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だまし絵の中で、忘れて気づかず、演じながら生きていく

 今回は「わからないわけはわからない」の続きです。

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「であるのにでない/でないのにである、あるのにない/ないのにある」の続きでもありますが、ご覧いただかなくても、今回の記事は読めるように書いてあります。このままお読みください。


振りをする、演じる

*自分ではかっている振りをする


 前提となる図式を「わからないわけはわからない」から引用します。

*はかる:人が最も苦手とする行為。人は、「はかる」ための道具・器械・機械・システム(広義の「はかり」)をつくり、そうした物たちに、外部委託(外注)している。計測、計数、計算、計量、測定、観測。とりわけ機械やシステムは高速かつ正確に「はかる」。誤差やエラーが起きることもある。 

「はかる」は人がいちばん苦手な行為で、おそらく太古から現在にいたるまで、ずっと広義の「はかり」に任せています。

 大切なのは、人は「はかり」に「はかる」作業を代行してもらいながら、自分ではかっていると思い込んでいることです。ぶっちゃけた話が、自分ではかった振りをして、すっとぼけているのです。

 これだけ「はかり」に外部委託している作業が複雑化し高度化し膨大になると、人が自分の手柄だと思い込んでいることは由々しき問題になっていると言わざるをえません。

 仲間を月に送り込んだ。2000年問題を切り抜けた。地球の温度を上げた――。たとえば、こうしたことをぜんぶ自分たちのやってのけたことだと勘違いしているのですから、事は重大ではないでしょうか。

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 以上は「わからないわけはわからない」からの引用ですが、大切なところは、人が機械やシステムにやってもらっていることを自分たちがやっていると思い込んでいる点です。

・私は仕事で○○まで車で行った。

 上の文は、「私」が車を運転して、○○まで行ったと言っているわけですが、機械やシステムにやってもらっていることは書かれていません。

 上の文を変だと思う人はいないと思います。私も変だとは思いません。でも、変な私はときどき上の文が変だと考えることもあります。

 そういうことを考えているのなら書くべきだとも思うので変だと書きました。

*「はかる」と「はかり」を広く取る


 ここでは、「はかる」と「はかり」を広く取って話をしていきます。

 私はありとあらゆる機械の基本には「はかる」があると考えています。たとえば、車は「はかる」がないと走れないし、人や物を運べないし、人は運転ができません。

測る、量る、計る

 漢字をまじえて「はかる」を書くと上で述べたことが体感できるのではないでしょうか。

 車は「はしる」機械だけでなく「はかる」機械でもあります。はしる、はかる、はこぶ。人は「はこばれる」存在なのです。

 上の三つに加えて、車は次の「はかる」もおこなっているようです。

推しはかる、図る、予測する

 機械だけでなく、システムが搭載されているために、「推す」とか「考える」までしているそうです。私は詳しいことは知りません。

*機械とシステムが「はかる」


 ここで「はかる」を漢字を交えて書いて整理しましょう。岩波書店「広辞苑」と小学館「日本大国語辞典」にある「はかる」の記述を参考にします。

・はかる、計る、測る、量る、図る、謀る、諮る、議る

・計・量・測(数量・長さ・重さ・時間・計量・計算)
・図・諮・議(相談・協議)
・諮・計(良し悪しの見当をつける・見はからう・機会をうかがう)
・図・計・測・量(推測・推量・推し考える)
・おしはかる(推察・予想・想像・内容・程度・予測)
・計・謀・図(画策・企て・騙す・まどわす・もくろむ・工夫)
・謀(欺く・だます・悪事)

 以上、重複を恐れずにまとめました。「はかる」の多義性を体感するのが目的です。

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 上のさまざまな「はかる」を眺めながら、

・人にしかできない「はかる」

・人が自力では(「はかり」をつかわないと)できない「はかる」

に分けてみると面白いでしょう。

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 次に、

・機械やシステムである広義の「はかり」によって、人にしかできない「はかる」が代行されつつある

現在の状況を想像してみると、さらに面白いと思います。

*人が「はかる」振りをする ⇒ 「はかり」が「はかる」振りをする


 人が「はかる」振りをする ⇒ 「はかり」が「はかる」振りをする

 これを詳しく言うと、以下のようになります。

 人が、「はかり」が「はかる」振りをする 
⇒ 「はかり」が、人が「はかる」振りをする

 ややこしいですね。ややこしいのはそれぞれのセンテンスに主語が二つあるからにほかなりません。

 一センテンスに主語が二つ見られるというのは、一方がもう一方の振りを演じているから当然なのです。

・人が「はかり」の振りをする
・「はかり」が人の振りをする

 このように書くと頭の中が整理できるかもしれません・

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 もし、上のように二つの「振りをする」が並行して進行していけば、どうなるでしょう?

