「観客」小説(「客」小説を求めて・04)
「運ばれていく人(「客」小説を求めて・03)」の続きです。
「観客」小説
川端康成の『雪国』の冒頭にあるシーンです。
向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん。」
明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。
「駅長さん、私です、ご機嫌よろしゅうございます。」
「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」
「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ。」
(川端康成『雪国』(新潮文庫)p.5・以下同じ)
引用文は、娘(葉子)と駅長の会話が始まる場面です。私はこの会話の部分に「観る客」を強く感じます。
「島村は外を眺めると、」があるからでは必ずしもありません。葉子と島村とのあいだにまったく交渉がないからです。
娘がいきなり向かい側の席から島村のいる席のガラス窓の前にやって来るのです。「失礼します」とか「ごめんなさい」と声を掛けるのが普通ではないでしょうか。
それがいきなりやって来て無言で「島村の前のガラス窓を落とした。」とあります。これは当時の汽車ではこうした動作でガラス窓を「開けた」という意味です。
声を掛けて断るのが普通です。このシーンを頭の中で思い描いてみてください。変じゃありませんか?
普通ではないのは、普通ではないからです。変なのです。不自然なのです。こんなことは現実では起こらないと言えます。
逆に言うと、普通だとか変ではないと感じるほうが普通ではなく変なのです。
没交渉という言葉が浮んで来ます。
*
文字というものには不思議なことがたくさんあります。
私の趣味は文字のありようの観察なのですが、不思議だらけで、観察するたびに首を傾げていると言っても言い過ぎではありません。
「私小説」という連載(001~008)は、その不思議な文字についての小説と言えます。
猫は、猫ではなく、猫に似ていないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかり通っている。
猫という文字(そして音声も)は、猫ではなく、猫に似ていないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかり通っている。
(拙文「私小説 003」より)
上で引用したのが、私にとっての最大の謎なのです。
猫は猫に似ていますか? 猫は猫でしょうか?
これは、たとえば学習の成果による条件反射という説明ができるでしょう。あるいは、対応という言葉をつかって理屈を述べることもできるでしょう。
それでも不思議なことに変わりはありません。私にとっては。
きっと私は分からず屋なのでしょう。そうとしか思えません。幼いころから、「とろい子だねえ」とか「なんて飲み込みが悪いの」とか言われ続けてきたのです。
現実と似ても似つかぬ文字というものが現実を呼び起こす。文字の世界は目の前の異界なのかもしれません。
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話をもどします。
文字の不思議な点の一つは、文字(とりわけ活字)で書かれていると、そんなものかと人が信じてしまうことがよくあるということです。
(※いったん書かれていることを信じないことには、人は文字を読めないという現実があります。
たとえば、
これは黒地に白の文字です。
これは白地に黒の文字です。というふうにです。
あと、たとえば、小説で突然、
そして、十年が過ぎた――。
と書かれていれば、「そうですか、十年が過ぎたのですね」と読者は信じるしかないのです。
同様に、
私は猫である。
と活字で書かれていれば、「はいはい、あなたは猫なのですね」と読み手はいったん信じないとその文字は読めまないという現実があります。
否定したり疑問に思うのは、いったん信じたあとに起きることです。)
話をもどします。『雪国』の冒頭の一節について、お話ししていたのです。
ましてや日本文学で最も有名な小説の冒頭に、上のような汽車での場面の描写があれば、「おお、すごい」、「いいなあ」、「これは名文ですよ」、「さすがは世界のKawabataだ」、「ここでは人間がちゃんと描かれているではないですか」――、そんな感想をいだくのが人情というものではないでしょうか。
私だって書き手としての川端康成は、すごいと思うし、尊敬もしています。だからこそ、noteで以下の川端関連のマガジンをつくったのだし、現にこの記事をせっせと書いているわけです。
それはそうなのですけど、上で引用した『雪国』の冒頭の箇所は変だと感じます。不自然なのです。
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で、私なりの意見を言いますと、この小説はいわば「観客」小説なのです。いや、「観客」小説でもあると言うべきでしょう。
この連載のタイトルにある「「客」小説」をgoogleで検索したことについては、「客が客になるとき(「客」小説を求めて・02)」で書いたとおりです。
今回は「観客」小説なんて言葉を勝手につくってしまったので、「観客小説」をキーワードに検索してみました。
すると、最初は「観客小説とは、興行物やイベントなどの観客を対象とした小説を指します。」、次に「観客小説とは、読者や観客を夢中にさせる物語、またはその物語を書く技術のことを指します。」、そして最後には「この検索では AI による概要を表示できません」という表示が出るようになりました。
