自分は動いていないのに移っている、自分は動かしていないのに移している
水面に姿が映る。地面や塀に影が映る。写真に姿が写る。硝子戸に影が写る。「うつる・うつす」は、それだけではありません。
乗り物に乗れば、自分は動いていないのに自分が移っている。手のひらの板をいじれば、自分は動かしていないのに何かを移している――。私たちはそうした不思議な感覚のなかで生きています。
「指一本触れていない」という言い回しがありますが、そうした不可思議な感覚は、むしろ指で触れたり指を動かすことで起きているのです。
ということで、今回は「指で「うつす」」の続きですが、話をもっと広げたいと思います。
「移す」の代わりに「写す」と「映す」を用いる
世界は「写す・写る」と「映す・映る」に満ちています。とりわけ現代というか現在はそうです。いま、あなたと私をつないでいるのも「写す・写る」と「映す・映る」ですね。
お察しのとおり、インターネットを介しての画面上でのお付き合いのことですが、これは直接あなたのところへと私が移動する、つまり「移る」ことが容易にできないための次善の措置とも言えるでしょう。
身も蓋もない言い方をしましたが、「移す」の代わりに「写す」と「映す」を用いるという行為のことです。
これで「自分が動いていないのに移っている」が可能になります。
でも、この「自分が動いていないのに移っている」というのは、実はいま始まった話ではないのです。
自分は動いていないのに移っている
人が自力ではなく、馬や牛の背中に「乗る」とか、あるいは舟や荷車を含む何らかの乗り物に「乗る」ようになったとき既に、「自分が動いていないのに移っている」が始まっていたのです。
それからとてつもなく長い時間が過ぎて、今度は新たな「自分が動いていないのに移っている」が、じょじょに始まり広まっていきました――。
なんて、見てもないのに語る私は騙りです。語るに落ちてしまいました。
ついでに、さらなる駄洒落を言わせてもらいますが、乗り物に「乗る」ことによって「自分が動いていないのに移っている」が始まったように、平面に「載る」ことによって新手の「自分が動いていないのに移っている」が始まったのです。
乗る
載る
似る(「のる」とも読みます)
似ています。「乗る」と「載る」は辞書では同じ見出しのところにあるので、同源みたいです。
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「移る・移す・遷る・遷す」 ⇒ 乗る・乗り物に乗る
「写る・写す・映る・映す」 ⇒ 載る・平面に載る
いまや世界がスマホの画面に載り、そのスマホが手乗り文鳥みたいに手のひらにちょこんと乗ってくれる時代になったのです。
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世界を見た人などいないのです。それなのに、見ていると錯覚させるのが映像ではないでしょうか?
とりわけネット上で、ほぼ瞬時にほぼ同時に、投稿=配信=拡散=複製=保存されつつある映像のことです。
大切なことなので、くり返します。
ほぼ瞬時にほぼ同時に、投稿=配信=拡散=複製=保存されつつある映像――。こんな映像に見入っていれば、世界を見ていると錯覚しても無理はありません。
錯覚するのが人情というものでしょう。ここにも錯覚しまくっている者がひとりいます。
今や、映像は映っているのではなく、移っているのです。乗り移っていると言うべきでしょう。取り憑いているのです。
(拙文「鏡がある限り、文字がある限り」より)
写る・映る・載る
パソコンや端末の画面に映っている(載っている)ものは、移すことがかなわないから、映している(載っている)のです。このさい音声も映っている(載っている)と考えましょう。
音声もデジタル化されたデータとして複製される(写される・うつされる)からです。
複製・複写・転写
現在では、音声を伴わない動画は考えにくくなっています。写真や映画などの広義の録画と撮影の歴史と、レコードや磁気テープなどの広義の録音の歴史とのあいだに、ずれや齟齬があったのは興味深い事実です。
両者が同時に並行して発展して普及したのではないという意味です。別々に進化したという印象を受けます。今日の感覚からすると意外だと言わざるをえません。
