人にそっくり
「人に似ている」の続きです。
何かが人と「同じ」はありえない(ありえたら何かは人になってしまいます)。ありえないから、その代わりに「似ている」や「そっくり」で、何かが人と「同じ」という叶わぬ夢を、人は追いつづける。
今回は、そんな話をします。
お急ぎの方は、太文字の部分だけをお読みいただいてもかまいません。それでも読めるように書いてありますので、どうぞお試しください。
「そっくり」なもの
「そっくり」という言葉で私が連想するのは、食品サンプルです。思わず手を伸ばしそうになるし、もよおしてしまいます。
「もよおす・催す」という言葉は、生理的な現象につかわれます。食欲、尿意、吐き気、眠気などと相性のいい言葉です。和語に当てた漢字は、催眠の催でもあります。
「もよおす・催す」は、「する」というよりも、思わず「してしまう」なのです。
人は「似ている」どころか「そっくり」という印象を持つと、錯覚したり、場合によっては妄想や幻覚までいだくのではないでしょうか。
知覚が本来の機能を逸脱して暴走してしまう感じです。
いずれにせよ、最初は「もよおす・催す」のです。むずむず、うずうずと。
*
写真を初めて目にした人類はさぞかしびっくりしただろうと想像します。個人レベルでも、初めて写真を見たときにはたまげるのではないでしょうか。
現在は、写真どころか、画面に映っている「そっくり」があちこちに見られる時代ですから、「そっくり」は当り前でありふれたものに成り下がっているのではないかと考えそうになります。
「そっくり」という感覚をいだかせるものの王者は鏡だと私は思うのですが、鏡については別の記事で書くつもりです。
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いま思いついたのですが、「そっくり」と「面・平面」と「もよおす・催す」は親和性があるのではないでしょうか?
顔面、地面、水面、川面、絵、壁画、板、屏、羊皮紙、鏡面、紙面、舞台、盤、版、写真・フィルム、スクリーン・銀幕、幕・膜、プレート、札(ふだ・さつ)・幣、画面・ディスプレー・モニター、フィールド・コート・ホール……。
「もよおす・催す」は、プライベートなむずむず、うずうずだけでなく、人を集めての、つまりパブリックな行事(イベント)をおこなうという意味もあります。
そもそも、平面は、影(姿・像・陰・幻)、つまり「そっくり」がうつる・映る・写る・移る場でもありますし……。
「もよおし・催し」において、欲動はうごめき、プレイヤーは点と線を描いて動きまわるのです。面を前にして、あるいは面を舞台にして。
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話がエスカレートして、なんでもあり状態になってきました。
こういうのは、オブセッション(私は主にこれで記事を書いています、この記事もそうです、お気づきとは思いますが論理とか筋道とかはないのです)であり、被害妄想に似ています。要注意です。
いずれにせよ、「そっくり」(影・姿・像・陰・幻)と「面・平面」と「もよおす・催す(かきたてる/おこなう)・してしまう」には親和性がありそうです。
いつか記事にしてみる価値はあるかもしれません。勝手にしろ、ですよね。失礼しました。
話を戻します。
人にそっくり
現在は「人にそっくりなもの」が身のまわりにあふれていますが、そのほとんどが面に映っている(または写っている)像である(後述しますが文字も含めます)ことには意外と気づかないものです。
というか、あまりにも当り前でありふれているので、「そっくり」のほとんどが二次元の像であることを、ついつい忘れてしまうのかもしれません。
当り前感とありふれ状態ほど恐ろしいものはありません。
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写真・静止画像・動画、修正されたり加工された映像、つくられた映像――。そのどれもがいわゆる二次元であり、平面(画面や紙面)上に載っています。⇒ 「自分は動いていないのに移っている、自分は動かしていないのに移している」
面に載っているのですから、像は薄っぺらいはずです。物ではなくデジタル化されたデータですから、短小軽薄でなければなりません。
短小軽薄ですから、ネット上では「(一回)投稿・配信する=(多量に)複製する=(世界中に)拡散する=(一回で多量に世界中で)保存される」という形で、ほぼ同時かつ瞬時に処理されているのは、みなさんがご存じのとおりです。
以上、あっさりと書きましたが、すごいことです。何度腰を抜かしても罰が当たることはないくらい驚くべき(場合によっては憂うべき)事態だと私は思います。