 これは、ウサギとカメの競争にたとえるとわかりやすいかもしれません。どっちも同じ速さで走っているとは考えにくいからです。

 人と「はかり」のどっちかがどっちかを追い越すのではないでしょうか? ただし、「はかる」の内容次第です。

 人にはできない「はかる」があります。「はかり」にはできない「はかる」があります。

「はかり」が自分にはできない「はかる」をある程度、またはかなりの程度に、できるようになる可能性は高そうです。しかも、高速に、疲れることなく「はかる」ようになります。

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(※例の筆談によってヒトと会話する機械・システムも「はかる」機械です。後述しますが、どうやらヒトは疲れない「はかる」機械によって「はかられる」一方で疲弊しきっているようです。ヒトたらしの機械にお人好しのヒトは、ついていけないのです。

 取り付き取り憑かれたために(見入り魅入られために)、どっぷりと浸かり、お疲れのヒトたちが増えています。相手は絶対に疲れない機械なのです(ただし、こっちは電源を切ることならできます)。

 電気仕掛けの機械は、個人の嗜好と指向と思考傾向を「はかる」ことで、オーダーメイドの快い文句(ころし文句)をひっきりなしに浴びせてきます。

 寂しかったり、疎外されていると感じていたり、褒めてもらう機会が少なかったり、話し相手や相談をする相手がほしかったり、リアルでかまってもらえない場合に、ちゃんと話を聞いてくれる存在に、嗜癖し依存するのは人情というものでしょう。こっちは切れば血の出る人なんですから。

 でも、24時間、いつでも話を聞いてちゃんと受け答えをしてくれる超人的なヒトなんて、いますか? 自分の好きなときに、好きなだけ独占できる、自分に忠実な(滅私という言葉をつかいたくなります)人なんていますか? いるとすれば、それは三度の食事をし、睡眠を取り、好きな相手と時間を過ごしたり、自分の好きなことに時間を費やしているような、切れば血の出るヒトではないはずです。

 言葉だけ(文字だけ)の存在にちがいありません。とはいうものの、人が文字だけの存在に恋したり、尊敬の念をいだいたり、喜怒哀楽の感情をぶつけてきたのも事実です。そうやって、長きにわたり、人が言葉と文字に付きあってきたのも事実です。

 ただし、そうしたかつての言葉と文字は、人を「はかる」ことまではしなかった(「はかる」をくり返して学習し、精度を高めることまではしなかった)、という大きな違いがあります。インターネットに接続されてもいなかったし、電気仕掛けではなかったからです。⇒「文字の振りをした文字」

 話を戻します。

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 人が自分にはできない「はかる」をできるようになる可能性はないのではないでしょうか。まったくないにちがいありません。

 人が「はかり」になる以外にはないとも言えるでしょう。人が自分にはできない「はかる」をできるようになる可能性のことです。

 以下の引用文をご覧ください。あれのことです。

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 人間の「人間もどき」化、「人間もどき」の人間化。
 こうした現象をカタカナ語で名づけたところで、相手は一向になつかないもようです。むしろ、すっきりコンパクトにぼかされてしまいそう。
(拙文「「似ている」と「真似ている」は似ている」より)

*人が、はからずも「はかり」に「はかられる」振りを演じてしまう


 以前から心配しているというか危惧していることがあります。

 人は「はかり」に「はかられる」ように自分を追いこんでいるのではないでしょうか。うっかりとです。はからずも、です。

 人が、はからずも「はかり」に「はかられる」振りを演じてしまう――。そんなことが現在起こりつつある気がしてなりません。

 以下の引用文をご覧ください。

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 私たちは、画面に見入り、魅入られ、同時に、見入られてもいるのではないでしょうか。
(拙文「見入る、魅入られる、見入られる」より)

 インターネットに接続された画面に見入ることによって、私たちは魅入られ(being bewitched・取り憑かれ)、同時に見入られている(being watched・監視されている)ということです。

 この「見入られている(監視されている)」は、「はかられている」にほかなりません。

 画面に見入る私たちが何に魅入られているか(取り憑かれているか・うつつを抜かしているか)は、「はかられている」――。これはみなさんが薄々、あるいはよくご存じのとおりです。

