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であるのにでない/でないのにである、あるのにない/ないのにある

 今回は以下に引用する文章の入っている「振りをする振り、語ることで騙られてしまう」の続きです。

 言葉、名前、名詞、○○詞――に共通するのは、「であって、でない」とか「でありながら、でない」という身振りをする、振りをする、演じる、装う、かたるだと思います。
「でありながら、ではなくなってしまう」のです。
(拙文「振りをする振り、語ることで騙られてしまう」より)


まとめ


 最初に、この記事でいちばん言いたいことをまとめます。

     *

 人は言葉と文字をもちいて他の人とかかわり合いをする限り、

・自分ではない言葉と文字の振りを演じてしまう
・自分は言葉と文字ではないのに言葉と文字である振りを演じてしまう
・自分の代わりが言葉と文字であるのに言葉と文字ではない振りを演じてしまう

と言えるのはないか。

 現在、人は言葉と文字を介して、世界や事物や他の人たちや広義の「はかり」(機械・システム)とかかわります。

 他の人たちや広義の「はかり」を対象にする場合は、相手も言葉と文字をもちいますから、かかわりあいと言うべきでしょう。

 かかわりあいの場合には、互いに「自分は言葉と文字ではないのに言葉と文字である振りを演じてしまう」/「自分の代わりが言葉と文字であるのに言葉と文字ではない振りを演じてしまう」と言える気がします。

     *

 人はさまざまな自分の「代わり」をもちいていますが、代わりが「であるのにでない/でないのにである」と「あるのにない/ないのにある」という仕組みである以上、その「振りを演じてしまう」のだろうと私は思います。

 これは、「自分の代わり」に限らず、「Aの代わりにAとはまったく別のものをつかう」という行為をする場合にも、その「振りを演じてしまう」のだろうとも思います。「Aではない別のものを、まるでAであるかのようにもちいる」からです。⇒「「代わりに」は魔法の言葉」

     *

 振りをするというのは、広義のプレイ(play)だと言えそうです。以下に、私なりのプレイのイメージを挙げます。

・play、プレイ、演じる、演奏する、遊戯する、競技する、賭ける。
・play、プレイ、演技・芝居・上演・放映、演奏・旋律、遊戯・戯れ・ゲーム、競技・競争・パフォーマンス、賭け・博打。

 プレイ(play)は振りからなる行為ですが、その振りの基本には「であるのにでない/でないのにである」と「あるのにない/ないのにある」があると感じています。簡単に言うと「あるをない/ないをあると演じる」のです。

 なお、振りは「こうやってやるんだよ」と振りを教えて、振りを付ける、振付けをするものです。振りは真似て学ぶもの、つまり引用して伝わるものだと言えます。

 相手が機械やシステムの場合にも、始めは振りをおそらく形や型として学習させるのでしょう。そして、人に教わらなくても自分で相手(対象)の振りを見て(おそらく文字の振りを見て)学習していくようにもプログラミングするのでしょう。その辺の仕組みは私は知りません。

     *

 では、本文に入ります。

自分と世界と、そのあいだ


 世界と無媒介的に触れあえたら――。そんな思いをいだくことがあります。

 世界と直接的に触れあう。事物と直接的に触れあう、かかわる、見る――。魅力的なイメージであることは確かです。

 こうしたイメージは、世界や事物の本質に触れたいとか、理解したいという思いでもあります。

     *

 本質、真実、真理、本物……。なんと魅力的な言葉であり、イメージでしょう。

 そうした言葉を眺めていると、理解とか悟りとか気づきとか直感とか直観とか洞察が可能であるような気分になります。

     *

 自分 ⇔ 世界
 自分 ⇔ 事物

 自分 ⇔ 本質
 自分 ⇔ 真実
 自分 ⇔ 本物

 理解、悟り、気づき、洞察。

     *

 残念なことに、そうした快い言葉とイメージは叶わない夢でしかないようです。

 世界や事物とのあいだには何かがあるからです。あいだにある何かとは、たとえば知覚が考えられます。

 自分   ⇔    世界
 自分 ⇔ 知覚 ⇔ 世界

 世界と直接的に触れあいたい人や、世界を直接的に理解したい人にとっては、知覚が憎々しいものとして自分と世界のあいだに立ちはだかっていると考えられるのかもしれません。

     *

 知覚とは知覚器官や知覚機能、つまり身体の一部や一機能にほかなりません。

 自分   ⇔    世界
 自分 ⇔ 身体 ⇔ 世界

 だから、悟りのために修行と称して身体を痛めつけたりするのでしょうか。あるいは、身体の表層である知覚をかく乱しようと努める(攪乱して覚醒にいたるとか?)のでしょうか。

 自分の身体と知覚に対する扱い方は人それぞれでしょうが。

生き物と世界と、そのあいだ


 生き物で考えてみましょう。ヒトも生き物には違いありませんが、とりあえずヒト以外の生き物で考えてみます。

 ヒト以外の生き物 ⇔ 知覚 ⇔ 世界

 どうでしょう。すんなりとイメージできるのではないでしょうか?