何度も腰を抜かさないように(場合によっては気が滅入らないように)、こうしたことは忘れて普段は気づかないように人はできているのだろう、とも思います。
人に「そっくり」なものは薄くてぺらぺら(場合によってはまばらでまだらですかすかしている)という話でした。三次元とか立体のものを短小軽薄化するのですから、その代償は払わなければなりません。
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なお、立体的な「そっくり」であるらしい三次元プリンターとか3Dプリンターについては私は知りません。
興味もあまりないので、わざわざ調べて、知らないことを書くことは遠慮しておきます。どちらかと言うと、私は蝋人形館に関心があります。
声、形・姿、動き、振り、感情
「似ている」と同じく、「そっくり」という言葉は漠然として曖昧です。
・AはBとCが似ている。
・AとBはCが似ている。
このように、Cをはっきりさせるべきだと私は考えています。
(拙文「似ている、そっくり、同じ(世界は言葉でできている)」より)
なにが、あるいはどこが「そっくり」なのかを、はっきりさせて話すのがいいと思います。
・声が人にそっくり
これはかなり進歩してきたようです。いまではデジタルとかを利用して、かなり忠実な音声の再生が可能になっていると言います。一方でアナログには負ける部分もあるという話も見聞きします。
中途の重度難聴者(重度の中途難聴者)である私には、その微妙な差が体感できなくて残念です。
何かの声(音)が人の声と「同じ」はありえません(人の声以外には)。「同じ」はハードルが高いのです。人の声に「そっくり」な音声で世界は満ち満ちているとは言えそうです。
合成音やスピーカーを通した音声を含めての話です。補聴器を装用している私は、合成された音と声(機械のつくった音声)を聞いて生活しています。
・形・姿が人にそっくり
人形(広義の「ひとがた・ひとかた」)も大昔に比べれば、かなり進歩してきたのではないでしょうか。人間に「そっくり」な人形というよりも、人体に「そっくり」という感じの精巧なつくりのものが見られます。
蝋人形がそうです。教育用とか医療用の人体模型もそうでしょう。
ただし、蝋人形は、外が「そっくり」で、中がすかすかだったりまだらだったりしても一向にかまいませんが、中まである程度「そっくり」(材質や機能が)でなければならないものもあります。
連想するのはサイボーグという言葉ですが、その実体や実態は知らないので、ウィキペディアさんに丸投げします。
やはり、中まである程度「そっくり」(材質や機能が)なイメージの人造人間も丸投げします。
サイボーグも人造人間も奥が深そうですね。私は「知るよりも考える。考えるよりも思う」派なので、深入りは遠慮しておきます。根がちゃらんぽらんなのです。
・動きが人にそっくり
これまでにnoteで書いたことを振りかえってみると、私は形や姿よりも動きに「そっくり」を感じたり求めているようです。
「ようです」と他人事みたいに言っているのは、記憶力が著しく衰えてきて、自分が書いたはずのことが自分の書いたことだと感じられないからにほかなりません。
それはさておき、たとえば、こんなことを書いています。
個人的には、形よりも動きに注目したいです。
いま注目と言いましたが、人は目という点で動きを追います。目で追い、目線を走らせるわけです。点が動きを追うのですから、限界があります。その意味で、目は動きを追うのが苦手だとも言えるでしょう。
形よりも動きのほうがリアルに怖さをイメージできそうな気がします。そもそも、動きのない顔よりも動く表情、姿や格好よりも仕草や身振り、形体よりも動作のほうが生々しいし不気味じゃないですか? 動きは予想がつかなくて不安になります。
つまり、固定よりも変化を恐れるのです。
(拙文「たった一つの点、一回だけの線」より)
要するに、顔よりも表情、姿よりも仕草や動作に、「そっくり」を私は求めているみたいです。
「固定よりも変化を恐れる」を翻訳すると、形や姿(固定)よりも動きや振り(変化)に「そっくり」を感じて心がかき乱される(もよおす)、となります。
たとえば、仮にUFOを目撃したとします。その形状よりも、その飛び方や動きを見て、「これは人にそっくりな生き物か機械が操縦しているのではないか」とか、「これは人とは意思疎通のできなさそうな存在が乗っているのではないか」なんて感じるという意味です。
・振りが人にそっくり
「振り」というのは、身振りや仕草や表情といった広義の「動き」だと言えます。
ただし、「動き」だけでなく、そこに「何か」が加わっているのですが、その「何か」はなかなか言葉にしにくいのです。
