顧客になる(「客」小説を求めて・05)
「「観客」小説(「客」小説を求めて・04)」の続きです。
前回は、ひたすら見る人(観る人)という意味での観客(乗客でもあります)だった島村が、「宿の客引きの番頭」と言葉を交わして、つまり人との没交渉から交渉へと移行したところで、島村は宿泊客になるという話をしました。
図式化すると、以下のようになります。
乗客・観客 ⇒ 宿泊客(長期宿泊客)
一方的かつ一方向的に見る人・観る人・観客 ⇒ 宿泊客
没交渉・傍観(ひたすら観るだけの世界) ⇒ 交渉・参加・人とかかわる(人と人とのドラマ・物語)
このようにして、『雪国』の冒頭では、新たな形で人と人とのドラマと物語が始動すると言えそうです。
今回は、島村という人物が顧客になる場面を中心に見てみましょう。
「客」の語義
最初に、「客」という言葉を整理してみます。私のつかっている辞書では、「客」の語義は以下のように書かれています。
*「きゃく・客」
・訪問してくる人、まろうど。
・旅人。家から離れ、旅館などにとまる人。
・自己や主たるものと別にあって対立するもの。←→主。
・商売で、料金を払う側の人。
(以上、広辞苑より)
*「きゃく・客」
・霊(たま)祭などの、祭の場に来る死霊・霊魂。
(以上、日本国語大辞典より)
以上の語義から私が感じるのは、以下の言葉とイメージです。
・かりる・借りる
・かり・仮、かりそめ
・うつる、うつろう
顧客になる
今回取りあげる「顧客」は、上の語義では「商売で、料金を払う側の人」に当たります。
宿屋の客引きの番頭は火事場の消防のようにものものしい雪装束だった。耳をつつみ、ゴムの長靴をはいていた。待合室の窓から線路の方を眺めて立っている女も、青いマントを着て、その頭巾をかぶっていた。
(……)
「お師匠さんのとこの娘はまだいるかい。」
「へえ、おりますおります。駅におりましたが、ご覧になりませんでしたか、濃い青のマントを着て。」
「あれがそうだったの? ――後で呼べるだろう。」
「今夜ですか。」
「今夜だ。」
「今の終列車でお師匠さんの息子が帰るとか言って、迎えに出ていましたよ。」
夕景色の鏡のなかで葉子にいたわれていた病人は、島村が会いに来た女の家の息子だったのだ。
(……)
指で覚えている女と眼にともし火をつけていた女との間に、なにがあるのかなにが起こるのか、島村はなぜかそれが心のどこかで見えるような気持もする。
(……)
スキイの季節前の温泉街は最も客の少い時で、島村が内湯から上って来ると、もう寝静まっていた。古びた廊下は彼の踏む度にガラス戸を微かに鳴らした。その長いはずれの帳場の曲り角に、裾を冷え冷えと黒光りの板の上へ拡げて、女が高く立っていた。
とうとう芸者に出たのであろうかと、その裾を見てはっとしたけれども、
(……)
(川端康成『雪国』(新潮文庫)pp.13-15・丸括弧とリーダーによる省略は引用者による)
引用文から、島村が汽車の中で出会った娘(葉子)が、島村の会いに来た女(駒子)の家にいる芸者のいわば見習いであることと、駒子がついに芸者になったらしいことが分かります。
島村が駒子を駅で見掛けても気がつかなかったにもかかわらず、自分の「指で覚えている」(p.15)という、意味深と言えば意味深、うかつと言えばうかつ、身勝手と言えばまことに身勝手、エロチックと言えばエロチック、猥褻と言えば猥褻な書き方で表現されています。
引用文の後では、それが露骨な会話として出てきてもいるのですが、私はこれ以上立ち入る気にはなれないので、興味のある方は原文をお読み願います。
*
細かいことですが、引用文にある「宿屋の客引きの番頭」に「客」という文字がこの「客」小説(私の勝手につくった言葉です)で初めて登場し、「スキイの季節前の温泉街は最も客の少い時で」に、「客」という語が単独で初めてつかわれています。もし見落としていれば、ごめんなさい。
なお、「とうとう芸者に出たのであろうかと、その裾を見てはっとしたけれども」という箇所の意味については、文脈から分かりそうなものですが、無知な私が調べたことを不正確に書くよりも、「裾引き」という言葉で検索していただくのがよろしいだろうと思います。
以下はその一例です。裾引きの歴史が簡潔に分かりやすく記述されています。「株式会社ODORI Company.」さまにお礼申しあげます。
*
とにもかくにも、この引用文が、島村の客としての移り変わり目を示しています。
乗客・観客 ⇒ 宿泊客・顧客
客という存在が、人のかりそめの状態であり、うつろいやすい属性であることがわかります。
