義務教育を考え直す――日本共和制論 1/5

All eyes on 義務教育…


1. 義務教育の「義務」は誰の義務か

義務教育とは、誰の義務なのか。

この問いは、一見すると簡単に見える。日本国憲法第26条は、すべて国民に対して、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を課している。つまり、義務教育の義務は、子ども自身の義務ではない。親、保護者の義務である。子どもは教育を受ける権利を持つ。親は、子どもに普通教育を受けさせる義務を負う。国家は、その権利を制度として保障する。

実定法上は、まずそう整理される。

この整理には理由がある。子どもに「教育を受ける義務」があると言ってしまえば、学校に行けない子ども、学校に適応できない子ども、家庭や障害や貧困や精神的不調によって通学が困難な子どもを、義務不履行者として扱う危険が出る。それはおかしい。教育は、子どもを責めるための言葉であってはならない。

また、国家が教育を通じて子どもの思想、信条、人格、価値観を一方的に形成することへの警戒も必要である。これは日本ローカルな戦前嫌悪だけではない。もちろん日本では、戦前の国家教育への記憶が、教育と国家の関係を語るうえで大きな影を落としている。しかし、国家による思想形成への警戒は、近代立憲主義一般に含まれる。国家は強い。国家は制度を持つ。国家は教科書を作り、教師を配置し、学校を運営し、資格を与え、進路を左右する。その国家が、子どもの内心まで形成しようとするなら、それは危険である。

だから、教育を受ける権利、親の義務、国家の保障責任という整理には意味がある。

だが、それだけでは視野が狭い。

義務教育の「義務」を、親が子どもを学校に行かせる義務としてだけ理解すると、教育が持つもう一つの側面が消える。教育は、国家から個人を守るための権利であるだけではない。国家と社会が、次の成員を社会参加可能な存在へ育てる責任でもある。

ここを落とすと、義務教育は奇妙な制度になる。子どもには教育を受ける権利がある。親には学校に行かせる義務がある。国家には教育制度を整える責任がある。だが、その教育によって何を達成するのか、社会はその子どもをどこへ接続するのか、国家はその子どもをどこまで支えるのかが、曖昧なままになる。

その結果、教育は「自由」「個性」「主体性」「多様性」という語彙に流れていく。もちろん、それらの言葉自体が悪いわけではない。自由も個性も主体性も多様性も必要である。だが、それらの言葉が、子どもを社会に接続する責任から逃げるために使われるなら、それは教育ではない。

それは放置である。

この稿では、義務教育を、親の就学義務としてだけではなく、国家と社会の成員形成責任として読み直す。つまり、親の義務だけではない。国の役割だけでもない。社会が次の成員を育てる責任であり、子ども自身もまた、支援されながら公共世界へ参加していく過程である。ただし、それは子どもを義務不履行者として責めるという意味ではない。国家と社会が子どもを放置せず、子ども自身もまた、支援されながら公共世界へ入っていく制度として、義務教育を捉え直したい。

2. 近代公教育は、どこでもうまく解けていない

本稿は、日本の教育だけを特殊に批判するものではない。

むしろ、近代公教育そのものが抱える困難から出発する。

近代国家は、自由な個人を前提にする。だが、その自由な個人は、自然発生しない。読み書き、計算、制度理解、公共圏への参加能力、職業へ接続する能力を、公教育によって形成しなければならない。

ここに近代公教育の根本矛盾がある。

国家が教育を強く握れば、内心の自由、家庭の自由、思想信条の自由を侵す危険がある。国家が引けば、家庭環境、階層、地域、学校差、親の情報力、本人の偶然に子どもが委ねられる。測定すれば、ラベリングと固定化の危険がある。測定しなければ、困難も適性も才能も見えない。職業トラックを整備すれば、社会接続は強くなる。だが、早期分化と階層固定の危険が出る。個性や主体性を重んじれば、放置を自由と呼ぶ危険が出る。