どんな言葉をつかっても語弊があり、ずれを感じます。そんなときには、言葉を列挙するがいちばんです。
魂とは、感情、意図、意思、意志、意向、意識、意味、メッセージなどに見えるものと私はイメージしています。つまり、人以外の生物や無生物に宿ると人が考える場合には擬人と言えます。
私は、いま上で列挙したようなものが森羅万象に宿っている気がします。森羅万象の一部である言葉や文字にもです。
自分たち人間と同じく魂が宿っていると見なすからこそ、人間は自然界にいる生物たちや無生物たちを名づけ、その名で呼びかけ、さらには話しかけるのです。つまり、擬人です。
(拙文「「似ている」と「真似ている」は似ている」より)
上の引用文の冒頭で列挙している言葉が、私のいだく「振り」のイメージです。
そうしたものを「何か」に感じるとすれば、その「何か」は人に「そっくり」と言えるでしょう。その「何か」は人以外のものであるはずですから、不気味でもあります。
ここで言う「振り」とは「魂があるという振り」なのです。
*感情が人にそっくり
人以外の「何か」に、人にそっくりな感情を感じる。これは人による擬人以外の何ものでもありません。
まさに感情移入です。
動植物、無生物、人工物、自然物といった区別に関係なく、人は人以外の「何か」に感情を見たり感じることがあります。
人にそっくりな感情を人以外の「何か」に感じたとき、人は話しかけます。
声を掛ける、呼び掛ける、話し掛ける
掛けるは何かに何かを掛けることで、かかわりを持つことです。
*
かける
かかる
かかわる
掛・懸・賭・架・かける
掛・懸・係・架・繋・かかる
係・関・拘・かかわる
日本国語大辞典と広辞苑を参考にして和語と漢字を並べてみると、大和言葉系と漢語系という二つの系列の言葉が、かける、かかる、かかわる様子が見て取れます。
言葉の中に言葉があるのです。
*
話を戻します。
声を掛ける、呼び掛ける、話し掛ける
ここまで行くと、その人以外の「何か」は「人にそっくり」どころか、「人と同じ」とか「人と同等」と言ってもかまわないと思います。
次の見出しの章では、その観点からお話しします。
雰囲気・気配、知能・知識・知性
雰囲気や気配が人にそっくり
人とそっくりな知能と知識と知性を備えているように感じる
人以外の「何か」が、です。
似ている、そっくり、同じ、同一
似ている < そっくり < 同じ < 同一
*
・似ている、そっくり:印象・感想・感情・雰囲気・気配
・同じ、同一 :はかる、「はかり」に「はかる」を代行してもらう
「似ている」「そっくり」と「同じ」「同一」とは、度合いの強さ、つまり程度で区分されるものではなく、質的に異なっています。
「似ている」「そっくり」は人が勝手にいだく印象ですが、「同じ」「同一」は人では判断できないのです。
(平たく言うと、人は「似ている」と「真似ている」(両者は「似ている」)の区別が苦手である、です。)
これは、「人に似ている」、「人にそっくり」、「人と同じ」というフレーズで見てみると体感しやすいかもしれません。
何かが人と「同じ」はありえない(「同じ」だったら、それは人です)。ありえないから、その代わりに「似ている」や「そっくり」で、何かが人と「同じ」という叶わぬ夢を、人は追いつづける――。
そんな気がしてなりません。
(人が、なぜ、人以外の何かに人と「同じ」を求めるのかと言えば、人はその何かになりたいからにほかなりません。人は自分以外の自分を求めているのです。
おそらく、これは赤ちゃんのときに体験した、鏡の中の自分との別れが原因です。目の前の「そっくり」は「同じ」ではない、「そっくり」は「自分」ではないという衝撃の体験です。
その体験がトラウマになっているのにちがいありません。
このことについては、いつか記事に書きます。私にとっては大切なテーマです。)
*
以下は、私がよくつかう見取り図(まとめ)です。
*わける:人が得意な行為。ヒトの歴史は「わける」の連続。分割、分離、別離、分断、分類、区別、差別、分岐、分別、分解、分節、分担、分裂、分配、分け前、身分、親分・子分。言葉と文字の基本的な身振りは「わける」。つかう道具は、縄と刃物とペン。線を引き、切り、しるす。
*わかる:人が自分は得意だと思っている行為。「わける」は見えるが、「わかる」は見えない。見えないから、その実態も成果も確認できない。お思いと同様に共有できない。行為や行動と言うよりも観念。一人ひとりのいだく思い込み。解釈、判断、判定、判決、理解、誤解、解脱、悟り。
*はかる:人が最も苦手とする行為。人は、「はかる」ための道具・器械・機械・システム(広義の「はかり」)をつくり、そうした物たちに、外部委託(外注)している。計測、計数、計算、計量、測定、観測。とりわけ機械やシステムは高速かつ正確に「はかる」。誤差やエラーが起きることもある。
