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人と同じ

「人にそっくり」の続きです。


人、魂、振り


 人と同じ――。

 何かが人と「同じ」である。もしそうであるとするなら、その何かは人でなければなりません。

(もちろん、ある一面だけをとらえて、人と「同じ」だと見なす場合もありますが。)

 こう考えると、人と「同じ」というのは、人に「似ている」や人に「そっくり」に比べて、ハードルが高いどころか、ありえない話になります。

 でも、どうやらそうでもないようです。

 人はいろいろなものに人を見たり、人を見てしまうことがあるからです。その場合には、その何かはその人にとって人と「同じ」だと言えます。つまり、人なのです。

 人と同等という言い方もできるでしょう。

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 その人にとってそれは人である――

「それ」は必ずしも人に似ていたり、人にそっくりである必要はありません。相手に形や姿がなくても、人は人を感じることさえあります。対話や筆談さえしているのですから。

 人に似ていないしそっくりでもないもの、または形や姿がないものに人を感じたり人を見る――。

 そうしたことがあるとすれば、人という言葉をつかう必要はないと私は思います。

 人の代わりに魂と振りという言葉を、ここではつかうつもりです。

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 私は魂と振りという言葉を次のイメージでつかっています。ご覧のように、私のイメージする魂と振りは近くて、重なる部分も多いです。

・魂:
 感情、意図、意思、意志、意向、意識、意味、メッセージのようなもの。主に自然物に宿る。人工物に宿る場合もある。何かに魂が宿るかどうかは、人が個人で、または集団で決める。信じるもの。

・振り:
 感情、意図、意思、意志、意向、意識、意味、メッセージのようなもの。主に人工物が演じる。自然物が演じる場合もある。何かが振りを演じているかどうかは人が見てしまう(感じてしまう)。広義のプレイ(play)。

 ここでは、以上の個人的なイメージでの魂と振りという言葉をつかっていきます。ですので、無い物ねだりはご勘弁ください。

魂と付きあう


 人は幼い頃から魂との付き合いを育み、学んでいきます。たとえば、自分の気に入った人形やぬいぐるみやおもちゃや物に、名前を付けたり、呼び掛けたり、声を掛けたり、話し掛けたりします。

 そうした大切なものと対話をする様子も見られるのは、みなさんもご存じのとおりです。話し掛けるとなると、相手(対象)を人と同等に見なしていると考えられます。

 このように、声を掛け、言葉を掛け、対話をする相手は、その人にとって魂が宿っているのです。生き物であろうと生きていない物であろうと、魂は宿ります。

 おとなも、いま上で述べた行動をします。生きているかいないかにかかわらず、名付け、呼び掛け、話し掛け、口にするかしないかにかかわらず対話をします。

魂が宿っているもの、振りを演じるもの


 以下は、人が自分にとって大切なものだと感じる対象や相手を列挙したものです。

 あかちゃん、こども、おとなというふうに移行していくように見えるものもあれば、人であれば年齢に関係なく、愛着や愛情や友情や同情、場合によっては恋愛感情をいだきうるものもあるでしょう。

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 人形、ぬいぐるみ、おもちゃ、自分にとって大切なもの(愛用品)、乗り物、絵本、漫画、アニメ、童話、小説、テレビドラマ、映画、ゲーム。

 童話や物語や神話や伝説や小説や漫画やアニメやドラマや映画やゲームに登場するキャラクター。

 会ったこともない、機械やシステムを介しての会話の相手、または対話やチャットという名の筆談の相手。

 SNSを介してだけの付き合いで、会ったこともない相手(複数の人が演じていたり、入れ替わったりするのに気づかない場合もあり、あるいは機械・システムのこともある)。

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 大切な人を描いた絵、写した写真・像、映した像・動画。

 大切な人の名前、名前を書いた紙や物、遺品。

 大切な人からもらった物。

 たとえば、ある人(こども・おとな)が大切にしている使い古したタオルは、他人から見れば薄汚れた布かもしれません。でも、その人は常にカバンに入れて持ち歩いたり、日に何度か触らないと落ち着かなかったり、何か大きな出来事があるたびに、握ったりすることがあります。