近代公教育は、この矛盾をどこでも完全には解けていない。

フランスは、公教育の公共性を強く持っている。共和国の成員を形成する制度として教育を位置づける力がある。だが、その分だけ、専門職、継続評価、観察、進路指導に大きなコストがかかる。ドイツは、職業教育と労働市場の接続が強い。だが、早期分化が階層を固定するという批判もある。シンガポールは、測定と分岐を国家が実装する力が強い。だが、試験中心で硬くなりやすい。アメリカは、自由と平等の語彙が強く、知能測定への警戒も強い。だが、地域差、学校差、家庭差が残る。

日本だけが特殊に失敗しているわけではない。

だが、日本では、近代公教育の矛盾が、戦前国家教育への反動、GHQ以後のアメリカ型民主教育、米国由来の測定忌避、個性・主体性・自己決定の教育語彙、内申書と学力偏差値への依存と結びついて、独特の形を取っている。

だから、本稿の射程は二重である。

一方では、近代公教育一般が抱える矛盾を扱う。他方では、その矛盾が日本でどのように現れているかを扱う。

日本を特殊病理として語るのではない。近代公教育の普遍問題を、日本という症例を通じて見る。

3. 国家と社会は、子どもを放置してよいのか

前稿「日本共和制論 0/5」では、共和制を、国家元首の形式ではなく、国家を公共的実践として引き受ける態度として予告した。ここでは、それが具体的にはどういうことなのかを、まず義務教育から見ていく。

共和制とは、王を殺すことではない。大統領制を輸入することでもない。国家を、誰かのものでも、どこかの官僚機構のものでも、遠い権力のものでもなく、公共のものとして引き受けることである。res publica、すなわち公共のものとしての国家である。

この意味で考えるなら、教育は共和制の中心にある。

国家を公共的実践として引き受けるとは、税や安全保障や外交だけを語ることではない。次の世代をどのように社会へ迎え入れるのかを考えることでもある。子どもは、最初から市民ではない。法を理解し、言葉を使い、仕事をし、他者と関わり、制度を利用し、制度を批判し、公共圏に参加できる存在として、生まれてくるわけではない。

子どもは育てられなければならない。

この「育てる」は、内心を国家が支配するという意味ではない。国家が正しい思想を注入するという意味でもない。国家が道徳的善人を作るという意味でもない。むしろ、それは危険である。だが、だからといって、国家と社会が子どもを放置してよいわけではない。

読めるか。書けるか。数を扱えるか。人の話を理解できるか。自分の困難を説明できるか。生活を管理できるか。働けるか。働けないなら、どの支援が必要か。学術教育へ進むべきか。職業教育へ進むべきか。福祉や医療へ接続すべきか。

これらは、内心の自由の問題ではない。

社会参加の前提条件の問題である。

国家と社会がここを見ないなら、子どもは「自由」の名のもとに放置される。親の情報力、家庭の文化資本、地域差、学校差、教師の力量、本人の偶然、進路指導の当たり外れ、塾に行けるかどうか、親が障害や困難を認めるかどうか、本人が自分の困難を言語化できるかどうかに左右される。

それは自由ではない。

自由に見える放置である。

義務教育とは、その放置を国家と社会が拒むための制度でなければならない。

4. 内心の自由と、社会参加可能性は別問題である

ここで、内心の自由と成員形成を分けておく必要がある。

本稿が求めるのは、国家による思想統制ではない。子どもの内心を国家が管理することではない。信仰、思想、政治的信条、道徳的感情を国家が統一することでもない。そんな教育は拒否されなければならない。

だが、読み書き、数理、認知、発達、生活機能、職業適性、学習困難は、内心の自由と同じではない。

ある子どもが文字を読めない。数を扱えない。話の構造を理解できない。衝動を制御できない。抽象的説明を理解できない。空間把握に強い。手先が器用である。言語能力は高いが協調運動に弱い。処理速度に問題がある。ワーキングメモリに弱さがある。生活管理ができない。境界知能である。発達障害がある。学習障害がある。家庭環境によって学習機会を失っている。高い能力を持っているが、学校適応の悪さによって潰されている。