人は「はかる」のが苦手なので、「はかる」を「はかり」に丸投げしているのです。
そう考えるとするなら、
・人が人以外の「何か」に、
・その雰囲気や気配が人にそっくりである、
とか、
・人とそっくりな知能と知識と知性を備えているように感じる
のは、独り相撲の様相を呈してこないでしょうか。
たとえば、人工物である高性能の「はかり」に、人にそっくりな雰囲気や気配を感じる、あるいは人とそっくりな知能と知識と知性を備えているように感じるとすれば、です。
その「感じる」ことの正否(または成否)の「判断」を、高性能の「はかり」にはかってもらう。つまり、「はかる」を「はかり」に外注(丸投げ)するというのも名案かもしれません。
ただし、それが名案というよりも迷案かもしれない可能性は否定できません。また、こうした「めいあん」が人の明暗を分けないとも言えない気がしてなりません。
画面を前にして催す「そっくり」感
上で書いたこと(余談でした話でしたが)をくり返します。
いずれにせよ、「そっくり」(影・姿・像・陰・幻)と「面・平面」と「もよおす・催す(かきたてる/おこなう)・してしまう」には親和性がありそうです。
いつか記事にしてみる価値はあるかもしれません。勝手にしろ、ですよね。失礼しました。
今回の記事を書いているうちに、「いつか記事にしてみる」必要がなくなったようなので、画面を前にしてある感覚や感情を「もよおす・催す」という話をまとめてみます。
*
画面に映っている文字や文字列や文章を前にして、
・その雰囲気や気配が人にそっくりである、
とか、
・人にそっくりな知能と知識と知性を備えているように感じる
現象は起きているようです。
相手が人に「そっくり」だから、その人ではない相手(対象)と対話したり筆談したりもします(人類にとって初めての経験です)。つまり、
・声を掛ける、呼び掛ける、話し掛ける
が既に起こっています。
話し掛けたくなる。つまり、もよおす・してしまうのです。おそらく、また、もよおします・してしまいます。依存性があり、嗜癖につながりそうです。
かける
かかる
かかわる
「掛ける」から文字を介しての「かかわりあい=関係」が生まれます(人類にとって初めての経験です、人と「そっくり」な何かとの、文字という「同じ」を介しての対話・筆談・文通です)。
リアクション(振り)があっての「掛ける」なのです。これが「賭ける」ではないことを祈るばかりです。
いつものことではありますが、掛け言葉の多い文章で、失礼しました。
人にそっくり
話は変わりますが、私は文字こそが、人のつくった最強の「そっくり」だと思います。冗談ではなく、です。
なにしろ、文字は人のつくった完璧な複製ですから、誰が書いても、何が書いても(もちろん「はかり」が書いても)、「そっくり」どころか「同じ」とされるのです。
相手(対象)が振りの名手(人よりも人の振りが上手いのです)であれば、「似ている」と「そっくり」の世界に住んでいる人は、「同じ」かどうかが判断できません。頭では「同じ」ではないと知識として知ってはいても、筆談中に混乱してしまう(もおしてしまう)という意味です。
「そっくり」を「同じ」と「同一」視(混同)してしまいます。
似ている、そっくり、同じ、同一
*
以下はこれまでに何度か記事で書いたフレーズです。
猫は、猫ではなく、猫に似ていないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかり通っている。
(拙文「空を飛ぶ猫、言葉を話す猫、長靴をはいた猫」より)
何の話かというと、猫という文字のことです。猫というものとぜんぜん「似ていない」のに猫と「同じ」だとされているのですよ。
混同と同一視が制度と習慣になっているなんて、すごい曲芸だと思います。文字を、人のつくった最強の「そっくり」だと言わずして何と言えばいいのでしょう。
猫(という文字)は、猫ではなく、猫に似ていないにもかかわらず、猫だとされて、猫としてまかり通っている。
今回は、公平を期して、次のように書きます。
人は、人ではなく、人に似ていないにもかかわらず、人だとされて、人としてまかり通っている、と。
なお、上で述べた「混同と同一視が制度と習慣になっている、すごい曲芸」を、物と音と文字を一致させる「三位一体」と呼んでいます。⇒「「これは同じです」」&「声の力、文字の力、事物の力」
*
人にそっくりなものは人です。これ以外にありえません。
このギャグが猫に通じないのが残念でなりません。
いや、これでいいのです。猫には、人だけに人を感じていてほしいと私は思います。人という文字に人を感じるのは、人(そして人よりも人の振りの上手い「はかり」も?)だけで十分です。