 たとえば、私は大切な人の名前の書いてある紙きれを踏んだり、ハサミで切り刻んだりはできません。写真なら、なおさらできません。

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 以上のものに、人は魂や振りを見たり感じたりします。

・有形無形を問わない。
・生き物であるか生きていない物かを問わない。
・実在するかしないか、実体の有無を問わない。
・声だけ、姿・形・像だけ、文字・文章だけ、名前だけでもかまわない。

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 魂と振りの区別は意味をなさない気もします。

・魂:
 感情、意図、意思、意志、意向、意識、意味、メッセージのようなもの。主に自然物に宿る。人工物に宿る場合もある。何かに魂が宿るかどうかは、人が個人で、または集団で決める。信じるもの。
・振り:
 感情、意図、意思、意志、意向、意識、意味、メッセージのようなもの。主に人工物が演じる。自然物が演じる場合もある。何かが振りを演じているかどうかは人が見てしまう(感じてしまう)。広義のプレイ(play)。

 魂にせよ、振りにせよ、人がそうしたものが宿ったり演じていると感じる場合には、人からの働き掛けがあります。声を掛ける、呼び掛ける、話し掛けるのです。

 要するに、自分から出てきた息を掛けているのです。

 また、対象や相手から、働き掛けられていると感じる場合もあります。相手から声を掛けられている、呼び掛けられている、話し掛けられていると感じるわけです。

 自分から働き掛け、相手や対象から働き掛けられていると感じると、対話や会話だけでなく、広義のやり取り(声・文字・振りのやり取り)が生まれると言えるでしょう。

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・働き掛ける
・働き掛けられる
・やり取りや交流がある

 こうしたことは、第三者には分からなかったり、感じられなかったり、話が通じなかったり噛み合わないこともあるでしょう。検証もできそうにはありません。

 魂と振りは、頭というよりも心と身体の領域で感じるものだとも言えそうです。

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 いろいろな解釈が可能でしょうが、私に言えることは、上で述べた意味での魂と振りにかかわっていない人に私は会ったことがありません。

 直接的ではなく、間接的に知っている人、たとえばテレビや本やネットで知っているだけの人でも、魂と振りとの交流がない人の話や記述は聞いたことも見たこともありません。

声の力、文字の力、振りの力


・声・話、音声としての言葉、話し言葉
・文字・文字列・文章・文書、書き言葉
・振り、身振り、素振り、仕草、表情、動作

 こうしたものは人に働き掛けます。働き掛けられたほうの人は心を動かされます。心が動かされれば何らの反応をするはずです。

・声の力
・文字の力
・振りの力

 その反応が、働き掛けた対象や相手に返っていくというかたちで、人は働き掛けるのではないでしょうか。

 働き掛ける、働き掛けられる。このように分けることは意味をなさないと私は思います。「する/される」は、おそらく同時に起きているのです。

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 かける
 かかる
 かかわる

 掛・懸・賭・架・かける
 掛・懸・係・架・繋・かかる
 係・関・拘・かかわる 

 相手に「かける」(一方的)と同時に、相手とのあいだ「かかる」(相手によりかかる・ゆだねる)が起きる。それは「かかわる」(関係)であり、さらには「かかわりあう」(双方向的・相互的な関係)なのだという気がします。

「かかわりあう」(双方向的・相互的な関係)が、たとえ人の思い込みであるとしてもです。人にとってはそれが真実なのですから。

文字の力は「同じ」の力


 声、文字、振りのなかで、私がいちばん気になるのは文字です。人の世界では、ありとあらゆるものが文字にされるのは、みなさんがご存じのとおりです。

 宣伝文、広告文、報道文・ニュース、メール、手紙、SNSでのやり取り、経典、聖典、法典、百科事典、辞典、史書、法螺話、夢物語、寝言、年表、文学全集(詩歌・小説・批評)、公文書、私文書、契約書、誓約書、条約、約款、メモ・覚え書き、落書き。