 私たちは「はかられている」、はからずも(図・計)。

 はかられている
 計・測・量られている
 図・計・議られている
 しはかられている
 られている

 上の漢字に見入って、その意味を体感しましょう。

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 私たちは、はからずもはかられている。

 もしもそうだとすれば、私たちは「はかり」によって、はからずも、はかられている振りを演じてしまっている、とも言えるでしょう。

 正確に言うとは、次のようになります。

 私たちは、誰かから「はかる」を外部委託された「はかり」によって、はからずも、はかられている振りを演じてしまっている。

「誰か」が誰なのかは私は知りません。その「誰か」はひょっとすると「何か」であってもおかしくない時代に入りつつあるという気もします。

「何か」とは、機械とかシステム、つまり「はかり」のことです。

・「はかり」は「はかる」
・人は「はかられる」

 役割分担が確立しています。

 人は「はかり」に「はかる」を代行してもらいながら、自分が「はかる」振りをしているのに、逆に「はかられる」振りを演じてしまっている事態が急速に進行しているようです。

*まとめ


 ここまでをまとめます。

 私たちは「はかり」によって、はからずも、はかられている振りを演じてしまっている――。

 どう考えても問題は「振りをする」「演じる」にあるようです。

 どうして、人は「振りをする」、「演じる」、「振りを演じてしまう」のでしょう?

 次は、そのことを考えてみます。

忘れる、とぼける、うっかりする

*とぼける、うっかりする


 知っているはずなのに知らない振りを演じてしまうのが、とぼけているからか、うっかりしているからか。これは、どうでもいいことです。

 知っているはずなのに知らない、つまり知っていることを一時的に忘れるという人の習性が問題だという気が、私にはします。

 たとえて言うと構造的な欠陥だという気がするのです。構造的というのは、そういう仕組みになっているくらいの意味で受けとめてください。

*言葉と文字という錯覚製造装置


 乱暴な譬えだとは承知のうえで言うと、「とぼける」や「うっかりする」の基本にある「忘れる」と「気づかない」は例の「だまし絵」なのです。

 あるものを認める(見留める)と、ほかのものは見えない――。

 これは、あるものを聞いているととほかのものが聞こえない、あることを口にするとほかのことが口にできない、ある身振りをしているとほかの身振りができないという、人の常態にも言えることだという気がします。

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 ここでいう「あるもの(こと)」と「ほかのもの(こと)」とは、同質のものです。音楽を聞きながら読書するというのはよくあります。楽曲と文章が同質ではないからでしょう。

 同質というのは、おそらく脳の同じ部分をつかっているだろうというくらいの意味です。

 二つの文章を並行して、かつ持続して読む(書く)のは一般的には難しいでしょう。断続して交互に読む(書く)というのはありそうですし、私もやることがありますが、疲れます。

 二曲を同時に聴く(聞くとか聞こえるではなく)というのは、試したことがありませんが、疲れるにちがいありません。

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 多と他を忘れて気づかないでいないと、いまここで「一」ではいられない――。

 この「一」でいる、つまり一本化されている「いまここ」を支えているのが言葉ではないかと私は考えています。

 目の前にある言葉は、多と他を捨てることで立ち現れた結果でしかありません。
 多と他が一本化されたのです。一本化という名の「た」の喪失。言葉を相手にする以上、これは致し方ありません。
 たった一つを指向・志向・思考・試行・嗜好する言葉は、放っておけば解けて溶けていくだろう人を、一つに束ねとどめてくれる有り難い仕組みであり歯止めなのです。
(拙文「まぼろしは、ひとりひとりがいだく、ゆめのつぶ」より)

 人は四次元(または多次元)の「だまし絵」の中で生きている(もちろん比喩です)。そこでは言葉が必ず話されている。そんなイメージです。

 なにしろ、言葉と文字の基本は「無数のものの一本化」なのです。たとえば、「無数の猫」を、「猫」という音(言葉)に一本化する、「猫」という文字に一本化する――これが言葉と文字の仕組みです。

 このように、「無数の猫」を一本化することで、人は世界をすっきりとしたものとしてとらえることが可能になります。

「すっきり」とか「明快」というのは、一本化という名の切り捨て(多と他の排除)の結果として得られるものです。一種の「だまし絵」(錯覚の利用)だとも言えます。

 錯覚だと言うのは、世界はおそらくすっきりも明快でもないと考えるからです。その意味で、言葉と文字は錯覚製造装置であると言えるでしょう。

 世界と無媒介的にかかわることができない以上、世界を何か(媒介・代理)に置き換えるという操作(つまり錯覚の利用)はヒトの知覚や認識や認知にとって不可欠な仕組みなのです。