これらは、内心の自由を侵害しなければ触れられない領域ではない。

むしろ、触れなければならない領域である。

そこを見なければ、子どもは支援へつながらない。適性へつながらない。職業へつながらない。福祉へつながらない。医療へつながらない。本人の困難に名前がつかない。本人の能力にも名前がつかない。名前がつかなければ、周囲はそれを努力不足、性格の問題、家庭の問題、やる気のなさ、コミュ力不足、態度の悪さとして処理する。

それこそが暴力である。

ここで現在の内申書制度を考えると、話はさらに倒錯している。

日本の教育現場では、客観的な知能検査、適性検査、職業適性測定には強い抵抗がある。能力で測るのか。子どもにレッテルを貼るのか。選別するのか。そういう反発がすぐに出る。

だが、その一方で、内申書という制度は存在している。

内申書は、学力だけを記録するものではない。授業態度、提出物、協調性、学校生活への適応、教師から見た振る舞いが、進路に影響する。これは、学力や認知特性や適性を冷たく測る制度よりも、よほど内心に近い領域へ踏み込んでいる。教師の主観、学校文化への適応、従順さ、空気を読む能力が、進路を左右する。

これは地獄のような制度である。

もちろん、学校生活の観察がまったく不要だという話ではない。問題行動、支援ニーズ、生活上の困難、対人上の問題を見る必要はある。だが、それを曖昧な人格評価として進路に反映するなら、子どもは教師と学校文化に従順であることを要求される。これは、客観測定よりも、むしろ内心に近い領域へ踏み込む。

測定を忌避しながら、内申書を温存するのは、筋が通らない。

本稿が求めるのは、内心の評価ではない。読解、数理、発達、認知、適性、生活機能を、できる限り客観的に把握し、支援と接続に使うことである。冷たい測定の方が、曖昧な人格評価よりも、はるかにましである。

信じられる概念は、だいたい冷たい。

5. 思想史は、教育を単なる私的自由としては扱ってこなかった

教育を国家から個人を守る権利として読むことには意味がある。だが、教育をそれだけで理解するのは、思想史的にも狭い。

ロック、ルソー、カント、ミル、ヘーゲル、デューイ、デュルケームなど、立場の違う思想家たちを並べても、教育を単なる私的自由として放置する議論は強くない。自由な個人を作るためにも、公教育が必要になる。民主主義を担うためにも、公教育が必要になる。社会の成員として生きるためにも、公教育が必要になる。

ここで言う公教育とは、単に公立学校という意味ではない。家庭教師や私的訓練ではなく、社会が共通に保障し、次の世代を公共世界へ接続する制度としての教育である。

近代以前にも教育はあった。貴族には家庭教師があり、宗教組織には教育があり、職人には徒弟制があり、共同体には慣習的な教育があった。だが、近代国家は、読み書き、計算、歴史、科学、国語、法、制度理解を、一定の共通基盤として広く教える制度を作ってきた。

それは、国家が子どもの内心を支配するためだけではない。自由な個人を、社会の成員として成立させるためでもある。

ロックは自由主義の系譜に置かれる思想家である。だが、教育をどうでもよい私事として扱ったわけではない。人間は教育によって大きく形成される。理性、習慣、徳、判断力は、自然に勝手に育つものではない。自由な個人を考える思想家であっても、その自由を行使できる人間を育てる必要を無視できない。

ミルも同様である。ミルは国家の教育独占を警戒する。国家が教育を独占すれば、多様性が失われ、画一的な人間が作られる危険がある。これは重要な警戒である。だが、ミルは教育そのものを放任してよいとは考えない。教育を受けさせること、一定の水準を求めること、社会が教育を保障することは、自由主義の立場からも必要になる。

