『 I'm home ! / 真相 』第4話・扉、開く
「あいだ」
俺は、自分でそう呟いて、驚いた。
そうだ! アイツ、今すれ違ったあの男は、恋子の浮気相手、相田、じゃないか?!
三階から一階に下りるまでの短い時間に、エレベーターの箱の中で俺は、突然生々しい色合いで戻ってきたあの日の記憶と、頭痛、耳鳴りと目眩の嵐に襲われ、右に左にとよろめきながら壁にぶつかり、床に尻餅をつくように崩れ落ちた。
一階に着いたエレベーターから何とか這い出た俺は、壁にすがりながら立ち上がり、通路をふらふらと壁伝いに歩いたが、我慢出来ずに、敷地の外の自転車置き場に、胃の中身を全部ぶちまけた。地面に撒かれた砂利の間に、苦い胃液と小さくなった吐瀉物が、すえた匂いと一緒に広がった。
「うおっ、おおっ、うっ、うっ……」
出し切った後、暫くじっと蹲っていると、少しずつ自分の身体を取り戻すかのように、吐き気と頭痛、耳鳴りが遠退いていって、胃が、あるべきところへ戻ったみたいに楽になった。
「こ、これは……?! 紅茶だな?!」
微かに口の中に残る生温いハーブの酸味と癖のある匂いを舌で確かめて、俺は呟いていた。
『ハッ!』として顔を上げた瞬間、三階の手摺り壁から、身を乗り出して様子を窺っていた恋子と相田の二人と目が合って、俺は腰を抜かすほど驚いた。
二人が慌てて身を隠した後、ガチャン、とドアの閉まる音がした。
「あ、あいつら……ま、また俺を殺そうとしたのか?!」
あの日、俺に浮気がバレて部屋を飛び出した恋子。そしてその後を追った俺に襲ってきた地獄のような出来事が、又一気に蘇ってきて俺を飲み込みそうになった。
あの夜、俺はこの自転車置き場を駆け抜けて、右に曲がり、車の通りに出たところで、道を渡って走って行く恋子の背中に叫んだんだ。
「待て! 逃げるな恋子! ちゃんと話しを聞かせろ!」
何台も何台も途切れる事なく車がやって来て、恋子の味方をしていた。
通りの向こう側でこちらに向き直り、大きく肩を上下して、上がった息を整えていた恋子の険しい顔が、少し緩んで、ふっと笑ったように見えた時、俺は一瞬、やっと恋子が落ち着いて話す気になったんだと思った。だが、次の瞬間、それは間違いだと気づいた。
不意に誰かに背中を叩かれ、人の掌の感触が痛みと共に広がった途端に、俺の身体はゆらりと大きく揺れて、向きを変え、スローモーションで後向きに倒れていった。
「え?」
ゆっくりと落ちていく視界の中で、俺の目に最後に映ったのは、車のライトに照らし出された、シャープな顎のイケメン、相田の白い顔だった。
「ぷわぁーーん!」
突然、大きなクラクションの音と共に、飛び交う車のエンジン音が戻って来た瞬間、俺は背中に激しい痛みを感じて気を失った。
その記憶は、たった今起こった事のように、生々しい色を持って戻ってきた。その途端、俺の身体は、冗談か、と思う程激しく震え出し、恐怖が極限に達した時、人はどうなるかを教えているかのようだった。
二年も記憶を失くしていたのは、きっと自己防衛だったんだ。俺は自分の身体を抱きしめて、暫くそこに蹲っていたが、震えが収まり始めると、さっき、三階から俺を見下ろしていた二人の顔が急に浮かんできて、今度は激しい怒りが突き上げてきた。
「アイツラァ!!」
蹲み込んでいた俺は、足元にあった砂利を、手が真っ白になる程握りしめて立ち上がり、低く叫んだ。
「ぶっ殺してやる!」
怒りに囚われていた俺はエレベーターを選ばず、階段を一気に三階まで駆け上った。
俺はもう、どうにかなってしまいそうだった。
「あいだぁ! れんこぉ!」
相田と恋子の部屋に着くと、俺はドアノブを壊れる程ガチャガチャと回し、鍵のかかったドアを拳でガンガン叩いたが、二人は出て来なかった。
その時、両隣りの住人が、驚いてドアを開けて出てきたが、二軒共すぐに引っ込み、一軒は鍵をかける音が聞こえ、もう一軒は薄くドアを開けたまま様子を窺っているのが分かった。
『怖がられている?!』そう思った瞬間、突然冷静な俺が戻ってきた。
〝いけない! 止まるんだ!〟
後から考えると、正気を失わずにブレーキをかけた自分の魂に、俺は心から感謝している。
俺は手を止めて、その声に耳を澄ました。
〝このまま二人を殴り殺そうものなら、俺は殺されかけただけじゃなくて、自分の人生まで殺されてしまうことになる!〟
「くそーっ!!」
込み上げた悔しさは最後に、俺の拳にドアを一発殴らせた。
薄く開いていた隣のドアが急いで閉まり、慌てて鍵をかけようとして、ガチャガチャやっている音が聞こえた。隣人は、気が動転しているのだろう、鍵がなかなか閉まらずに焦っている。
ドア越しにそれが分かって、俺は急に可笑しくなって、フッと力が抜けた。
「くっ、くっ、くくっ……」
俺はドアを叩いていた拳に額をくっつけて凭れ、少し笑った。
「バカばかしい……」
