【散文】名詞と動詞
時間とは何かと問われれば、言葉であり文字だと私は答えたい。存在とは何かと問われれば、存在とは言葉であり文字だと答えたい。無とは何かと問われれば、無とは言葉と文字だと答えたい。
時間も存在も無も無意味も愛も猫も自分も世界も平和も、ぜんぶ言葉であり文字だと私は思う。
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言葉と文字は私が生まれたときにすでにあった。言葉と文字を、口と指で、なんどもなんどもなぞってまねてまなびうつしてきた。いまもそれは続いている。
自分がまなびうつしてきたのは空の器ではないかと思うことがある。意味はそのときどきでうつりかわってしまう。意味は移ろいのなかにある。各人がその時その時の文脈におうじて心のなかでいだくものだからだろう。
言葉と文字はうつろなうつわ。そこには意味はない。それは意味ではない。意味は人それぞれが心のなかでいだくもの。
辞書に載っているのは語義(語についての説明)であって意味ではない。言葉であり文字。意味ありげな言葉であり文字と言うべきか。
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人はまず言葉をつくったにちがいない。
言葉をつくってから、その言葉をつかって「〇〇(〇〇には言葉が入る)とは何だろう?」と考え、「〇〇って何だろう?」とか「〇〇って何ですか?」と誰かに尋ねた。
それがえんえんと続いて今日にいたる。〇〇が何かについては結論が出ていない。これらも出ないにちがいない。
まず言葉。意味はあとで(意味は後付けという意味)、ゆっくりじっくりと、えんえんと。
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時間、存在、無、無意味、愛、猫、自分、世界、平和。
名詞は線引きして分ける。その線に沿って切り取る。その結果を固定化する。名詞は自信ありげな顔をしている。
それはそこには「ない」のに「ある」という顔をしている。それはそれ「ではない」のに「である」と言っているように見える。
人は漠然とした不安と恐怖をつねにかかえている生き物。だから、自信ありげな顔をした意味ありげな物に取りついて、ついていく。自信ありげな顔をした者にもついていく。
「〇〇ありげ」で人が惹かれるのは、〇〇ではなく「ありげ」。「〇〇っぽさ」なら「っぽさ」。「〇〇らしさ」なら「らしさ」。「〇〇感」なら「感」。「〇〇もどき」なら「もどき」。
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自然界には名詞はない。地図に描かれた線が大地にないように自然界には名詞がない。
私は名詞を見たことがない。地図に引かれている線も境も見たことがない。
名詞という文字ならいま目の前にある。名詞という文字なら見える。名詞という言葉なら、目の前の文字を音読すれば、口から出ていく。出たとたんに消える。
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私は動詞が好きだ。自然界で動詞を見たことはないけど、動きがあちこちにあるのは見えるし感じる。
とくに好きなのが、うごく、ゆれる、ながれる、ながされる、はこぶ、はこばれる。外に出てあたりを見まわすと、かならずこうした動きを目にする。
それらの動きは私のなかにもあるような気がする。そんな気がするときの私は嬉しい。とても嬉しい。
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動詞にもけっこうややこしいところがある。
たとえば、うつる、うつすは、じつにややこしい。どうややこしいかは、うつるとうつすを演じてみれば分かる。
うつるとうつすという言葉を身振りという動きにうつしてみるとよく分かる。分からなくなるのだ。分からなくなるのが分かると言うべきか。
うつる、うつす。移る、写る、映る、遷る、移す、写す、映す、遷す。
うつるとうつすを漢字という文字で分けてみると、そのややこしさを感じ分けることができる。みるもそうだ。
みる、見る、看る、視る、観る、覧る、診る。
これらの動きを身振りで演じようとすると、動きがとまってしまう。頭で考えるために身体がお留守になってしまうのかもしれない。
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それでも私は動詞が好きだ。その振りを演じた気分になれるところがいい。目をつむって、その動きをイメージすると、その振りにふれている気分になれる。
触れる、振れる、狂れる。
昼間の夢うつつや寝入り際によくそんなことをする。最期の際にもやってみたいと思うことがある。
なくなる、いなくなる、きえる、つきる、はてる。
その振りを演じるのは意外と難しい。あれこれイメージしているうちに寝入ってしまう。その意味では役に立つし、そんなふうにきえたいと思う。
名詞をイメージしようとすると、そうはいかない。動詞が移ろいのなかにあるとすれば、名詞はやたら固定しようとする。
しつこくて往生際が悪いのだ。だから名詞をイメージしようとすると目がさえてしまって寝入ることができない。
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名詞は、線引きして分ける、その線に沿って切り取る、そしてその結果を固定化する。
動詞もまた線引きして分ける、線に沿って切り取る、そしてその結果を固定化する点では変わらない。名詞と動詞というふうに線引きして分けるから、こうなるのだろう。
そもそも言葉を話すとか文字を書くことは世界を線引きして分けること。自然と大地を線引きし分けるから言葉が話せるし文字が書ける。それで分かったことにする。
わけるたわけがわかったとたわける。自分を見ていると、つくづくそう思う。
わけるを身振りで演じようとするとわりと簡単なのに気づく。人が得意な動作だからだろう。
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わけるに比べるとわかるの動作は意外とむずかしい。わかるは動作ではないらしい。わかったかどうかは見ていてもわからない。
わかるなんて言葉にし文字にするから、わかるに実体があるように思えてしまう。それが言葉と文字のすごいところ。
名詞にし漢字にすると、さらに意味ありげで自信ありげな顔が見える。解釈、判断、判定、判決、判明、理解、正解、誤解、解脱、悟り。
〇〇ではなく「ありげ」。「〇〇っぽさ」の「っぽさ」。「〇〇らしさ」の「らしさ」。「〇〇感」の「感」。「〇〇もどき」の「もどき」。「〇〇ごっこ」の「ごっこ」。
人が言葉と文字から離れられないのは、ないのにある、でないのにであるような振りをしてくれるからだろう。そして、人はその振りをなぞる。
ひょっとして言葉と文字とは関係なく、振りは誰が生まれたときにも身のまわりにあって、人はそれを言葉と出会う前からなぞってまねていたのではないか。「〇〇ごっこ」の「ごっこ」。It's the name of the game.