かり、かりる、うつろう
客という状態や立場は、仮のもので借りものなのです。宿借りとか仮の宿のイメージです。また一人の人が同時に複数の客である場合も多々あります。
島村は宿に泊まる客(長期宿泊客)であると同時に「家」にいて芸者となった駒子の客(顧客・おとくい客)になるわけです。雪国に滞在中に乗客になったり、別の意味での顧客や、訪問客や観光客や観客にもなります。
島村に限りません。私もそうですし、みなさんもそうであるはずです。
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ところで、客となるには金銭が介在する場合が多いです。
顧客はもちろん、乗客、観光客、観客、場合によっては来客や訪問客になるためにお金を払わなければなりません。
金は天下の回りもの。この言い回しを辞書で調べると、「金銭は一人の所にとどまってはいない」(広辞苑)とありますが、これはまさに、上で述べた客という言葉のイメージと重なるかのようです。
・かりる・借りる
・かり・仮、かりそめ
・うつる、うつろう
人生という旅の過客である人間が、生きているあいだには多種多様な客としてうつり、うつろいます。
その過程で、あちこちで宿を借り、仮の宿を転々としますが、その旅にはたいてい金銭が必要です。
「客」としてのお金
お金も「客」ではないでしょうか。広い意味での客です。
お金、貨幣、紙幣・お札、硬貨
訪ね歩く、旅をする
とまる・止まる、停まる、泊まる、とどまる・留まる
再び、訪ね歩く、旅をする
一時的に(かりそめに)場をかりる、うつろう
客とお金が重なって見えるかのようです。
「客」としての言葉と文字
私はお金だけでなく、言葉(音声)と文字も、そうではないか――転々として移ろう存在ではないか――と考えないではいられません。
言葉・言の葉・辞・詞・単語、言語・方言
文字、文書、文章
一時的に(かりそめに)場をかりる、うつろう
この場合には、人から人へと転々とするのです。
貨幣・言語、流通・交換
そもそも言葉も文字も、事物やそのありように当てられるものです。レッテルやラベルだとも言えます。
要するに、ふだ・札です。事物に貼る札。
一方、お金とか貨幣は、物や事や人やサービスに貼られる値段や価値です。値札というかたちで表示されます。
まさに、ふだ・札です。物や人やサービスに貼る札。
*
ふだ・札とは、事物や人やサービスの代わりなのです。そのものではなく、そのものの代わり、つまり代理です。
そのものの代理としてある札は、何のためにあるのでしょう?
そのものが、かさばったり、移動させるのが困難なので、小さくてぺらぺらした札で代用するためにほかなりません。
*
置き換えられるもの、つまり事物と交換可能だという意味です。
かえる、変える、代える、換える、替える
かわる、変わる、代わる、換わる、替わる
交換のほかに、言葉や文字では変換、金銭では変動、換金、両替、為替、兌換、代金、足代、車代という言葉が浮びます。
代わりに転々と移ってくれるもの、つまり流通するものでもあります。
交換と流通の対象になるのです。そのものに代わって、です。この代りという点が決定的に重要です。
その意味では、影に似ています。そのものに付き添う影のことです。このように、貨幣と言語の類似にまつわる話には事欠きません。
主体、客体
どうやら、話が広がりすぎたようです。
上で見た「客」の辞書的な語義をもう一度確認しましょう。
*「きゃく・客」
・訪問してくる人、まろうど。
・旅人。家から離れ、旅館などにとまる人。
・自己や主たるものと別にあって対立するもの。←→主。
・商売で、料金を払う側の人。
(以上、広辞苑より)
次回は、そのうちの「自己や主たるものと別にあって対立するもの。←→主」についてお話しします。
これまで、この連載では取りあげなかった「客」の話です。「主体」と「客体」という言葉をつかっての話になります。
話が広がりそうですが、そうでもありません。
うつろう、かり(そめ)、かわる、かわり――という点では、今回お話しした「客」と共通します。
鏡と化した汽車の窓ガラスに映る葉子と男の様子を、島村が盗み見する場面、そして今回はあえて立ち入らなかった「指」の出てくるエロチックな描写にも触れるつもりです。
テーマが主体と「客」体ですから、鏡(ガラス窓)が重要な役割を演じ、ひと味違った「客」の話になりますが、それも「客」なのです。
客は常にうつろうもの。どの客も仮の姿なのでしょう。