 声は発したとたんに消えていきますが、文字は消さない限り残っています。これが、文字が声より大切にされる理由です。便利なのです。

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 文字は人のつくった最強の「そっくり」(人のいだく印象)であり、「同じ」(機械やシステムに判断してもらう必要がある)でもある、と私は考えているのですが、それは文字(とりわけ活字)が複製だからにほかなりません。

 つまり、文字は複製ですから、誰が・何が書いても(入力しても)、「そっくり」(印象)だし「同じ」(人は自力では判断できない)でもあります。その意味で最強の「同じ」なのです。

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【※どういうことかと言いますと、「マカロニ」の「カ」が漢字の「力」であったり、「ロ」が漢字の「口」であったり、「ニ」が漢字の「二」であっても、人は「マカロニ」と読んでしまいます。

「マ力口二」が「マカロニ」であるかどうかは、たとえば "マ力口二" というふうにしてグーグルで一致検索する(機械やシステムに判断させる)と確かめることができます。お試しください。

 つまり、人には「似ている」とか「そっくり」なものでも、それが「同じ」かどうか(人はこの判断がきわめて苦手です)は機械やシステムに外部委託(外注)すれば、正確に見分けてくれるのです。】

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 話を続けます。

 振りはと言えば、文字が得意なのが振りなのです。しかも、人は文字に振りを見ます。後述しますが、文字は振りで人を振りまわすことができるという意味です。

・振り:
 感情、意図、意思、意志、意向、意識、意味、メッセージのようなもの。主に人工物が演じる。自然物が演じる場合もある。何かが振りを演じているかどうかは人が見てしまう(感じてしまう)。広義のプレイ(play)。

 振りが広い意味でのプレイ(play)であるというのは、たとえば、演技、演劇、ドラマ、遊戯、ゲーム、演奏、競技、賭け、取り引き、パフォーマンスを思い浮かべると分かりやすいかもしれません。どれもが振りでありプレイなのです。

 プレイの基本には振付けがあります。

「こうやるんだよ」というふうに振りを付けないと、人はプレイ(演技、演劇、ドラマ、遊戯、ゲーム、演奏、競技、賭け、取り引き、パフォーマンス)ができない、と言えば分かりやすいかもしれません。

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 大切なことなので、くり返します。

 文字が得意なのが振りなのです。人は文字に振りを見ます――。だからこそ、人は飽きもせずに紙面に写っている文字と画面に映っている文字を眺めているのです。

 文字は生きていないのに生きた振りをしている(擬人癖のある人に協力している)、とも言えます。なお、擬人については後述します。

 さもないと、人が飽きもせずに文字を見ていることが説明できません。そうでなければ、人は文字に何を見ているのでしょう?

・感情、意図、意思、意志、意向、意識、意味、メッセージのようなもの。
・演技、演劇、ドラマ、遊戯、ゲーム、演奏、競技、パフォーマンス。

 私には上に列挙したものしか思いつきません。

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 不思議と言えば不思議です。当り前と言えば当り前です。もし、当り前に思えるとすれば、以下の三位一体が教育の基本にあるからだと私は思います。

声と文字と事物を一致させる。
 学校では、以上のことを、みんなでいっしょに教わるのです。三つを一致させるのですから、「三位一体」という言い方もできるしょう。
(拙文「「これは同じです」」より)

「声と文字と事物は同じである」と教えているから/教わっているから、生きていないはずの文字に、人の声を聞き(つまり声の力によって働き掛けられ)、事物に宿っている魂=事物が演じている振りを見るのです(擬人のことです)。

「声と文字と事物は「同じ」である」と「声と文字と事物に人は魂と振りを感じる」とは同義なのです。

 ですから、「声と文字と事物は「同じ」である」と教わっているからこそ、「声と文字と事物に人は魂と振りを感じる」のだとも言えます。

 すべては、三位一体に基づいた体系化され組織化され効率化された教育の結果であり成果なのです。したがって、文字を学んでいない人は飽きもせずに紙面や画面上の文字を眺めたりはしません。文字に魂も振りも見えないからです。

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・「猫」という音声。
・「猫」という文字。
・「猫」というもの。

