あう・あわない、あえない・あいたい
名詞は生まれたあとに私が出会った異物だと思うことがあります。出会ってしまったのです。出会った以上、出会う前には戻れないと考えられます。名詞は私が生まれたときにすでにあったことは事実です。以来、事物の名前を口や指でなぞってまねてまなんでうつし、現在に至ります。
いっぽう、動詞は生まれる前から私のなかにずっとあり続けている気がします。もちろん、これは私の個人的な思いでしかありません。
人が言葉と文字から離れられないのは、ないのにある、でないのにであるような振りをしてくれるからだろう。そして、人はその振りをなぞる。
ひょっとして言葉と文字とは関係なく、振りは誰が生まれたときにも身のまわりにあって、人はそれを言葉と出会う前からなぞってまねていたのではないか。「〇〇ごっこ」の「ごっこ」。It's the name of the game.
なぞってまねる。まねてまなぶ。まなんでうつす。うつしてひろめて、つたえる。
(拙文「【散文】名詞と動詞」より)
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これもまた個人的な思いでしかないのですけど、私は動詞を学んだという記憶がありません。なんとなく覚えた気がします。気がついたら覚えていたという感じ。動詞を知識として学んだ記憶としては、国語の授業で活用表といっしょに教わったものですけど、私はあれが苦手でした。苦手どころか苦痛だったと言うべきでしょう。
なんで「〇〇形」とかいう名前を、わざわざ付けなければならないのか? ずいぶん腹を立てたのを思いだします。いま思うと、すでに身に付いていることに、もっともらしい名前を付けるのが理不尽に感じられたのかもしれません。
ただし、ひらがなで書ける動詞に漢字を当てる勉強はしぶしぶながらも、それなりに一生懸命にやっていました。いわゆる書き取りですね。「うつす、移す、写す、映す」というふうに。おかげさまで、いまでは大いに役立っています。このフレーズを note の記事に何度書いたことやら。
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何を言いたいのかと申しますと、私が文字として(つまり漢字として)学んできたことのほとんどが名詞ではなかったか、という思いなのです(哲学するとか視覚化するとか判明するとか理解するとか解釈するとか解脱するとか造語するといった「名詞+する」は別ですよ)。動詞について言えば、すでに知っていることに、ひらがな(音)と漢字を当てたという記憶しかありません。いまになって覚えば、です。
動詞を熱心に辞書で引くようになったのは、大学在学中に翻訳の勉強を始めた頃からでした。翻訳は、ある意味と別の意味とに徹底してこだわる作業です。そうした事情がなかったら、まさか動詞を辞書でいちいち調べるなんてことはやっていない気がします。ましてや辞書を読むとか辞書を眺めるなんて、ぜったいにやっていないだろうと断言できます。
でもやっているのです。それが現在では老後の趣味になっています。
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あう・あわない、あえない・あいたい。
これが今回の記事のタイトルですが、まるで歌詞みたいですね。とくに演歌の歌詞にありそう。
会う・逢う、会わない・逢わない、会えない・逢えない、会いたい・逢いたい、なんて漢字が頭に浮びます。字面を眺めていると、なんだかじーんと来ました。自分で書いておいてじーんと来るなんて世話ない話ですけど。文字は人の外にある異物。いずれにせよ、こんな私にもいろいろな思い出があるのです。
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私が生まれたときに、すでに言葉はありました。この場合の言葉とは語と音のことです。それを日常生活で聞いて覚えている(耳にした音をなぞって真似ている)さなかに、おもに学校で文字(ひらがな・カタカナ・漢字・アルファベット)を学ぶ(文字の形を手指でなぞって真似る)ようになりました。まねる・真似る、まねぶ・学ぶ、まなぶ・学ぶ、です。
そうやって私は、言葉と文字とに出会ってしまったのです。それは同時に意味との出会いでもあったはずです。言葉と文字は意味ありげな空の器。中身ありげなうつろなうつわ。なぞるしかないなぞ。なぞるだけのなぞなぞ。
あう、会う、出会う。あう、あってしまう、あってしまった。
その私がどういうわけか、事物と言葉と文字が合わない(噛み合わない)と感じるようになってしまいました。猫というものと猫という音と猫という文字が噛み合っていないのではないか、と。
あわない、合わない、噛み合わない。どうしてもあわない、なぜかあわない、ぜんぜんあわない。
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いま述べた齟齬にまつわる感覚は、大学に入ってフランス文学を勉強するようになってからいだくようになったのだろうと思います。当時のフランスではそんな意味のことを言ったり書いている人たちが何人もいた(まだ存命でした)のです。その頃の思い出は「知らないものについて読む」という記事に固有名詞を挙げて書きましたので、興味のある方はお読みください。
以上が「あう・あわない、あえない・あいたい」のうちの、「あう・会う・出会う」と「あわない・合わない・噛み合わない」についての説明というかお話でした。
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今度は「あえない・あいたい」をめぐってのお話をします。
大学を卒業した頃の私は言葉と文字に嫌気がさしていました。言葉と文字にまとわりついている意味というものが嫌で嫌でたまらなくなったのです。思い詰めていたと言えます。当時は似たような症状の学生がまわりいた記憶があります。
私の場合には、文字と意味を切り離したい気持ちが強くて、印刷会社に就職し写植の技術を身に付けたいと考えました。文字の形と文章の形に強く惹かれるようになったのです。ブックデザインやタイポグラフィに関心を持ち、独学で活字のデザインの勉強もしていました。でも、結局は挫折しました。詳しいことは、もし体力と気力があれば、いつか記事にしてみたいと思ってはいますが。
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話をはしょりますが、読書もせず、人とあまり話もしないで、文字と文章の形にだけ目を向けていた時期が続いていました。意味のある言葉と文字に「会えない」状態を意識的につくったつもりでいたのですが、どういうわけか、きゅうに言葉と文字に「会いたい」と思うようになったのです。
むしょうに恋しくなりました。意味のある言葉と文字から懸命に遠ざかろうとしていたさなかのことなのですから、とつぜん湧いた自分の気持ちがよくわかりませんでした。こんなふうに書いていると、いかにも嘘くさい話だなあと思いますが、思い出話とはそういうものなのかもしれません。後付けです。
自分の若かった時期とその時代を美化しているなあとも感じますが、あえて言葉と文字にすると、そういう話になります。
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あえない、あいたい。会えない、会いたい。逢えない、逢いたい。
そういうことなのだろうと思います。出会ってしまったのですから。
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