いまそこにうつっているもの(文字をうつす・02)
今回の記事は、「同語・同義・同音・同字・同イメージを反復する(文字をうつす・01)」の続きです。
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私たちはいま白と黒の世界にいます。私たちというのは、あなたと私のことです。白と黒からなる画面に向かって、この文章を書いている私と、この文章を読んでいるあなたのことです。
文字列・文・文章とは、白地に黒の点と線からなる形(模様)である文字の連なりです――。目の前の画面をご覧ください。
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一つ一つの黒の点と線からなる模様が直線状に列をなしている。列は右に直進し右の余白の手前で折れて(切れて)、一行の余白を越えて左下の端に飛んで、また右へと進んでいく。そのくり返し。
上から下へと進み、下の余白の手前で折れて(切れて)、一行空けて左上に飛んで、また下へと進んでいく列もある。そのくり返し。
線には、始まりと途中と終わりがある。いつかは終わるが、それは目の前にある線だけの話で、どこかにまたこうした線があって、左から右へあるいは上から下へと進んで折れて(切れて)飛んでまた進むをくり返しているはず。
左から右へ、そして上から下へだけでなく、右から左へと進む列もあるという。
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じっさいには白の地に黒の模様以外の組み合わせもある。あちこちに見られる。いずれにせよ、二色が基本。
さもなければ、点と線の模様も、その模様からなる列も、くっきりはっきりと人の目にうつらない。二色のあいだのグラデーションは許されない。
点と線からなる個々の模様の区別は、例の1か0かとかonかoffかという仕組みのように明確でなければならない。無数どころか無限にありうる濃淡の階調などという曖昧さは許されない。
その意味で、白地に黒の点と線からなる模様の連なる世界は、自然界も現実も反映していない。うつつをうつしてなどいないのだ。その意味で、人はうつつのうつろなうつしにうつつを抜かしている、うつけ。
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線は進み続ける。人のいるかぎり続く。とはいえ、それにも限りがあるはず、果てがあるはず。でも、人はそんなことは考えない。
ところで、始まりと途中と終わりのある線も、それをどこかで切れば、その短い線には始まりと途中と終わりがある。そうやってどんどん切って短くしていくと、黒の点と線からなる模様に行き着く。
その模様にも始まりと途中と終わりがある。手と指をつかって、人がその模様を覚えるとき、その動作には始まりと途中と終わりがある。覚えた模様をどんな順序でどんなふうにしるすにしても、当然のことながら、その模様にをしるすには始まりと途中と終わりがある。
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模様には線状の流れがあり、その模様の連なりにも線状の流れがある。線の流れは、時の流れと同時に起きるのだろう。線の流れは、時の流れ。
線の流れとしての始まりと途中と終わりがあるとすれば、その線が初めてしるされたり描かれたときには最初の点があるはず。点から線へ、線から線へ、というふうに。
もしそうであれば、これから先のいつかに最後の点とか線の終わりがあってもおかしくない。点から線へ、線から線へ、そして線から点へ、というぐあいに。
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どんな順序で、どんなふうに描くにしろ、しるすにしろ、入力するにしろ、その模様にも、その模様からなる線状の連なりにも、始まりと途中と終わりがある。あるはず。あるにちがいない。
とは言うものの、その模様と模様からなる列の手本、つまりその模様と模様からなる列の源をたどった者はいない。
地表の川の流れの水の本をたどるのとは違って、人が平たく均した地面や石面や壁面や紙面や画面にしるされた模様とその模様からなる列をさかのぼり、その源を目にした者はいない。少なくとも現存する人にはいない。
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ところで、私たちの目の前でくっきり浮かび上がっている面上の点と線に始まりと終わりのわけめなどあるのでしょうか。面上にはっきりと見える点と線の白と黒にさかいめはあるのでしょうか。
そもそも、いまそこにうつっているものはいつどこから来たのでしょう。
私たちは整然とした直線上で迷っているような気がしてなりません。目の前にある白地に黒の直線は迷路であり迷宮なのではないでしょうか。