 声と文字と事物を一本化するかたちで一致させる。三位一体。これが教育の基本です。

・声と文字と事物は「同じ」である。⇒ 教え
・声と文字と事物に人は魂と振りを感じる。⇒ 擬人癖
・人のつくった複製である文字(とりわけ活字)は、誰が/何が書いても「同じ」である。⇒ 文字の特性

 平面に載る文字は、コンパクト(短小軽薄)で、消さない限り消えなくて、複製ができて、移すのも写すのも映すのも簡単。つまり、いつでもどこでも「同じ」。だから、文字は最強なのです。

 文字の力は「同じ」の力です。

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 違った説明をしてみます。

 比喩的に言うと、文字が生きている振りをしているのか、死んでいる振りをしているのかを、人は判断できません。なぜなら、文字は生きていないからこそ、死んだ振りができるからにほかなりません。

 言葉の綾をもちいた冗談レトリックはさておき、文字の振りに振りまわされるしかない文字には煙にまかれるしかない、これが人のさがなのかもしれません。

 ややしい説明で申し訳ありません。

     *

 仕切り直します。

 次のような説明の仕方もあるでしょう。

「猫ではないし、また猫に似てもいないし、ましてや猫にそっくりでもないのに、猫だとされて、猫としてまかりとおっているものって、何でしょう?」

 このなぞなぞは文字を教わっていない人には解けないだろうと思います。その人はキョトンとしているかもしれません。

 もちろん、「猫という言葉かな?」という答えが返ってくるかもしれません。この場合の「言葉」とは音声、話し言葉のことにちがいありません。

「猫という文字のことでしょ?」という答えは、言葉(声)と文字と事物を一致させる教育を受けた人でないと返ってこないのではないか、と私は想像します。

擬人を基本とする呪術


 擬人を基本とする呪術――。

 このフレーズを私はよくつかいます。

 個人的なイメージでつかっている魂と振りという言葉とは異なり、「擬人」と「呪術」という言葉に関しては、複数の辞書に見られる語義と私のイメージのあいだに大差はありません。

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 言葉は人どうしが話すためだけにあるのではありません。世界、宇宙、森羅万象を相手に呼びかけ、話しかけるためにあります。
 だから、歌や物語では、生き物や生きていない物たちや、物と言うよりも現象までが、人のように言葉を話します。
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 絵、漫画、アニメ、ゲームは歌と物語の延長上にあると言えば、今も私たちは歌を歌い、物語を語っていることがお分かりいただけるかもしれません。
 人類は一貫して、太古から現在にいたるまで、擬人を基本とする呪術の世界に生きているのです。
 たとえば、空を飛ぶ猫、言葉を話す猫、長靴をはいた猫――こうしたフレーズで画像検索をするのをお勧めします。
 擬人を基本とする呪術が体感できるかもしれません。
 歌、物語、夢、思いはきっとつながっているのです。そんな世界に人は生きているのです。
 なお、人類が今も擬人を基本とする呪術の世界に生きている証左としては、大切な人の写真やその名前を書いた紙を、はさみで切り刻んだり踏みつけたりできないことが挙げられるでしょう。
 魂をうやまう気持ちをなくしたとき、ヒトは人でなくなるのかもしれません。
(拙文「空を飛ぶ猫、言葉を話す猫、長靴をはいた猫」より

  以下は上の記事のショートバージョンです。

人に似ている、そっくり、同じ


 今回の記事「人と同じ」をもって、似ている、そっくり、同じという流れのシリーズは終わりにします。

 終わりにすると言っても、私は「似ている」、「そっくり」、「同じ」、「同一」という言葉とそのイメージが好きですから、別の記事で扱うことになると思います。

まとめ


 最後に「人に似ている」と「人にそっくり」と「人と同じ」を、まとめます。

 人に似ていない、人にそっくりでもない。それなのに人と同じものは何でしょう? 

 そうです。それは「人」です。そのように教わったのです。教育(とりわけ三位一体の教えです)の成果にほかなりません。そうやってみんなが同じ人になるのです。

 いまこうやってみなさんとつながっているのは、その教育のおかげです。感謝しています。

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 ここまで付きあっていただき、ありがとうございました。

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