ヘーゲルに行けば、話はさらに明確になる。自由は、抽象的な非干渉では完結しない。家族、市民社会、法、国家という制度的媒介を通じて、自由は現実化する。もちろん、ヘーゲルを国家礼賛として安易に使うべきではない。だが、国家を自由の敵としてだけ見るのは浅い。制度がなければ、自由は現実に行使できない。

デューイにとって、教育は民主主義の中心である。民主主義は、単なる投票制度ではない。人々が共同で生活し、経験を共有し、問題を解決し、判断力を形成する実践である。そのためには教育が必要である。子どもは、社会の中で生きる存在として育てられる必要がある。

デュルケームにとっても、教育は社会化である。新しい世代は、社会の規範、役割、知識、技術、価値を身につけなければならない。これを単なる私的選択に還元することはできない。

つまり、教育を「国家から個人を守る権利」としてだけ読むのは、近代教育思想全体から見ても狭い。教育は、自由を破壊する制度にもなりうる。だが同時に、自由を行使できる成員を形成する制度でもある。

ここを両方見なければならない。

国家教育への警戒だけでは足りない。個人の自由だけでも足りない。教育は、自由な個人を形成し、その個人を公共世界へ接続する制度である。

6. ルソーの失敗診断――自然成長主義へ逃げる近代教育

ルソーは、ここで安易な統合の根拠としてではなく、失敗の診断として使うべき思想家である。

『エミール』的な自然人教育と、『社会契約論』的な市民形成は、簡単には接続しない。自然人を育てる教育には、放任とは違う厳格さがある。市民を形成する教育には、公共的責任がある。どちらも甘い話ではない。

ところが近現代の教育言説では、そのうち「自然な成長」「個性」「主体性」「自由」といった側面だけが、しばしば雑に流通する。

これは日本だけの問題ではない。

子どもの自然な成長、個性、主体性、能力の多様性を重んじる語彙は、近現代の教育思想に広く流通している。子ども中心主義、進歩主義教育、個性尊重、能力の多元性。そうした語彙は、世界の教育現場に影響を与えてきた。

問題は、それらの語彙が、測定、支援、職業接続、制度設計から切り離されることである。

子どもの個性を尊重することは必要である。学力だけで人間を見るべきではない。言語や数学に強い者だけが価値を持つわけではない。音楽、身体、空間、対人、現場感覚、手先の器用さにも価値はある。

だが、それを言うなら、なおさら測らなければならない。

測らずに「能力は多様だ」と言うだけなら、それは優しい言葉である。しかし、優しい言葉は、職業にも、支援にも、教育課程にも、福祉にも、自動的にはつながらない。測定、予測、配置、支援、制度設計に降りなければ、能力の多様性は、ただの教育スピになる。

日本では、この問題が、戦後教育、戦前国家教育への反動、アメリカ由来の測定忌避、個性・主体性・自己決定の語彙と結びついて、特に見えやすい形で現れた。

子どもは一人ひとり違う。子どもの個性を尊重しよう。主体性を大事にしよう。自由に学ばせよう。自分らしく生きさせよう。

言葉だけを見れば、美しい。

だが、問題は、その先である。

自然人を育てるというなら、そのためには厳格な環境設計が必要である。子どもを社会の虚栄や競争や模倣から遠ざけ、経験の順序を整え、本人の発達に合わせて、教育者が徹底的に関与する必要がある。これは、放任ではない。

市民を育てるというなら、公共世界へ接続する責任が必要である。法を理解し、他者と関わり、共同体の一員として判断し、働き、制度を支え、制度を批判する力を育てなければならない。これも、放任ではない。

ところが、日本の教育言説では、自然人を育てるほどの厳格さも、市民を形成するほどの公共的責任も、しばしば抜け落ちる。残るのは、「個性」「主体性」「自由」という優しい言葉だけである。