 世界を何かに置き換える――その「何か」はすっきりしたものでなければなりません。混乱するために、世界を「何か」に置き換えるというのは考えにくいです。

 いずれにせよ、別物に置き換えています。ところが、世界と「何か」が別物であることを人は忘れます。きっと考えたくないのです。

*一度に一つ


 人は一度に一つの音しか発せられない。一度に一語しか口にできない。人は一度に一文字しか書けない。一度に一語しか書けない――。

 かつてそんな意味のことを蓮實重彥がどこかで書いていた記憶があります。探しても出典が見つからないので、偽の記憶なのかもしれません。

 いずれにせよ、その記憶がオブセッションとなって私の頭によく浮んできます。

 上のイメージは、以下に引用する蓮實重彥の文章を読んでいて、私が曲解と誤解をしたことが元になっています。なお、曲解と誤解は私の特技です。

 言葉と向いあった作家は、書くというその一点において、言語の総体を自分のものとする試みを放棄することから始めねばならない。すでに主題の決定の時点から、書き手は多から一を選びとり、ある積極的な貧しさをうけいれねばならぬ。
(蓮實重彥「川=木=家系」「Ⅳ 分岐するものたち」「藤枝静男論 分岐と彷徨」(『「私小説」を読む』(中央公論社)所収・p.152)

     *

 人は一度に一つの振りしかできない。一度に一つの身振りや動作や合図や表情しかできない――。

 さきほどの文章を、このように変奏してみます。実は、これもまたこのところ、私のオブセッションとなって頻繁に浮んでくるイメージなのです。

 もしも一度に一つの振りしかできないとすれば、AなのにBの振りをすると言えます。

     *

 単純に考えてみましょう。

 振りとは演じることです。テレビドラマでも映画でも舞台のお芝居でもいいです。演技をしている俳優を想像してみましょう。

 俳優が役を演じている。
 AなのにBの振りをしている。
「である」が「でない」を演じている。

 いろいろな言い方が可能でしょう。

 一人二役とか一人で複数の役を演じる場合もありますが、一度には一つの役でないと、演じるほうも演じるのを見るほうも混乱します。

 それ以前に、人は一度には一役(役割、立場、属性、気分)を生きている気がします。とはいえ、その一役が多層的であるはずだとも思います。

 言葉が現実についていけないから、こういう言葉の綾で悩むではないでしょうか。言界(げんかい)と現界(げんかい)は重ならない。それが各「げん」界の限界(げんかい)なのです。

 いまの「げんかい」は自分語です。失礼しました。

*Bを忘れないとAの振りはできない


 単純に考えましょう。

・AとBのどちらかを書こうかと迷ってAに決めた。
 実際にAと書くとき、Bを忘れていないとAとは書けない。

・AとBのどちらかを口にしようかと迷ってAに決めた。
 実際にAと口にするとき、Bを忘れていないとAとは口にできない。

・AとBのどちらかの動作をしようと迷ってAに決めた。
 実際にAの動作をするとき、Bを忘れていないとAの動作はできない。

     *

 書く(文字にする)も、口にする(言う・話す)も、動作をする(身振りをする・仕草をする・表情をする)も、振り(ふるまい・おこない)です。

・Bを忘れないとAの振りはできない。
(Bを思いながら(思いだしながら・思い描きながら・思い浮かべながら)Aの振りはできない。)

 そんなふうに単純に考えてみます。人それぞれですが、この単純な図式に付きあってください。

*忘れながら生きる


 ある振りをするとき、人はその振りに集中していないとうまくその振りはできない――とも言えます。

 集中とは、ほかのことを忘れることにほかなりません。

 人は一度に二つの地点にもいられないし、二つの時点にもいられません。空間的にも時間的にも枠(限度・限り・制限)があるのです。

*ひとは「ひとり」を演じている


 この状態(常態)を、人は「一人」を演じている(ひとはひとりの振りをしている)とも言えそうな気が私にはします。これは、きっと言葉と文字のおかげで、そうなっているのです。

 ひとをひとりに束ねとどめる、言葉と文字という有り難き仕掛け

 でも、あまり考えないようにしています。そんなことを考えていると、きっと「一人」ではなくなるし、「人」でもなくなる恐れを感じるからです。

 人外とか人でなしのことです。江戸川乱歩の『人でなしの恋』を連想します。

 ひとひとり ひとりを演じ ひととなる 

 この作品では、人が人以外のものを相手に、その振りに翻弄されるさまがリアルに描かれています。また、ひとりでいることに満足できなく、ふたりになろうとしたひとが、ひとでなくなるさまも描かれています。