     *

 今度はどうでしょう?

 ヒト以外の生き物 ⇔ 世界
 ヒト以外の生き物 ⇔ 事物

 ヒト以外の生き物 ⇔ 本質
 ヒト以外の生き物 ⇔ 真実
 ヒト以外の生き物 ⇔ 本物

 さきほどの図式の「自分」を「ヒト以外の生き物」に変えただけですが、違和感を覚えませんか?

 もし違和感を覚えたとするなら、どうしてでしょう? 

     *

 もし違和感を覚えたとすれば、人が「自分」だからです。人が「自分」という意識、つまり自意識を持っているからにほかなりません。

・自分   ⇔    世界
・自分 ⇔ 身体 ⇔ 世界

・ヒト以外の生き物 ⇔ 知覚 ⇔ 世界

「自分」という意識を持ったヒトには、上の三つの構図はありえても、以下の構図はありえないというか、考えられないのです。

 ヒト以外の生き物 ⇔ 世界
 ヒト以外の生き物 ⇔ 事物

 ヒト以外の生き物 ⇔ 本質
 ヒト以外の生き物 ⇔ 真実
 ヒト以外の生き物 ⇔ 本物

     *

「自分」とはヒト独特の考えでありイメージだろうと私は考えています。

「自分」とはヒトが発明したものだとも言えるような気がします。「自分」とはヒトの頭の中にしかないものだとも言いたくなります。

 なんて書いていますが、残念ながら私はヒト以外の生き物に、「あなたには自分という意識、つまり自意識がありますでしょうか?」と尋ねたことがないので、想像するしかありません。

 ですので、私がここで書いていることは根拠のない放言だと言えます。

自分、ヒト以外の生き物


 知覚に話を戻します。

     *

 くり返します。

 知覚とは知覚器官や知覚機能、つまり身体の一部や一機能にほかなりません。

 自分   ⇔    世界
 自分 ⇔ 身体 ⇔ 世界

     *

 上の図式の「自分」を「ヒト以外の生き物」に変えて比較してみましょう。

 ヒト以外の生き物   ⇔    世界
 ヒト以外の生き物 ⇔ 身体 ⇔ 世界

     *

 ヒト以外の生き物と、世界・事物・本質・真実・本物とのあいだにある身体(もちろん知覚を含みます)を取っ払います。

 ヒト以外の生き物 ⇔ 世界
 ヒト以外の生き物 ⇔ 事物

 ヒト以外の生き物 ⇔ 本質
 ヒト以外の生き物 ⇔ 真実
 ヒト以外の生き物 ⇔ 本物

     *

 根拠のない放言を続けます。

 もしヒト以外の生き物に自分という意識がなければ、自分と身体、自分と知覚、身体と知覚という線引きはないのではないでしょうか? 

 ヒト以外の生き物に、ヒトと同じ言葉が、あるいは同じとまでは言わなくても、ヒトと同等の言葉があるとは考えにくいです。

 そうであるとすれば、

・ヒト以外の生き物   ⇔    世界

ということになりそうです。

 つまり、ヒト以外の生き物は、

・世界と直接的に触れあっている
・世界と無触媒的にかかわっている

ことにならないでしょうか?

     *

 一方、自分という意識を持ち、言葉を持った人は、自分と身体、自分と知覚、身体と知覚という線引きをしているわけですから、

・自分   ⇔    世界
・自分 ⇔ 知覚 ⇔ 世界
・自分 ⇔ 身体 ⇔ 世界

という三つの線引きのあいだで悶々としていると言えるかもしれません。少なくとも、自分を見ているとそう言える気がします。

 傲慢な放言ですが、ヒト以外の生き物たちが、そうした悶々をしているとは私には考えられません。

     *

 たとえば、

「世界と直接的に触れあいたいなあ。直観なんて格好いいなあ。してみたいなあ。でも現実には、自分と世界のあいだには、身体があって、その一部として知覚があって、そこが世界とのあいだに立ちはだかっているんだもんなあ。そういうふうに学校で教わったんだもんなあ」

なんて、往生際の悪い私なんかは嘆いているわけです。

であるのにでない振りをする、あるのにない振りをする


 でも、大丈夫。人は自分に都合の悪いことは忘れて、気づかないようにできています。

 自分と世界とのあいだに身体があるとか、知覚器官や知覚機能が身体の一部だという学校で教わったことなんて、普段は考えないし、考えないから気づかないのです。忘れているとも言えます。

     *

 考えない、気づかない、忘れている

 一度教わったはずのことを、考えない、気づかない、忘れているとは、どういうことでしょう? 