その結果、人間も市民も作らない教育が生まれる。

子どもを測らない。困難を名指さない。適性を見ない。支援へつながない。社会へ接続しない。だが、自由は尊重していると言う。個性は大事にしていると言う。主体性を育てていると言う。

それは教育ではない。

放置である。

そして、その放置を美しい抽象語で包むとき、教育はスピる。

7. 比較法・比較教育学的に見ても、理想形はどこにもない

比較法・比較教育学的に見ても、理想形はどこにもない。

以下では、一定の成功例として、フランス、ドイツ、シンガポールを参照する。さらに、測定忌避と地域差・家庭差の問題を考えるために、アメリカも参照する。ただし、それらのどこかに完成されたモデルがあるわけではない。日本がそのまま輸入すべき制度があるわけでもない。必要なのは、各国の制度から使える部品を拾い、日本の現状と接続して再構成することである。

フランスは、一番共和制的な素材を持っている。

フランスでは、教育は共和国の価値、市民性、社会的・職業的挿入と強く結びついている。教育は私事ではなく、公共的制度である。共和国の成員を形成する制度である。この点で、フランスは本稿の問題意識に最も近い。

だが、フランスにも完成形があるわけではない。フランス法が、そのまま「国家と社会が成員形成責任を負う」と、ぼくの言葉で書いているわけではない。フランスは、最も近い参照先であって、完成形ではない。

また、フランス型はコストがかかる。教師、心理職、カウンセラー、継続的評価、個別支援、進路指導、学校制度全体の公共性が必要になる。子どもを一発のテストだけで分けるわけではない。観察し、評価し、支援し、接続する。これは共和制的である。しかし、コストが高い。

ドイツから学ぶべきなのは、職業教育が社会的に意味あるトラックとして確立されている点である。大学だけが尊厳ある進路ではない。職業教育が制度として社会に接続されている。デュアルシステムのように、学校教育と職業世界が結びついている。この点は重要である。

だが、ドイツ型の早期分化をそのまま採るべきではない。ドイツでは、比較的早い段階で進路が分かれる。州によって差はあるが、10歳前後で分化が始まる構造は、日本から見ると早い。発達心理学的にも、その年齢では、その後の認知的発達、学力の伸び、興味関心の変化、家庭環境からの回復、本人の成熟によるぶれを十分に吸収しにくい。早すぎる分化は、家庭背景や教師判断を通じて、子どもの進路を固定しやすい。職業トラックが強いことは学ぶべきである。しかし、早く分けすぎることは採るべきではない。

シンガポールから学ぶべきなのは、測定と分岐を国家が実装している点である。子どもの進路を、曖昧な自己分析や家庭の情報力に任せきらない。制度として測り、分け、接続する。ただし、これもそのまま採るモデルではない。学力テスト中心で分岐が強く、近年は柔軟化も進んでいる。参照すべきなのは、測定を恐れず、制度として扱っている点である。

アメリカから学ぶべきなのは、むしろ失敗の形である。アメリカでは、知能検査や能力測定が、軍、学校、職業配置の領域で大規模に使われた歴史がある。GATB自体も、もともとはアメリカで開発された職業適性検査である。だが、その運用は、人種差、文化的バイアス、差別、特殊教育への誤配置をめぐる批判と切り離せなかった。雇用領域ではrace-normingの問題も起こった。ただし、この問題はそれだけで別稿を要するので、ここでは深入りしない。

ただし、能力測定そのものが消えたわけではない。軍隊のように、能力が配置や訓練、場合によっては生死に直結する領域では、現在もASVABのような学力・適性系の検査が使われている。ここに、測定忌避の限界が見える。測定は危険である。だが、測定を避ければ、配置の問題が消えるわけではない。