俺はドアから身体を離すと、吐き捨てるように怒鳴った。
「勝手にやってろ!」
エレベーターに向かって歩き出した俺は、鍵をかけそびれてドアの裏で聞き耳を立てている隣人に声をかけた。
「お騒がせしましタァ!」
ドアの向こうで、『ひぃっ!』と小さく叫ぶ声が聞こえた。
「いい人だ」
笑って呟いて、俺は二人の部屋を離れた。
駅までの道、俺はふと、足があるのを確かめるように踏み締めながら歩いている自分に気づいて、苦笑した。
なんて日だ?! 逸る気持ちを抑えきれず、朝一の新幹線に飛び乗り、恋子との再会を喜び合おうとやって来た東京での一日は、陽が西に傾き、もうすぐ終ろうとしていた。
夕陽は、俺を慰めるように背中を温めていたが、足元に長く伸びた俺の影は、軽蔑の色を隠さずに聞いてきた。
〝恋子と相田をこのまま赦すのか?〟
俺はそれにわざと笑いながら答えた。
「まさか! ズタズタにしてぶっ殺してやる」
〝ほう!〟
影が、ウキウキしているのが分かった。
「おっと! その手にゃ乗らないぞ。知ってるだろ? 俺はバカじゃない。自分の手が後に回るような事は絶対にしない! 違うやり方で息の根を止めてやる!」
そう言うと影が聞いた。
〝どうやって?〟
「決まってるだろうが! 俺を誰だと思ってるんだ? 小説家だぞ? 本の中でズタズタに殺ってやる。何回もナンカイモナ!!」
影というのは、時々最高に意地悪なものだが、この時もそうだった。
〝お前にやれるのか? 恋子はお前より上手だぞ?〟
その言葉に俺は、今朝の一連の恋子の作り話と芝居を思い出して、ムラムラしてきた。
「アイツ、幻覚剤入りのハーブティーまで飲ませやがった! なんて奴だ!」
〝やられたな!〟
影がフッ、と嗤った。
「あぁ、忘れてたよ。次野恋子、アイツも作家志望だったのを! しかも俺よりも腕のいいな」
影の上に、大きな賞の最終選考まで残った実績のある恋子の、えくぼを作った傲慢な笑顔が浮かんで、益々俺をムラムラさせた。
「くっそーっ!!」
俺は利き足の右足を大きく振り上げ、勢いをつけると、思い切り自分の影を踏み付けて言った。
「だがソレも、さっきまでの話しだァ!」
影が驚いて大人しくなった。
「殺されかけて、一度死んだんだ! 踏み付けられた儘でくたばってたまるか! 転んでもただでは起きない!」
俺はもう一度影の上に大きく足を振り下ろすと、靴の底で息の根を止めるようにグニグニと踏み潰して言った。
「タイトルももう決めてあるんだ。せいぜい楽しませてもらうさ!!」
振り向くと、もう陽は街並みの向こうに殆ど沈んでいて、相田の表札を掲げたあの部屋も、夕闇に飲み込まれていた。
「そうだ、そうだ! 消えちまえ!」
俺は笑いながら、また駅のほうに向き直った。見ると、影もまた、闇の中に消えていた。
駅に着くと、俺は待合室のベンチに座り込んで、上着のポケットに突っ込んであった携帯を取り出し、大船渡の相馬爽香の番号をタップした。
呼び出し音が鳴りだすと、俺は自分が何処かに繋がっている、と感じられて、思わず涙ぐんだ。
「あ、綴さん? ちゃんと辿り着けた?」
まだ二十歳そこそこの爽香の、鈴の音のような澄んだ声が、俺を美しい世界に引き戻した。
「あぁ、さやちゃん! 連絡出来ずにごめん! 大丈夫だよ」
「よかったぁ!」
えくぼの可愛い爽香の笑顔が目に浮かんだ。
「綴さん、記憶取り戻したばかりだし、すぐに迷子になっちゃう人だから、実はお父さんと心配してたのよ」
「大丈夫だよ、住んでた所だし、〝初めてのおつかい〟じゃないんだから!」
「やだ! ホントね!」
俺の言葉に、爽香はクスクスと笑った。
爽香とのやり取りは、軽口が叩けるくらい俺をほっとさせ、元気にした。
「それで、用事は片付きそう? 暫くかかるかも、って言ってたけど」
俺は被せ気味に言った。
「いや! もう終わらせた。今夜中には帰るよ!」
「ホント?! ヤッタ!」
電話の向こうで、爽香がいつも嬉しい時にやるように、小さなガッツポーズを作っているのが分かった。 嬉しかった。
つい先ほど、自分の息の根を止めようとしていた恋子の顔が過ぎって、俺は思わず呟いていた。
「同じ女だとは思えん」
「え? 何? 綴さん」
「あ、いや、同(おんな)じ日だとは思えない、って言ったんだ。なんだか、目紛しい一日だったから」
「そうなんだ。流石東京ね。こっちより時間の流れ方が早いのね?」
爽香の子どものような言いように、俺は思わず笑みが零れた。
「バカだなぁ、一緒だよ。あ……いや、案外その通りかもしれない。なんだか俺、一気に年取ったような気分だもん」
「なら早く、おじいさんにならないうちに帰っておいで、浦島さん!」
爽香がまたクスクス笑った。
「うん。そうする。ありがとう、さやちゃん、居てくれて」
俺は電話を切ると、宝物を仕舞うように携帯をポケットに入れ、大船渡までの切符を買うために立ち上がった。
第4話・終わり