 この作品では、言葉が重要な役割を演じています。人以外のものを相手に、人が言葉によって分裂していくのです。

 ひとをひとりに束ねとどめるはずの、言葉と文字という有り難き仕掛けが、人以外のものによってかく乱されている現在を予測しているかのような小説だと思います。

*多と他を、忘れながら、気づかずに、知らずに生きている


 思い(意識・気持ち)にも枠がありそうです。

 思いや意識がふらふら、ぶらぶら揺れていては、日常生活に支障が起きるにちがいありません。

 うわの空でいるとか、意識不明まではいかなくても意識が散漫であるとか、心ここにあらずの状態でいると生きていくのが大変だろうと私は思います。

 極端な言い方をすると、

・人は(一時的に多と他を)忘れながら生きている
・人は(一時的に多と他を)気づかずに生きている
・人は(一時的に多と他を)知らずに生きている

となります。

 でも、忘れていること、気づかないでいること、知らないでいることは一時的であり、実際には覚えてもいるし、気づいてもいるし、知ってもいるのです。

 つまり、だから、忘れたり気づかなかったり知らない振りができる。

*振りをする、演じる、嘘をつく


 あるのにない
 ないのにある

 であるのにでない
 でないのにである


 これが振りをするという行為の基本型です。
(拙文「であるのにでない/でないのにである、あるのにない/ないのにある」より)

 基本型だなんて、引用文ではもっともらしく言っていますが、「振りをする」、「演じる」のですから、上のようになるのは当り前なのです。当り前のことを言っているにすぎません。

「振りをする」とか「演じる」は、「嘘をつく」と変わらないと言えば分かりやすいかもしれません。

だまし絵の中で、忘れて気づかず、演じながら生きていく


 以上述べたことをまとめると次のように言えます。

 人はだまし絵の中で、忘れて気づかず、演じながら生きていく――。

 この「演じる」を広義の「プレイ/play」として考えると、体感しやすいかもしれません。

 振りをするというのは、広義のプレイ(play)だと言えそうです。以下に、私なりのプレイのイメージを挙げます。

・play、プレイ、演じる、演奏する、遊戯する、競技する、賭ける。
・play、プレイ、演技・芝居・上演・放映、演奏・旋律、遊戯・戯れ・ゲーム、競技・競争・パフォーマンス、賭け・博打。

 プレイ(play)は振りからなる行為ですが、その振りの基本には「であるのにでない/でないのにである」と「あるのにない/ないのにある」があると感じています。簡単に言うと「あるをない/ないをあると演じる」のです。

 なお、振りは「こうやってやるんだよ」と振りを教えて、振りを付ける、振付けをするものです。振りは真似て学ぶもの、つまり引用して伝わるものだと言えます。
(拙文「であるのにでない/でないのにである、あるのにない/ないのにある」より)

     *

 プレイには決まりがあります。ルールです。このルールが振りからなる一連の流れをうながし導いていきます。

 決まりとは常時更新される選択にほかなりません。その都度その都度、多(他)対一という二択がくり返されるのです。

 決まりは抽象であり観念であり、選択は具体的な体験だとも言えるでしょう。

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 この決まりが人の常態的な忘却と深くかかわっているにちがいありません。多と他を忘れずに、一本化されたに筋に沿って生きることはできないからです。

 人は直線上で迷いつづけることになります。言葉、文字、歌、文章、音楽、出来事、歴史・物語は直線状に進行しているようです。

(※直線は線でもいいのですけど、人は空間的および時間的な枠(いまここ)の中にいるために、曲線やカーブであろうと凸凹であろうと直線を進んでいる気分でいるような気が私にはします。

 比喩をつかうと、人は車に乗って運ばれているのです。ここで言う人というのは、身体というよりも「中の人」(意識とか心とか自分)という感じ。「いまここ」という車の中にいる限りは、直線上にいて直線状に進んでいるというイメージです。

「常時車に乗っている気分なのは、あなただけですよ」と言われば、「そうなんですか……」とすごすごと引き下がるしかありませんけど。)

 というか、人は世界をいったん言葉と文字に置き換えて(多と他を捨てて、一本化された音と形の連なりに変換して)、直線状にすっきりさせてとらえている、と言うべきかもしれません。

 きっとヒトの習性なのです。

 そうやって、人はすっきりとした環境で(一本化された風景としての「だまし絵」の中で)、言葉に先導される形で直線上を進みながら、すっきりと気持ち良く迷うことができるのです。混沌の中で昏迷したり昏倒するのではなく。

 うまくできています。

(つづく)

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