noteという新しい身分制 ― 学歴も職歴も関係ない世界に、なぜ格差が生まれるのか
先月、いつものように記事のアクセス数を眺めていて、ふと気づいた。ここ数ヶ月、閲覧数がじわじわと下がっている。
最初は「テーマが飽きられたのかな」くらいに思っていた。だが数字を並べて見比べてみると、下がっているのは決まって「〇〇論」「〇〇社会」といった抽象度の高いタイトルの記事で、逆に伸びているのは「私が丸の内で感じたこと」のような、一人称の体験を前面に出した記事だった。
学歴社会を降りたつもりで飛び込んだnoteの世界にも、また別のヒエラルキーがあった。そのことに気づいたとき、私は少し複雑な気持ちになった。
データが示す格差の実態
気になって、少し数字を調べてみることにした。すると、想像していた以上にはっきりとした格差の構造が見えてきた。
まず、noteの登録会員数は1178万人にのぼるという。だが、実際に何かを投稿しているアクティブな書き手は、推定30万人から50万人程度にとどまるらしい。
つまり、登録はしたものの筆を執らない人が大半だということだ。そこからさらに、有料記事を一度でも出したことがある人となると、全体の3割程度に絞られるという調査もある。「書く」段階で、すでに大きなふるいにかけられているわけだ。
では、その3割の中で、実際に「稼げている」と言える人はどれくらいいるのか。ここでの偏りは、想像以上に極端だった。年間の売上上位1000人の平均売上は、約1500万円に達するという。
本業として十分に成立する水準である。その一方で、個人の運用報告を読んでいると、「毎月ひとつ売れたら御の字」という声が、決して珍しくない。この両極端の間に、大多数の書き手がひしめいている。
フォロワー数を見ても、同じ構図が浮かび上がる。中央値はわずか61人。平均でも104人程度にすぎない。ところが上位1%は、3000人以上のフォロワーを抱えているという。中央値と平均のこの乖離こそが、ごく一部の書き手が数字全体を押し上げていることの、何よりの証拠だろう。
さらに厳しいのは、たとえ売れたとしても、手元に残る金額は思いのほか少ないという現実だ。500円の記事が一本売れても、決済手数料と振込手数料を差し引くと、手取りはおよそ167円。利益率にして33.5%ほどにしかならない。数が売れなければ、労力に見合わないのである。
格差の上に、さらに薄い利幅がのしかかる。会社員時代に見てきた「頑張っても報われる人と報われない人がいる」という景色と、驚くほど似た構造が、ここにもあった。
「note資本」という第三の資本
この構図をどう理解すればいいのか。しばらく考えて、社会学者ピエール・ブルデューの「資本」の概念が頭に浮かんだ。ブルデューは、人が社会で優位に立つための力を、お金だけでなく、教育や教養といった「文化資本」、人脈という「社会関係資本」に分けて説明した。
学歴分断社会という言葉で語られてきたのも、結局はこの文化資本の差が、就職や結婚といった人生の局面で再生産されていく構造だった。
だが、noteという場所を眺めていると、そこで物を言っているのは、従来型の文化資本とは少し違うものだと気づく。高学歴であることも、有名企業に勤めた経歴も、ここではほとんど武器にならない。
むしろ効いてくるのは、どれだけ自分の失敗や弱さをさらけ出せるか、そして、それを何ヶ月、何年と書き続けられるかという、いわば「継続する胆力」と「自己開示の度胸」である。
仮にこれを「note資本」と呼ぶとすれば、それは経済資本でも、これまでの文化資本でもない、第三の資本だと言える。学歴社会では、生まれ育った家庭環境や、受けてきた教育の質が、そのままものを言った。
だがnoteの世界では、経歴の立派さよりも、「みっともない自分」をどれだけ言語化できるかが問われる。ある意味で、これまでの資本の序列を逆転させるような場所なのだ。
ただし、ここで注意しなければならないのは、この「note資本」もまた、決して平等に分配されているわけではないという点だ。
自己開示には、ある種の心理的な体力がいる。書き続けるには、時間と生活の余裕がいる。そして何より、最初の読者をどう獲得するかという初速の部分では、結局のところSNSでの発信力や、既存の知名度がものを言う場面も少なくない。
つまりnoteは、旧来の学歴という身分制から人々を解放したように見えて、実際には「継続力」と「自己開示力」という、新しい、しかし依然として不均等に配られた資本によって、また別の身分制を作り出している。それが、私がこの数字を追いながら感じた、率直な実感だった。
マタイ効果 ― 初速がすべてを決める
なぜ、こうした偏りは一度生まれると、なかなか縮まらないのか。ここで手がかりになるのが、社会学でしばしば語られる「マタイ効果」という考え方である。聖書のマタイによる福音書にある「持てる者はさらに与えられ、持たざる者は持っているものまで取り上げられる」という一節から取られた言葉で、最初にわずかでも優位に立った者が、その優位を雪だるま式に拡大させていく現象を指す。
noteの構造は、まさにこれを地で行く。ある記事がたまたま多く読まれ、スキがつき、フォロワーが少し増えたとする。すると次に投稿する記事は、その時点でのフォロワーに向けて配信されるぶん、初速のビュー数がわずかに上乗せされる。
初速が良ければ、note内のレコメンドやランキングにも乗りやすくなり、さらに新しい読者の目に触れる。この繰り返しによって、最初のわずかな差が、数ヶ月後には数十倍、数百倍の差になっていく。