 自分のことながら情けなくなります。

 知識としては脳のどこかに記憶されているはずです。記憶されているからでしょう、ふいに考えたり、気づいたり、思いだしたりはします。

 考えない振りをする、気づかない振りをする、忘れた振りをする

 このように言ってもいいような気がします。すっとぼけているのです。

 であるのにでない振りをする
 あるのにない振りをする


 すっとぼける・素っ惚ける
 とぼける・惚ける・恍ける
 ぼける・惚ける・呆ける・暈ける
 ほける・惚ける・耄ける・呆ける
 ほうける・惚ける・耄ける・蓬ける

 言葉と文字をいろいろに転がしてみると、「振りをする」のイメージがぼんやりとながらつかめてくるような気がします。

     *

 なるほど、そんな感じなのか――。私には心当たりがあります。おおありです。年を取ったいま、まさにそんな日常を過ごしています。

「振りをする」と「ふれる」は近い気がします。

 振り、振る、振れる、震れる、偏れる、狂れる。
 ふれた振りに振りまわされる。

似ている・そっくり、同じ・同一


 振りをしている
 している

 何かをしている「振りをしている」のか、何かを「している」のかの区別は難しいと思います。

 というか、人には難しい気がします。たぶん、人は両者の区別が苦手なのです。

     *

・「似ている」と「真似ている」は「似ている」 ⇒ 拙文「「似ている」と「真似ている」は「似ている」
・「違っている」と「間違っている」は「似ている」
・「している」と「している振りをしている」は「似ている」

「似ている」や「そっくり」は印象であり感想です。そこが検証可能な「同じ」や「同一」とは異なります。

 印象や感想は人の思いですから検証できませんが、「同じ」かどうかや「同一」かどうかは、人が広義の「はかり」(道具・器械・機械・システム)に「はかる」行為を代行させると判断してくれます。