なぞってまねる。まねてまなぶ。まなんでうつす。うつしてひろめて、つたえる。
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言葉が意味ありげな音に聞こえることがある。文字が意味ありげな模様に見えることがある。
事物に付けられた名前が仮の名前に思えることがある。世界が世界の振りをした異物に見えることがある。
「〇〇ありげ」の「ありげ」、「〇〇っぽさ」の「っぽさ」、「〇〇らしさ」の「らしさ」、「〇〇感」の「感」、「〇〇もどき」の「もどき」、「〇〇ごっこ」の「ごっこ」、「〇〇ゲーム」の「ゲーム」、「〇〇プレイ」の「プレイ」。そうしたものが振りなのかもしれないと思うことがある。
そう聞こえたりそう見えたりそう思えたりそう思うのは私に問題があるからにちがいない。
振りと言葉と文字は私が生まれたときにすでにあった。振りと言葉と文字を、口と指と身体全体で、なんどもなんどもなぞってまねてまなびうつしてきた。いまもそれは続いている。
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今回の記事も「です・ます調」ではない文体で書きました(敬体・常体という言葉がしっくりこないのでこんな言い回しをしています)。この書き慣れない文体で書いていると人格が変わるような気がします。
方言をつかうのとつかわないとでは人格が変わるのと似ているかもしれません。敬語とくだけた口調でも、言えることと言えないことがあったりしますよね。文体によっても語れることと語れないことがありそうです。
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今回の記事のタイトルは「【散文】名詞と動詞」です。私の書く記事のほとんどが文字と言葉をテーマにしたものですが、じつは動詞が主役なのです。過去の記事のタイトルで動詞が前面に出ているものがあります。
「世界を知る/領る」、「うつる人、うつす人」、「型を壊す、型が壊れる」、「忘れる」、「動かす」、「つかれないものにつかれる」、「言葉は「出る」、文字は「現れる」」、「しゃぶるとしゃべるは似ている」、「わからないわけはわからない」、「はかるとわかる」、「なぞる、たどる、しるす」、「「写る・映る」ではなく「移る」」、「欠ける、書ける、欠ける」、「かける、かかる」、「「はかる」と「はかられる」のアンバランス、「えらぶ」と「えらばれる」のアンバランス」、「うつせないもの、うつしてはならないもの、うつせるものより大切なもの」、「「聞く」と「話す」のアンバランス、「読む」と「書く」のアンバランス、言葉と文字のアンバランス」
動詞には目に付かないという顕著な特徴があります。目立たないのが際立つのです。英語の conspicuous by one's absence (「ない」からかえって目立つ)という慣用句を連想します。
そこに「ある」にもかかわらず目立たないのですから、動詞が不憫に思えてなりません。いとおしいのです。
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私は文章を書くさいに動詞に頼ります。動詞にうながされ導かれて書くと言ってもいいくらいです。今回も思いきり動詞に頼って書いていますね。記事を書くときに私が動詞を頼りにするのは、なるべく難解であったり専門的な語をつかいたくないからです。
(難解な動詞とか専門的な動詞とか哲学的な動詞ってありますか? 名詞ならありそうです。そんな名詞をつかって造語することもできます。哲学する、脱構築する、分析する、解明する、解脱する、視覚化する、造語する、みたいに。「っぽさ」を演出したいとき以外は、できるだけ私は使用を避けますが。)
だから、私の記事では動詞に主役を演じてもらっています。なるべく、大和言葉(和語)の動詞です。うつる、うつす、わかる、はかる、わける、かく、かける、かかる、なんてずいぶんお世話になっています。
(本文でも触れましたが、動詞というか移ろいはつねに自分のなかにあるのを感じます。いっぽう、名詞というか事物の名前は自分の外にあるよう思えてなりません。きっと生まれたあとに出会った異物なのです。)
いずれにせよ、言葉と文字という名詞をテーマにしながら主役は動詞だというのは、確かに分かりにくい話だとは思いますけど(主語になれないからせめて主役にしてやりたいのです、今回はタイトルに載せて主題にもしました)、これは本心です。なお、本文で名詞を冷遇する形になったので、あとで慰めておきます。
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