いずれにせよ、録画・撮影・録音は複製です。複製を媒体として再現や再生をするためには装置や電力を消費する機械が必要なことも興味深いです。そう考えると写真はきわめてシンプルな複製だと言わざるをえません。
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まとめると以下のようになるでしょう。
写る・映る・載る
写す・映す・載せる
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あるものがそのまま移動するのではなく、映ったり、写ったりするというのは、ネット上では「(一回)投稿・配信する=(多量に)複製する=(世界中に)拡散する」という形で、ほぼ同時かつ瞬時に起こっています。
しかも、いったん投稿されたものはどこかに情報とかデータとして保存されているみたいなのですが、詳しいことは知りません。
投稿=配信=複製=拡散=保存
ある意味恐ろしいですね。削除しても残っているとすれば、です。
遠くにある事物を複製という形で手に入れたり、見聞きできる仕組み
かつては、「写す・写る」が主流の時代が長く続いていたようです。写経、写本、筆写、印刷、写真、複写機が頭に浮かびます。
写すのは大変だっただろうと想像します。多大な時間と労力を要したにちがいありません。
写真と映画とテレビとコピー機が登場したあたりから、「写す・写る」と「映す・映る」の境が曖昧になり、さらには不明になったようです。
この過程と並行して、「本物・実物」と「偽物・似たもの・似せたもの・にせもの」の境も曖昧で不明になって現在に至ります。
いずれにせよ、直接どこかに出かけていかなくても、つまり「移動させる・移動する・移す・移る」をしなくても、遠くにある事物(本物・実物)を複製(偽物・似たもの・似せたもの・にせもの)という形で手に入れたり、見聞きできる仕組みが次第にできあがって、今日に至るわけです。
tele-語について
telecope(望遠鏡)、telegram・telegraph(電信や電報)、 telephone(電話)、television(テレビ)の tele- が、 telepathy (テレパシー)や telekinesis(テレキネシス・念力)や telegnosis(透視力・千里眼)や teleportation(テレポテーション・瞬間移動)――と同じく「遠い」という意味を持つのは象徴的です。
いま挙げたどれもが「遠く」を「近く」に「知覚する」仕組みであり、「写す・写る」と「映す・映る」であることに注目しましょう。
以上の語を私は勝手に「tele-語」と呼んでいます。いつか「tele-語」についての記事を書いてみたいです。英語の勉強にもなります。
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「遠く(tele-)」を「近く」に――。「写す・写る」と「映す・映る」を「移す・移る」に――。
それにしても、すごいことだし、考えようによっては不遜で恐ろしい仕組みというか仕掛けを人類は手にしたものですね。人類がはまる(嗜癖する・依存する)のは当然でしょう。
これは、人類のオブセッションであり悲願であり、究極的にはかなわぬ夢という意味で彼岸でもあると思います。その悲願を実現し、彼岸に至るための鍵(魔法)が、「代用・代理・代表」なのです。
ある意味、テレパシー、テレキネシス、透視・千里眼、そしてテレポテーションは実現していると言えなくもありません。
「本物や実物」を「偽物や似たものや似せたもの」で代用する
(一回きりの)投稿・配信、(多量の)複製、(世界的規模の)拡散。これがほぼ同時に、しかも瞬時におこなわれている。
要するに、「本物や実物」を「偽物や似たものや似せたもの」で代用するわけです。錯覚とも言えます。身も蓋もない言い方ですけど。
芸術や科学の基本は「写す」と「映す」ではないでしょうか。人類における芸術と科学の起源と、個人レベルでの芸術と科学の初めの一歩には、「なぞる」と「写す」と「映す」という動作がある気がします。
はるか遠くにもすぐ近くにも、大昔にも今ここにも、「なぞる・写す・映す」があるということです。
たどり着けないもの、かなたにあるもの、「いまここでは目に見えないもの」を「なぞろう」とする代償行為なのかもしれません。
自分は動かないのに「何か」が移る、自分は動かないで「何か」を移す
赤ちゃんのやっていることと同じではないですか?