測定を避けた社会では、地域差、学校差、家庭差、親の情報力、本人の偶然が残る。形式上は平等でも、実質はローカルな差に委ねられる。測定による固定化を避けても、測定しないことによる放置が残る。

日本で必要なのは、これらをそのまま輸入することではない。

フランスからは、教育の公共性を学ぶ。ドイツからは、職業トラックの尊厳と制度的接続を学ぶ。シンガポールからは、測定と分岐を国家が実装する姿勢を学ぶ。アメリカからは、測定忌避が自由や平等を守るように見えて、実際には地域差・家庭差・偶然を温存しうることを学ぶ。

そのうえで、日本の現状に合わせて、測定、支援、職業教育、再接続を組み直す。

8. 測定を忌避するな

測定を忌避してはいけない。

日本でもアメリカでも、かつて知能検査や職業適性検査は、学校や職業配置の領域でより広く使われていた。だが、戦後の平等主義、アメリカの公民権運動以後の文化的バイアス批判、日本における戦前国家教育への反動、そしてラベリング批判や自己決定の語彙の中で、一斉測定は後退していった。

この後退には理由がある。

知能検査は、差別に使われうる。適性検査は、早期選別に使われうる。測定結果は、本人の可能性を固定する烙印になりうる。家庭環境、言語環境、文化的背景、障害、精神状態を十分に考慮しないまま、子どもを能力で序列化する危険がある。

それらの懸念は理解できる。

だが、その反動として測定そのものを忌避するなら、それは不親切であるだけではない。不公平であり、非効率であり、長期的には高くつく。

現在の方向は、おそらく個別支援に寄っている。熟練した教員が子どもの問題を発見する。支援員やスクールカウンセラーが観察する。必要に応じて発達検査や心理検査へつなぐ。保護者と相談する。個別支援計画を作る。

理想としては、美しい。

だが、コストが高い。教員の熟練度に依存する。学校差が出る。地域差が出る。担任の当たり外れが出る。親が認めなければ止まる。本人の体面、親の体面、学校の事なかれで止まる。問題が見逃される。見逃された子どもは、支援されないまま進級する。

そして、そのまま社会へ出る。

だから、一斉測定には意味がある。

一斉測定は万能ではない。検査だけで人間は分からない。数値だけで人生を決めてはいけない。だが、一斉測定は安い。網を広く張れる。教師の主観に依存しにくい。家庭の情報力に依存しにくい。地域差を減らせる。見逃しを減らせる。早期に異常値や困難を拾い、その後の個別支援へつなげる入口になる。

つまり、測定は選別ではない。

保障と支援と接続の入口である。

早期人的投資の議論として知られるヘックマン・カーブも、ここで参照できる。早く見つけ、早く支援へつなぐ方が、本人にとっても社会にとっても安い。もちろん、これは知能検査だけで問題が解決するという話ではない。測定を、早期支援への入口として制度化すべきだという話である。

遅すぎる発見は、しばしば救済ではなく、単なる説明になる。

大人になってから、人生が相当壊れた後に、実は境界知能だった、実はADHDだった、実は学習障害だった、実は高知能だが学校適応に失敗していた、と分かる。それは、本人にとって何も意味がないわけではない。だが、遅い。学校段階で分かっていれば、進路、支援、学習方法、職業接続、家庭への説明、医療・福祉接続の設計ができた可能性がある。

測定を避けたせいで、困難も才能も見逃される。見逃された困難は、後から本人の人格の失敗として処理される。

それが一番残酷である。

9. 小学校段階では、知能・発達・学習困難・高い能力を早く見つける

小学校段階では、知能検査、発達検査、学習困難の把握を行うべきである。

最低限、小学校入学前後、あるいは小学校低学年で、一度は公的なスクリーニングを行うべきだと思う。これは子どもを序列化するためではない。支援が必要な子どもを、早く、安く、確実に見つけるためである。