会社員の世界にも、これと似た構図がある。入社直後にたまたま良い上司につき、目立つ案件を任された人は、そこでの実績が評価され、次のより大きな案件を任されやすくなる。
逆に、最初に地味な部署に配属された人は、実力があっても、そもそも評価される機会自体が少ない。努力の総量ではなく、「いつ、どこで、誰の目に触れたか」という初速の運が、その後のキャリアの傾きを決めてしまうことが少なくない。
noteの場合、この「初速」を左右する要因は、大きく分けて二つある。一つは、投稿を始める前からすでに持っていたSNS上の発信力や知名度。もう一つは、最初の数本の記事で、どれだけ的確に「型」を掴めたかということだ。
先に見たデータでも、育児カテゴリのメンバーシップでは、売上上位10人のうち7人が参入1年以内の新規クリエイターだったという例があった。これは、たとえ後発であっても、型を早い段階で掴めれば、初速の差を挽回できる余地があることを示している。
つまり、この格差構造は、完全に固定された身分制ではない。会社という組織のように、一度配属された部署や評価がその後何年もついて回る世界とは違い、noteでは「今日の一本」が新しい初速を生み出すきっかけになり得る。
そこにこそ、この場所が旧来の学歴社会と決定的に異なる点があるように思う。
それでも、通れる隙間を探す
こうして振り返ってみると、私は都合の良い幻想を語るつもりはない。学歴フィルターは、昭和の昔から今に至るまで、姿を変えながらも厳然と存在し続けている。大学名を書き換えるだけで、面接の依頼が来るか来ないかが決まる。それが、この社会の一つの現実だということを、私は身をもって知っている。
私が通っていた大学の講義は、就職の話になると、決まってお葬式のように暗くなった。教授は、壇上で「大企業を目指しなさい」と繰り返す。だが教室を見渡せば、学生たちの表情は一様に沈んでいた。誰もが、自分たちの大学名で、その教授の言う「大企業」に手が届かないことを、うすうす分かっていたからだ。
励ましのつもりなのか、それとも建前としての指導なのか。教授の言葉と、学生たちの諦めの表情との落差が、あの教室の空気を、いつも重くしていた。誰も口には出さない。だが、みな同じことを感じていた。「うちの大学からじゃ、無理だろう」と。
フィルターの存在を知らなかったのではない。知っていたからこそ、そこで無駄な力を使うことをやめ、通れる場所を探した。だが、フィルターが及ぶ範囲は、私が思っていたよりもずっと広かった。
ある時、予備校の清掃や片付けをするアルバイトに応募しようとしたことがある。就職ですらない、時給で働く単純作業の仕事だった。ところが、応募の段階で、まともに受け付けてすらもらえなかった。担当者は、私にこう言い放った。「その大学はダメなんですよ」と。
大企業の採用でフィルターがかかるのは、まだ理解できる範囲の話だった。だが、清掃のアルバイトにまで大学名で線を引かれるとは、思ってもみなかった。学歴という物差しは、キャリアの入り口だけでなく、社会のあらゆる階層の、あらゆる場面に、静かに、しかし確実に浸透しているのだと、あの一言で思い知らされた。
丸の内で仕事をしていた時期も、三菱グループをはじめとする多くの企業が、東大や慶應の出身者で占められている光景を、幾度となく目にしてきた。それは今も、大きくは変わっていないだろう。
そしてこれは、他人から聞いた話だけではない。私自身にも、同じことが起きた。
転職活動をしていた時期、試しに、経歴書に記載する出身大学の書き方を変えて応募したことがある。実際に卒業した大学名をそのまま書いたときは、これといった反応はなく、不採用の通知が静かに届くだけだった。ところが、慶應義塾大学卒と記載して同じ経歴書を送ったところ、面接の依頼や問い合わせの電話が、いくつも来た。
職務経歴も、経営に携わった実績も、何ひとつ変えていない。変えたのは、大学名の一行だけだった。それだけで、企業側の反応がここまで変わるということは、少なくともその選考の初期段階においては、経歴そのものよりも、大学名という一枚のラベルの方が重く扱われていた、ということなのだろう。
経営歴も職務経歴も、学歴という最初のフィルターを通過して初めて、読んでもらえるものになる。そのことを、身をもって知った出来事だった。
ただ、そのうえで言えることがあるとすれば、フィルターを通過することと、通過した後に何を残せるかは、別の話だということだ。
大学名という一行で弾かれる場面が確かにある一方で、いったんその関門を越えられた場では、そこから先の実務や成果によって、初期の差を埋め、時には追い抜くこともできた。
それは、フィルターそのものをなくす話ではない。フィルターの存在を前提にしながら、その外側や、通過した後の勝負でどう振る舞うかという、限られた余地の中での話にすぎない。
noteという場所で見た「別の資本」による格差も、根っこは同じなのかもしれない。学歴という関門を、発信力や継続力という関門に置き換えただけで、結局は何らかのフィルターが、常にどこかに存在し続ける。それが、この社会の仕組みなのだろう。
それでも私は、そのフィルターの存在を嘆くことに、あまり時間を使いたくない。フィルターがあることを認めた上で、それでも通れる隙間を探し、通った先で結果を残す。そうやって生きてきたし、これからもそうするしかないのだと思っている。
