【讃岐秘話】摂津守護代 長塩(永塩)家から讃岐黒羽 永峰家への変遷 : 三好長慶の下克上により細川京兆家重臣から改姓、帰農→地主・庄屋へ
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今回は、室町時代に細川京兆家に仕え摂津守護代を歴任した長塩(永塩)家から讃岐黒羽の永峰家へと繋がる変遷についてです。
三好長慶の下克上により拠点と役職を完全に失った長塩家が向かった先は先祖がかつて居住していた讃岐の東端の地でした。
・尼崎市にある大物くずれ戦跡碑と讃岐黒羽の位置関係

・大物くずれの戦跡碑
戦跡碑がある場所は兵庫県尼崎市東大物町1丁目4
阪神電車の大物駅から西へ約200mほどの場所(駅北側の公園付近)にあります。

・尼崎市大物川緑地公園の西端にある。

・1549年、三好長慶の下克上により細川晴元敗北。江口の戦いは東淀川区南江口一帯が戦場となった。

・引田町人物史 永峰家の家系図
永塩因幡守氏継 (讃岐黒羽城主、黒羽神社創建)
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長塩備前守又四郎元親 (細川政元、細川高国の重臣)
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(長塩又四郎: 細川氏綱家臣。本願寺法主 妙証の天文日記に記録あり)
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1549年、三好長慶の下克上により細川京兆家崩壊。長塩家は摂津での役職と拠点を完全に失った。
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先祖の永塩因幡守氏継が住み、縁者がいた讃岐へ移住。
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永峰宅本 (1553年-1631年、讃岐黒羽 永峰家元祖)

・日本姓氏語源辞典 (永峰姓の由来)

【時代背景】細川京兆家の崩壊と三好政権への変遷(1507年〜1558年)
両細川の乱(1507年〜)
管領・細川政元の暗殺(永正の錯乱)により、養子の高国と澄元(晴元)による家督争いが激化。
1527年: 桂川原の戦いで晴元が勝利し、高国を京都から追放。
大物崩れ(1531年)
再起を図る高国と、晴元・赤松政祐連合軍が尼崎で激突。
当初、細川高国の味方だった赤松の裏切りにより高国軍が壊滅。高国は自害し、高国系宗家が滅亡。
細川京兆家の権威が失墜し、仕えていた長塩家の地位も揺らぎ始める。
江口の戦い(1549年)
晴元の重臣・三好長慶が主君に反旗を翻し、同族の三好政長と激突。
長慶が圧勝。政長は討死し、晴元は近江へ逃亡。
細川政権が事実上終焉。長塩家は摂津の拠点を完全に失い、讃岐黒羽へ移住する決定機となる。
三好政権の確立(1550年代〜)
1552年: 長慶が将軍・足利義輝を帰京させ、京都を実質支配。
1558年: 将軍を傀儡化し、三好政権が盤石に。名門・細川家は実権を失い形骸化した。

摂津守護代 長塩家から三好長慶の下克上を経て、讃岐黒羽 永峰家への変遷
摂津守護代という武士のエリート階級から、讃岐黒羽の地で「永峰」として土着し、庄屋・地主へと変遷していった過程は、日本の戦国時代から江戸時代における「武士の生き残り戦略」の典型でありながら、鮮やかな転身の記録と言えます。
その変遷を4つの段階に分けて解説していきます。
権力の中枢期:摂津守護代としての「長塩家」
室町時代、長塩家は細川京兆家の重臣として摂津国(現在の兵庫県東部・大阪府北部)の守護代を務めました。
軍事的・政治的地位:
現在の尼崎周辺を拠点とし、細川勝元の側近として中央政界の軍事・行政を担う立場でした。
讃岐との接点:
1400年代半ば、細川勝元の命を受けた永塩因幡守氏継が、領地管理のために讃岐国黒羽へ派遣されました。
ここで黒羽城を築き、氏神として黒羽神社を勧請したことが、後の「避難先」としての布石となりました。
永塩因幡守氏継は、1467年、応仁の乱に参戦し、京都御所北側の相国寺にて安富元綱らと共に討死しました。
・歴代摂津守護代 (尼崎市公式サイト)
https://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/apedia/index.php?key=守護・守護代
長塩太郎次郎、長塩備前入道、長塩弥次郎、長塩宗永

