等が発達している。


・端川市
・ピョンヤンから車で約6時間の端川市

・北九州市の門司港駅

・豆ご飯

・【記事】北朝鮮からの引き揚げ
・【記事】満州・朝鮮半島からの"引き揚げ” 恐怖と空腹…着の身着のまま日本へ 長く壮絶な道のり
・【記事】清津・羅南から家族引揚げの記
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/hikiage/19/H_19_432_1.pdf
・【記事】引き揚げ少年の記
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/hikiage/09/H_09_346_1.pdf
・【動画】北朝鮮からの引き揚げ
🔸モリヨシナリのプロフィール
ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部留学マーケティング専攻。
職歴:
大手エレクトロニクス企業にて海外営業職に20年間従事 (北京オフィス所長)
香港、中国にて外資系商社設立に参画、副社長を経て顧問
海外滞在歴:
アメリカ: 2年
シンガポール: 2年
中国: 12年
ベルギー: 1ヵ月
現在の活動:
Bizconsul Office 代表
ビジネス英語講師、全国通訳案内士 (英語・中国語)、海外ビジネスコンサルタント
観光庁インバウンド研修認定講師
四国遍路通訳ガイド協会 会員
トリリンガル讃岐PRオフィサー
保有資格:
英語: 全国通訳案内士、英検1級、TOEIC L&R: 965点 (L満点)、TESOL (英語教授法)、国連英検A級、ビジネス英検A級
中国語: 全国通訳案内士、香川せとうち地域通訳案内士、HSK6級
ツーリズム: 総合旅行業務取扱管理者、国内旅行業務取扱管理者、国内旅程管理主任者、せとうち島旅ガイド
メディア実績:
香川県広報誌「THEかがわ」インタビュー記事掲載
瀬戸内海放送 (KSB) ニュース番組コメント
岡山放送 (OHK) ニュース番組コメント
研修/コンサルティング実績:
観光庁インバウンド研修認定講師として登壇 (香川県善通寺市役所、愛媛県西予市宿泊施設、他)
四国運輸局事業 (訪日外国人観光客向けレンタカー利用調査、アドベンチャーツーリズム他) コンサルタント
香川県主催 瀬戸内国際芸術祭オフィシャルツアー公式ガイド
香川せとうち地域通訳案内士インバウンド研修講師認定試験 面接官

以上