     *

 振りは印象や感想であり、はかることができない。そんな気が、私にはします。

「ぼんやりしている」のか、「とぼけている」のか

 
 話を戻します。

 考えない振りをする、気づかない振りをする、忘れた振りをする

 教わって知識として記憶されているはずのことを、

・考えない、気づかない、忘れる
と、
・考えない振りをする、気づかない振りをする、忘れた振りをする

の区別は人には苦手なようです。

 少なくとも私は大の苦手です。得意な人には会ったことがありません。「得意だ」という意味のことを言う人ならたくさんいますし、私も会ったことがあります。

 得意でないのに得意であると口にするのも振りのうちでしょうが、それが振りかどうかは誰にも区別できないようです。

 振りに正解はないようです。そもそも振りには内容はないよう。

 振りとは、なぞって演じる/なぞって見るもの。振りとは、なぞるしかない(答えのない)なぞなぞだと言えるかもしれません。

     *

 そうであるのなら、「振りをしているのか」どうかを詮索するのは諦めましょう。

 諦めようと諦めないでいようと、

・考えない、気づかない、忘れる
ようだし、あるいは、
・考えない振りをする、気づかない振りをする、忘れた振りをする

ようにも見えるということはあります。

 振りかどうかが判断できないのですから、振りに振りまわされているとも言えそうです。⇒ 拙文「振りまわされる(線状について・05)」

 人は人が考える以上にぼんやりしている。これだけは確かなようです。

     *

 とはいうものの、「ぼんやりしている」のは「とぼけている」ようにも見えます。両者は「似ている」(印象・感想)のです。

 似ている以上、検証はできそうもないので、「ぼんやりしている」のか「とぼけている」のかの区別の詮索も諦めましょう。

 仕切り直します。

 人は人が考える以上にぼんやりしているようにも見えるし、とぼけているようにも見える。これだけは確かだと言えそうです。

振りをするの基本型


 話を戻します。

 どれくらい戻すのかと言うと、人に身体や知覚がある(教わっているはずの知識)のに気づかない振りを演じてしまうことです。

 いま「振りを演じてしまう」と書きましたが、これだと振りをしているのかどうかを不問に付すニュアンスがあるので、とりあえずこのフレーズをつかってみます。

     *

 あるのにない
 ないのにある

 であるのにでない
 でないのにである

 これが振りをするという行為の基本型です。

 たとえば、自分には身体や知覚がある(教わっているはずの知識)が分かりやすいかもしれません。

 自分には身体や知覚があるのにない振りを演じてしまっている

 どんな場合かというと、以下のような図式に基づいたフレーズを口にしたり、文字にする(してしまう)ことが考えられます。

 自分 ⇔ 世界
 自分 ⇔ 事物

 自分 ⇔ 本質
 自分 ⇔ 真実
 自分 ⇔ 本物

 まるで自分と世界や事物などのあいだに何も介在していないかのようなフレーズを口にしたり書いてしまうのです。

 介在するものとしては、たとえば、知覚や器官を含む身体、言葉、文字があります。これなしに、人は世界や事物とかかわることはできません。

 こうしたものが自分と世界や事物のあいだに介在することは学校で教わったはずです。それなのに、まるでそれらが介在していないような話を口にしたり文字にすることはよくあります。

二つに分裂した自分


 であるのにでない/でないのにである、あるのにない/ないのにある。

 この基本は、自分という意識、つまり自意識と大きくかかわっている気が私にはします。

 自分とは、基本的に分裂をはらんでいる心理なのです。

     *

 演じる自分、と、演じられる役割・キャラクター
 演じる人、と、演じられる人
 自分A、と、自分B
 中の人(意識・心・脳・魂)、と、身体(知覚・諸機能・器官)

 操縦する自分、と、操縦される自分
 命令/指示/指令/司令する自分、と、命令/指示/指令/司令される自分

     *

 人の思いと行為の基本は二択だとも言えそうです。

 選択肢が二なら一対一、三なら一対二、四なら一対三……というふうに最後の一を決めるときには、その「一対その他」とか「一対多」に絞って選択するのではないかという気がします。

 そうやって二つのあいだで揺れるかたちで振りをする、振りを演じる感じです。

 その二択が、であるのにでない/でないのにである、あるのにない/ないのにある、というかたちででてくるのかなあと私はイメージしています。

 最終的には一を選ぶしかなさそうです。

自分という枠・限界


 自分という意識を、私は枠とか限界と考えています。

 自分は意外と狭いのです。氷山の一角という比喩も分かりやすいかもしれません。

「いまここ」で意識できる範囲が限られている感じ。

 だから、意識する部分は、「一対その他」とか「一対多」という二択の「一」でしかありえない。その「一」も刻々と更新されている気が私にはします。

 刻々と更新されながら一様を保っているが、それは多様の一部である。そんなイメージです。

     *

 上のイメージは、以下に引用する蓮實重彥の文章を読んでいて、私が曲解と誤解をしたことが元になっています。なお、曲解と誤解は私の得意とするものです。

 言葉と向いあった作家は、書くというその一点において、言語の総体を自分のものとする試みを放棄することから始めねばならない。すでに主題の決定の時点から、書き手は多から一を選びとり、ある積極的な貧しさをうけいれねばならぬ。
(蓮實重彥「川=木=家系」「Ⅳ 分岐するものたち」「藤枝静男論 分岐と彷徨」(『「私小説」を読む』(中央公論社)所収・p.152)

     *

 話を戻します。

 上で述べたような枠・限界、つまり意識できる範囲が狭いことから、「一対その他」とか「一対多」という二択の「一」としての「自分」があるのかもしれません。

 自分を見ているとそんな気がします。「それはあなただけのことだよ」と言われれば返す言葉がありませんが、まさにここではそうした個人的な思いや印象や感想を述べています。

たった一つのものに、一本化されたたった一つのものを当てる


 身体や知覚という枠・限界があるために、「自分」の意識できる範囲が狭いことに加えて、人が生まれ育っていくあいだに身に付ける言葉にも限界・枠があるようです。

 言葉の限界・枠というよりも、言葉というものを成り立たせている仕組みと言うべきかもしれません。

人は一度に二つの言葉を口にできないし、音を発音できない、ひょっとすると、人は一度に二つの言葉を書けないし、文字を書けない。(※そんな意味のフレーズを蓮實重彥がどこかで書いていた気がします。偽の記憶かもしれません。)