知能検査については、昭和から平成期にかけて、学校単位・自治体単位で一斉実施型の団体検査が行われていた。ぼく自身にも、小学校で受けた記憶がある。ただし、それが全国一律の義務制度としてどの程度実施されていたかは、ここでは断定しない。重要なのは、かつて学校教育が、児童の知能や認知特性を集団的に把握しようとしていたこと、そして現在はそれが個別支援・個別検査へ寄り、早期スクリーニングとしての性格が弱まっていることである。

ここで見つけるべきなのは、低い側の困難だけではない。

境界知能、発達障害、学習障害、家庭環境による遅れ、視覚や聴覚の問題、言語理解の問題、処理速度の問題、ワーキングメモリの問題、生活機能の問題。そうした困難は、早く見つけなければならない。

だが同時に、高い能力を持つ子どもも見つけなければならない。

高知能児、いわゆるギフテッド、あるいは高い知的能力を持ちながら発達上・心理上・家庭環境上の困難を抱える子どもは、学校適応や学力テストだけでは見えないことがある。知能は高いが、授業に適応できない。課題提出ができない。教師に反抗的に見える。退屈している。家庭環境のために学力として能力が出ない。あるいは、能力が高いこと自体が周囲との摩擦を生む。

そうした子どもも、測らなければ見えない。

知能が低い子どもを支援へつなぐためにも、知能が高い子どもを潰さないためにも、測定は必要である。測定しなければ、困難にも才能にも名前がつかない。名前がつかなければ、支援にも教育にも職業にもつながらない。

もちろん、検査結果を子どもに貼り付けて固定身分にしてはならない。数値を振り回して、お前はこの程度だと言ってはならない。検査は、支援への入口でなければならない。

だが、入口がなければ、支援にも入れない。

支援が必要な子どもを見つけるためには、教員の観察だけでは足りない。観察は必要である。専門職も必要である。だが、観察だけに頼る制度は高コストで、不確実で、属人的である。だからこそ、安く、広く、確実に網をかける測定が必要になる。

測定を忌避する社会は、困っている子どもに優しい社会ではない。

10. 中学校段階では、学力と適性を把握する

中学校段階では、学力と適性を把握する。

ただし、ここで「学力が知能の代替指標になる」と強く言い切る必要はない。中学生になれば、読み書き、数理、抽象理解の困難は、小学校低学年よりは学力として見えやすくなるとは思う。だが、学力は知能そのものではない。家庭環境、学校環境、本人の心理状態、発達特性、学習障害、教師との相性によって、学力は大きく左右される。

だから、学力偏差値だけでは足りない。

言語能力。数理能力。空間把握。形態知覚。手先の器用さ。書記的知覚。処理速度。注意。作業特性。生活機能。職業適性。興味。身体性。

学力偏差値だけでは、これらは見えない。

成績だけを見ていれば、抽象的な学術教育に向く者ばかりが高く評価される。逆に、空間把握や形態知覚や手先の器用さや現場感覚に強い者が、普通科的な学力競争の中で低く扱われる。これは社会的損失である。

ここでGATBのような職業適性検査を制度に組み込む意味が出てくる。

GATB、厚生労働省編一般職業適性検査は、少なくとも中学2年以上を対象に、学校の進路指導・職業指導でも使える検査として整備されてきた。現在も制度上は残っている。中学校・高校向けの判定、クラス単位や学年単位の集計を想定した運用もある。つまり、検査が存在しないわけではない。

問題は、こうした測定を、義務教育から後期中等教育への接続制度として十分に使っていないことである。

もちろん、GATBそのものには古い部分もある。現代化は必要である。職業情報、興味、学習履歴、生活機能、支援ニーズなどと組み合わせる必要もある。だが、発想は正しい。

人には適性がある。向く仕事と向かない仕事がある。向く学習経路と向かない学習経路がある。これを測らず、自己分析や親の希望や学力偏差値や学校名だけで進路を決める方が、よほど残酷である。