まるで出世魚のようにころころと変わったので喜んでいたのですが、最後に残念な結果になってしまいました。検索して今はどう表示されるのかは知りません。
おそらくAIによるコメントだったと理解していますが、これも学習の成果なのでしょうね。さすが人工知能。
みなさんも何か造語をして「○○とは」なんて検索してみると、より賢くなってくれるにちがいありません。みんなで育ててやりましょう。
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冗談はさておき、『雪国』は観客小説だと私は考えています。
で、誰が観客なのかなのですが、あなたなのです。
この小説を読んでいるあなた、つまり読者のことです。
読み手を観客、つまりお芝居や映画やテレビドラマを見る人、または観る人にしてしまうのが、観客小説である『雪国』なのです。
引用文の会話をご覧ください。
国境の長いトンネルを抜けてわざわざやって来た雪国では、まるである種のお芝居のようにお国訛りのない、お上品とも言える言葉を、登場人物同士が話しているのです。
しかも、視点的人物である島村を無視して、つまりこの小説の視点である島村とは没交渉に事態が進行しているのです。
島村は傍観者なのです。一方的に観ているだけ。映画やお芝居の観客と同じです。
観客から宿泊客へ
新潮文庫だと、p.5から小説が始まって、p.12までがばあーっと一気に続いて、p12の最後になって突然一行が空いています。
散文で書かれた小説である『雪国』というテキスト(テクスト)では、この一行を無視するわけにはいきません。
そこで区切れているのです。
一行空けのあと、p.13にようやく島村の口にした言葉が出てきます。
宿屋の客引きの番頭は火事場の消防のようにものものしい雪装束だった。耳をつつみ、ゴムの長靴をはいていた。待合室の窓から線路の方を眺めて立っている女も、青いマントを着て、その頭巾をかぶっていた。
島村は汽車のなかのぬくみがさめなくて、そとのほんとうの寒さをまだ感じなかったけれども、雪国の冬は初めてだから、土地の人のいでたちに先ずおびやかされた。
「そんな格好をするほど寒いのかね。」
「へい、もうすっかり冬支度です。雪の後でお天気になる前の晩は、特別冷えます。今夜はこれでもう氷点下を下っておりますでしょうね。」
「これが氷点以下かね。」と、島村は軒端の氷柱を眺めながら、宿の番頭と自動車に乗った。雪の色が家々の低い屋根を一層低く見せて、村はしいんと底に沈んでいるようだった。
(p.13)
ひたすら見る人(観る人)という意味での観客(乗客でもあります)だった島村が、「宿の客引きの番頭」(ここでこの「客」小説で初めて「客」という文字が出てきます、見落としがあったらごめんなさい)と言葉を交わして、つまり人との没交渉から交渉へと移行したところで、島村は宿泊客になります。
乗客・観客 ⇒ 宿泊客(長期宿泊客)
一方的かつ一方向的に見る人・観る人・観客 ⇒ 宿泊客
没交渉・傍観(ひたすら観るだけの世界) ⇒ 交渉・参加・人とかかわる(人と人とのドラマ・物語)
そうして新たな形で人と人とのドラマと物語が始動する。『雪国』はそんな妙な仕組みの小説なのです。
冒頭で、読者は、文字(言葉)のマジックにかかって観客になる。つまり、言語芸術(文字芸術)であるこの作品は、文字のイリュージョンによって読者を巻きこむのです。
川端康成はたぐいまれな言葉、とりわけ文字の魔術師、(後述しますが)振付師だと私は思っています。
*
ここまで述べたことで、いちばん大切なところを以下に引用します。
文字の不思議な点の一つは、文字(とりわけ活字)で書かれていると、そんなものかと人が信じてしまうことがよくあるということです。
そんなわけで、ここで私が書いていることを、どうか鵜呑みになさらないでください。読みは人それぞれだからです。
ご自分で作品を読み、ご自分で感じてお考えになってください。
とりわけ「自分で感じる」ことが大切だと私は思っています。別人である各人の語感と五感には互換性がないからです。それが個性というものではないでしょうか。
*
私は私。私は文字。私は言葉。私は猫。私は錨。私は海。私は山。私は世界。私は宇宙。私は森羅万象。
何とでも言えるのが言葉、何とでも書けるのが文字。
言葉は言葉、文字は文字。
何とでも言えて、書けるのは、言葉と文字がニュートラルで匿名的で非人称的なものだから。のっぺらぼう。白い紙。空の殻。空の器。
(拙文「私小説 005」より)
私は文字。私は振りをする。私は演じる。どんな振りでもできる。私はどんな物でも事でも演じることができる。
私は文字。私は声も音もない振りをする。静寂と沈黙のなかの振り。書き手は振付師。
(……)
*
私は文字。私は私は生きていないけれど生きてもいる。それが振りというもの。
私は猫。私は檸檬。私は月。私は海。そうやって私は私を演じる。あなたが私を見てくれる限り、私は振りをする。
あなたがいなくなれば、私は空振り。空耳に空足ふみふみ空回り。
私はあなた。あなたは私。振りがあなたと私をつなぐ。あなたと私で振りを演じる。
(拙文「私小説 008」より)
(※「川端康成はたぐいまれな言葉、とりわけ文字の魔術師(振付師)だと私は思っています。」と上で書いたのは、こういう意味です。)
文字は振り付けられた振りをするだけなのです(←このセンテンスは二通りの意味に取れます)。振りに意味を読むのは、あなたです。
振りは風とも書くそうです。
関連記事
一方的に相手を見る、一方的に相手の声を聞くという『雪国』の冒頭については以下の記事「葉子を「見る」「聞く」・その1(する/される・04)」で詳しく書いています。
川端康成という、たぐいまれな文字の振付師についての、私なりの集大成のような記事です。興味のある方は、文字通り、ぜひご笑覧ください(目次だけでもどうぞ)。