*人が認識する「たった一つのもの」(事物)に、一本化された「たった一つのもの」(言葉・文字)を当てるのが、言葉と文字の基本的な仕組みです。個々の言葉と文字は複製であり、基本的に「同じ」であるために、こうした仕組みが可能だとも言えるでしょう。この仕組みによって、言葉と文字は個々の具体的な事物の代わりではない、つまり「というもの」(抽象)の代わりでしかないことになります。

 以上の二つの枠・限界が言葉にはあるように思います。

     *

 そのため、人は「自分」を思考したり、他の人に向けるかたちで、言葉や文字をもちいて「自分」について言葉を口にしたり、文字を書くさいに、多様であり流動的でもあるはずの「自分」を言葉として口にできないし、文字にもできないという困難、あるいは不可能性に直面します。

 言葉と文字では「自分」を掬えないという救われない事態に常時直面するわけです。

「自分」を掬えないという救われない状態が常態化しているとも言えるでしょう。

文字の振りに同期する人、人の振りに同期する文字


 以下の話に戻ります。

 あるのにない
 ないのにある

 であるのにでない
 でないのにである

 これが振りをするという行為の基本型です。

 私には上の人の思いと行為の振りの基本型が、文字の振りに重なって見えてなりません。

 言葉(音声)の振りもそうなのかもしれませんが、音声は見えないので、ここでは文字に話を絞ります。

     *

 言葉、名前、名詞、○○詞――に共通するのは、「であって、でない」とか「でありながら、でない」という身振りをする、振りをする、演じる、装う、かたるだと思います。
「でありながら、ではなくなってしまう」のです。
(拙文「振りをする振り、語ることで騙られてしまう」より)


 

 今回の記事は、冒頭で述べたように「振りをする振り、語ることで騙られてしまう」の続きとして書いています。

 記事の中でお話しした振りの基本型というのは、思いと行為において、人のする振り、または人が演じてしまう振りのことですが、これは人のつくった文字の振りとも言えそうです。

 いわば同期しているのです。

 文字の振りに同期する人がいて、人の振りに同期する文字がある――。ということなのですが、どっちが先かと問うよりも、現時点ではそうなっている点が重要だと思います。

 人は人に似ているものをつくる、人は人のつくるものに似ていく、と私は以前から感じているのですが、人と人のつくるもののあいだには、時を経るにつれて模倣しあうとか、振りを学びあうとか、同期しあうという現象が見られる気がします。

 振りとはまさに真似て学ぶものなのです。真似るものと真似られるもの(両者が人であるとは限りません)が、ともに振れるのです。ともぶれ・共振が起こります。

 振りの最大の特性はすぐに消えることです。振りはつぎつぎと消えていきます。真似る、模倣する、反復することでしか、残らないのです。
 模倣、反復、継承。
 まねる、まねぶ、まなぶ。真似る、学ぶ。
(拙文「振り(線状について・04)」より)

 振りは意味やメッセージに近いですが、両者との大きな違いは見えることです。振りは、視覚的にダイレクトに迫ってくる(伝わってくるとは言い難いです)のです。
 人と人、人と物、人と言、人と事・現象、人と世界――とのあいだで、ともに、ふれる、振れる、震れる、触れる、狂れる、ぶれる、ゆれる。
 向こうにあるのは振りだけ。こっちにあるのも振りだけ。いまここという、さなかで振れるだけ。
 振る、振り、振れる、振れ。
 共に振る、共に振れる、ともぶれ、ともぶり、共振。
 この「振りと振れ」は知的な経験ではないと断言できます。むしろ官能の経験なのです。
(拙文「声・表情・振り」より)

     *

 文字の振りについては、以下の引用文にある「広義のプレイ(play)」だとイメージしています。「勝手にイメージしろ」ですよね。私もそう思うことがあります。

 私は魂と振りという言葉を次のイメージでつかっています。ご覧のように、私のイメージする魂と振りは近くて、重なる部分も多いです。
・魂:
 感情、意図、意思、意志、意向、意識、意味、メッセージのようなもの。主に自然物に宿る。人工物に宿る場合もある。何かに魂が宿るかどうかは、人が個人で、または集団で決める。信じるもの。
・振り:
 感情、意図、意思、意志、意向、意識、意味、メッセージのようなもの。主に人工物が演じる。自然物が演じる場合もある。何かが振りを演じているかどうかは人が見てしまう(感じてしまう)。広義のプレイ(play)。 
(拙文「人と同じ」より)

 いずれにせよ、体調を考慮して、この続きはいつか書きます。

     *

 ここまでお読みくださり、どうもありがとうございました。

(つづく)

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