目で追い、眼差しを向け、目で「なぞる」――。届かないものに、手を伸ばし、指と手でなぞるのです。
赤ちゃんの歩み(成長)は、人類の歩み(進化)とぴったり重なります。「なぞる」と「うつす」は遠くはなく近いと思います。
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ここで、「なぞる」が「うつす」へと、どのように移り変わっていくのかを見てみましょう。
赤ちゃんが立つようになり行動範囲が広くなるにつれて、「なぞる」は「なぜる」や「なでる」へと変わっていきます。
やがて「口にする」ようになります。それが「うつす」です。「しゃぶる」と「しゃべる」です。物を口にし、言を口にするようになるのです。
・なぞる ⇒ なぜる・なでる・撫でる
・口にする ⇒ しゃぶる・しゃべる
・口にうつす ⇒ 言葉にうつす・言葉を話す
このようにして、赤ちゃんにとって「遠く」が「近く」に変わっていきます。
上のどの場合にも、指が大きな役割を果たしているのは興味深い事実です。なお、赤ちゃんにとって、指と舌は同じです。両者を区別しない世界にいる気がします。
・遠くが近くに変わる
⇒ 遠くが近くに代わる
⇒ 遠くの代りに近くを「もちいる」
⇒ 言語の習得(「遠く」を「近く」に置き換える)
⇒ 世界を言葉にうつす
言語の使用とは、世界の代わりに言葉を用いること(世界を言葉に置き換えること・世界を言葉にうつすこと)にほかなりません。
なお、「もちいる・用いる」は「持ち率る」(広辞苑より)、つまり、手で持って「ひきいる・率いる」だと考えられます。
「ひきいる」なんて、すごいですよね。手と指で「持つ」が「ひきいる」に転じるのですから。これが用いるであり使うなのです。
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このようにして、赤ちゃんは、自分は動かないのに「何か」を移しているという感覚をおぼろげに身につけ、さらには、自分は動かずに「何か」を移すという行動へと移行していくと言えるでしょう。
・自分は動かないのに移している(感覚)
↓
・自分は動かずに「何か」を移す(行動)
両者の差はきわめて大きいです。この二つの感覚と行動のあいだにあるのが成長なのでしょう。
その過程で重要な役割を演じるのが指(特に人差指)と言葉なのです。赤ちゃんが言葉を覚えることによって、「自分は動かずに「何か」を移す」という行動は飛躍的に拡大するにちがいありません。
そうです。指図するのです。指一本で指示するのです。
指図(さしず)、指示、人差指、指揮、指令、指導
こんなイメージです。
(拙文「指で「うつす」より)
指で対象を指し示しながら、言葉で指図することを、赤ちゃんと幼児は学んでいくのです。
指示・指図。
やがて成長して成人となれば、指導・指揮・指令するようになるでしょう。そうしたことが原因で、時には指弾されることもあるにちがいありません。
指で差すだけでなく、指で差されたり突かれたり弾かれたりすることもあるのですね。
「代わりに」は魔法の言葉
「遠く(遠いもの)」と「近く(近いもの)」をつなぐのが「代わりに」という魔法の言葉なのではないでしょうか?
・厚いものの代わりに薄いもので済ます。
・深いものの代わりに浅いもので済ます。
・太いものの代わりに細いもので済ます。
・大きいものの代わりに小さいもので済ます。
・重いものの代わりに軽いもので済ます。
・長いものの代わりに短いもので済ます。
以上のように、とてつもなく大きなものである世界は、コンパクトでシンプルなものへと転じます。
*
・人間の代わりに人間でないもので済ます。
・人間でないものの代わりに人間のようなもので済ます。
上の二つの例が、現在人類の直面している深刻かつ大きな問題であるのは、みなさんご存じのとおりです。
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・遠いものの「代わりに」近いもので済ます。
・遠くを「知覚する」。
・遠くを「近くする」。
以上の例を挙げます。
絵、遠近法、地図、世界地図、地球儀、年表、言葉(音、文字、表情、身振り、しるし)、放送、報道、写真、レントゲン、顕微鏡、望遠鏡、電話、電報、放送、孫の手、糸電話、人生ゲーム、ゲーム、人形、キャラクター、小説、演劇、漫画、アニメ、ロボット、仮想現実、人工知能、生成AI、MRI、CT、遠隔操作、遠隔医療。
このように「本物や実物」(手の届かない、はるか遠くにあるもの)を「偽物や似たものや似せたもの」(身近にあるもの)で代用するというのは、すごい仕組みだと思います。
「偽物と似たものと似せたもの」のリアリティ
・「移す・移る」の代わりに「写す・写る」と「映す・映る」で「済ます」。
・本物と実物の代わりに偽物や似たものや似せたもので「我慢する」。
こんなふうに言えば罰が当たりそうです。「偽物と似たものと似せたもの」で、本物感と実物感を味わえれば、御の字というものでしょう。贅沢は言えません。
「偽物と似たものと似せたもの」のリアリティは馬鹿にならないからです。
複製の持つ、いや複製のもたらすと言うべきでしょうか、臨場感は半端ではありません。
数年前には口にするのも恥ずかしかった仮想現実や人工知能が、いまでは大手を振って取り上げられています。仮想が現実に、人工が知能になっているかのようです。
人にとって本物か偽物かはどうでもいいのではないか。人は現実よりも夢の中で生きたいのではないか。そんな気さえします。特に最近は。
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