祖母の記憶
4時半起床 6時朝ライド40分162w
本編
私の実家は、
山の中腹にある。
夜になると、
何も見えない。
真っ黒だった。
私が4歳か5歳の頃だ。
玄関に立っていた。
一つ下の妹も隣にいた。
家の中は、
少し暗い。
テレビは消えていた。
大人たちが、
せかせかと動いている。
誰かが電話をしていた。
玄関は開いたまま。
私は、
何を待っているのか知らない。
ただ、
待っていた。
外は静かだった。
山も静かだった。
音はしない。
遠くで、
赤い光だけが瞬いていた。
ゆっくり。
ゆっくり。
こちらへ近づいてくる。
私は嬉しくなった。
図鑑で見たことがある。
救急車だ。
妹の手を引いた。
サンダルを履く。
外へ飛び出した。
誰も止めない。
止められなかったのだと思う。
救急車は、
家の前まで上がってきた。
玄関から、
5メートルくらい。
サイレンは鳴っていない。
赤い光だけが、
静かな山を照らしていた。
白い車体。
私は近づいた。
手で触った。
その時だった。
後ろの扉が開く。
中は明るかった。
見たことのない器材が、
ぎっしり積まれている。
人が降りてきた。
担架を持っていた。
近所の人たちが、
少しずつ集まってきた。
私は、
少し離れたところから眺めていた。
私の記憶は、
そこまでだ。
30年ほど経ってからだった。
母が、
何の前触れもなく、
あの夜の話を始めた。
「あの日、おじさんが首を吊ったんよ。」
父は3人兄弟だった。
姉。
父。
そして、一番下の弟。
25か26だった。
遺書は、
なかった。
職場で、
ひどいことがあったらしい。
眠れなくなっていた。
それでも、
仕事へ行っていた。
家族は、
励ました。
「頑張れ。」
母は、
そこで言葉を止めた。
少し俯く。
声が震えた。
「あの時、
休ませればよかった。」
母は泣いた。
私は、
母が泣くところを、
初めて見た。
私は、
きょとんとしていた。
何を返せばいいのか、
分からなかった。
ただ、
受け取った。
少し落ち着いてから、
母は静かに言った。
「あれから、
おばあちゃんは変わった。」
家は建て替えられた。
保険金だったと聞いた。
新しい家になった。
それでも、
間取りはほとんど変わらなかった。
叔父が首を吊った部屋と、
同じ場所に仏壇が置かれた。
叔父。
祖父。
祖母。
今は、
母がその部屋で暮らしている。
毎朝5時半。
祖母は起きる。
一番最初に向かうのは、
仏壇だった。
線香に火をつける。
煙が細く立ちのぼる。
線香の匂いが、
少しずつ濃くなる。
手を合わせる。
かーん。
鐘が一つ鳴る。
私は、
その音で目を覚ますことがあった。
毎朝だった。
何十年も。
鐘が鳴り終わると、
祖母は台所へ向かう。
換気扇を回す。
マイルドセブンに火をつける。
缶の灰皿に灰を落とす。
煙草の煙が、
ゆっくり台所に広がっていく。
味噌汁は、
いつも薄味だった。
それが、
私の知っている朝だった。
私は祖母に育てられた、
ことになっている。
母は夜まで働いていた。
父は3交代だった。
学校から帰ると、
祖母がいた。
私の顔を見るなり、
「普通にしろ。」
そう言った。
しばらくすると、
「世間体。」
「恥ずかしい。」
髪型。
勉強。
挨拶。
学校。
近所付き合い。
何をしていても、
最後はそこへ戻った。
また始まった。
私は、
そう思っていた。
理由は分からない。
ただ、
窮屈だった。
反発した。
祖母の手は、
ごつごつしていた。
働き続けた人の手だった。
背中は少し曲がり、
歩くのもゆっくりだった。
声だけは、
家中に響くほど大きかった。
笑うこともあった。
どこか、
愛想笑いだった。
運動会には、
来てくれた。
「お前は、
この家の人間だから。」
祖母は、
何度もそう言った。
私は、
話半分に聞いていた。
45歳になって、
少しだけ違う景色が見える。
あの頃は、
「また始まった。」
としか思っていなかった。
今は思う。
祖母は、
何を怖がっていたのだろう。
息子を失ったこと。
戦争を生き抜いたこと。
その両方だったのかもしれない。
分からない。
ただ、
二度と、
同じことを繰り返したくなかった。
そう思っていたのではないか。
だから私は、
「普通にしろ。」
という言葉を、
何度も聞いて育ったのかもしれない。