転換期:下剋上による没落と黒羽への亡命(1549年〜)
戦国時代の荒波により、一族は大きな決断を迫られます。
拠点の喪失:
1549年、三好長慶が細川氏を圧倒(江口の戦い)すると、摂津の長塩家は拠点を失い、政治的な地位から転落します。
「本領」への回帰:
摂津を追われた一族は、100年前から永塩因幡守氏継公の系統が守っていた「一族の不入の地」である讃岐黒羽へと逃れました。これが武士から土着への第一歩です。
定着期:改姓と帰農(1553年〜1631年)
黒羽に逃れた一族は、新政権(三好氏やその後の織田・豊臣)の追及を避け、土地を維持するために実利的な道を選びます。
「永峰」への改姓:
元祖とされる永峰宅本(1553-1631)の代に、「長塩(永塩)」の名を捨て「永峰」と改姓しました。
これは旧主への忠義や過去の栄光を隠し、新しい土地の人間として生きるという意思表示でした。
帰農の断行:
武士としての身分を隠し、自ら開拓や農業経営に乗り出し、江戸時代には地主、庄屋として黒羽と周辺の土地を管理しました。
・日本姓氏語源辞典 (永峰姓の由来)

・引田町人物史にある永峰家の家系図
永塩因幡守氏継 (全讃史、三代物語、引田町史などに記述がある。細川勝元の家臣)
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長塩備前守又四郎元親 (細川政元、細川高国の重臣、国宝東寺百合文書に記録がある)
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(長塩又四郎: 細川氏綱の家臣、本願寺法主の妙証の天文日記に記録がある)
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1549年、三好長慶による下克上により細川京兆家崩壊、長塩家も拠点・役職を失った。
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讃岐黒羽への移住
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永峰宅本 (1553年-1631年、讃岐黒羽の永峰家元祖)
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1583年、引田の戦いで長宗我部元親軍により永峰家菩提寺 海蔵院東海寺焼失
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1585年、豊臣秀吉の四国統一


・永峰杢左衛門家が家系図

・永峰杢左衛門家について

確立期:庄屋・地主としての世襲(江戸時代以降)
平和な江戸時代に入ると、一族は地域の絶対的な指導者として公認されるようになります。
庄屋への就任:
1583年の引田の戦い(東海寺焼失)などの動乱を乗り越え、地域をまとめ上げた実績から、藩(生駒藩、のちの高松藩)より「庄屋」として認められました。
地主としての成長:
開発した田畑を所有する大地主となり、経済的基盤を固めます。彼らは単なる農民ではなく、名字帯刀を許された地域の行政・祭祀(黒羽神社の維持)・教育を司る「豪農・有力者」としての地位を不動のものにしました。
変遷のまとめ
時代
呼称
役割・地位
主な出来事
室町期
長塩(永塩)家
摂津守護代(武家エリート)
細川京兆家の重臣、黒羽拠点の形成
戦国期
長塩(永塩)家
没落武士(亡命者)
三好長慶による下剋上、黒羽への逃避
安土桃山期
永峰家
帰農・開拓領主
「永峰」へ改姓、宅本による地域経営
江戸期
永峰家
庄屋・地主
高松藩下での村政担当、黒羽神社の護持
長塩家から永峰家への変遷は、「中央の権力争いに敗れたエリートが、地方に持っていた確固たる拠点を再活用し、実務能力(土木・経営)を持って地域の名士へと再生した」という、極めて合理的かつ力強い一族のサバイバルストーリーです。
現在も黒羽の地に残る墓碑や神社は、その長い転身の歴史を証明する貴重な遺産と言えます。
・讃岐黒羽にある観音堂への石段

観音堂

永塩因幡守氏継が観音堂に奉納した観音像

・1467年8月に永塩因幡守氏継が創建した黒羽神社。1467年に応仁の乱で討死した。


・全讃史、三代物語

・全讃史

・三代物語

・引田町史

・引田町史

・引田町史

・讃岐黒羽永峰家の元祖 永峰宅本の墓石 (引田町人物史)

・摂津守護代長塩家の末裔 永峰チヨ

・摂津国

・細川勝元の領地、丹波国、摂津国、阿波国、讃岐国

・永峰チヨの娘の神戸新聞のインタビュー記事

【讃岐秘話】摂津守護代・長塩(永塩)家の主要人物一覧(活動時期、主君、根拠資料): 細川京兆家の重臣
長塩太郎次郎
長塩備前入道
永塩因幡守氏継
長塩弥次郎
長塩宗永
長塩備前守又四郎元親
長塩又四郎
歴代摂津守護代