GATB的測定は、子どもを切り捨てるためのものではない。

社会への切符である。

11. 15歳は出口ではなく、第一次接続点である

15歳前後は、出口ではない。

第一次分岐点であり、第一次接続点である。

日本には既に、中学卒業時点で、普通高校、実業高校、高専、専門的な進路への分岐がある。問題は、その分岐が、公的な測定と支援に支えられた接続になっていないことである。

多くの場合、学力偏差値、地域、親の情報力、学校の進路指導、本人の雰囲気、部活、友人関係、なんとなく普通科、なんとなく商業、なんとなく工業、なんとなく就職、なんとなく進学、という形で分かれる。そこに、国家と社会が責任を持って子どもを見る制度が十分に入っていない。

15歳で放り出してはいけない。

15歳で一度、社会的トラックへ接続するのである。

ここでドイツとの対比が重要になる。

ドイツから学ぶべきなのは、職業トラックが制度として成立している点である。職業教育が、単なる落ちこぼれ収容ではなく、社会的に意味あるルートとして存在している。大学だけが尊厳ある進路ではない。職業教育が、企業、学校、資格、労働市場と接続している。

これは学ぶべきである。

だが、ドイツ型の早期分化をそのまま採るべきではない。ドイツでは、比較的早い段階で進路が分かれる。州によって差はあるが、10歳前後で分化が始まる構造は、日本から見ると早い。発達心理学的にも、その年齢では、その後の認知的発達、学力の伸び、興味関心の変化、家庭環境からの回復、本人の成熟によるぶれを十分に吸収しにくい。早すぎる分化は、家庭背景や教師判断を通じて、子どもの進路を固定しやすい。

日本で採るべきなのは、10歳前後で人生を分けることではない。

日本には既に15歳の分岐がある。ならば、それを放置された進路選択から、公的な第一次接続へ作り替えるべきである。

15歳で高専や実業高校へ進む道は強化する。職業トラックは、負け組ルートではなく、適性ある者にとって意味あるルートにする。だが、それは固定身分であってはならない。

15歳は出口ではない。第一次接続点である。

12. 18歳で再測定し、再接続する

15歳時点の分岐は固定であってはならない。

15歳で一度、学力、適性、興味、生活機能を見て、普通教育、職業教育、高専、実業高校、補習、福祉、医療へ接続する。だが、それを固定身分にしない。18歳でもう一度測り直し、本人の成熟、志向、学力、適性の変化を見て、大学、専門職大学、高専専攻科、編入、職業訓練、企業内教育、就労支援、福祉へ再接続する。

測定とは、人生を一度で決めるための制度ではない。

人生を何度も接続し直すための制度である。

ここでフランスのグランゼコール的な問題は、別稿で扱うべき問題になる。フランスは教育の共和制的公共性では参照価値がある。だが、高等教育の上位トラックが18歳以降に強く決まりすぎる問題もある。これは義務教育の原理論というより、15歳から18歳、さらに18歳以降の接続構造の問題である。したがって、詳しくは「日本共和制論 3/5」で扱う予定である。

この稿では、原理を確認するにとどめる。

15歳で一度つなぐ。

18歳でもう一度つなぎ直す。

13. 境界知能と福祉未接続を放置するな

測定をめぐる議論で、最も重要なのは、境界にいる子どもたちである。

境界知能の子ども。知的障害の診断には届かないが、通常教育や通常就労では大きな困難を抱える子ども。発達障害や学習障害があるが、見逃されている子ども。完全に福祉や医療への接続が必要な水準なのに、親の体面、本人の体面、学校の事なかれ、診断への抵抗によって、必要な支援につながっていない子ども。

こういう子どもたちは、測定を忌避する社会では見えなくなる。

見えないまま、普通学級にいる。見えないまま、普通高校へ行く。見えないまま、専門学校や大学へ行く。見えないまま、非正規労働へ行く。見えないまま、夜職へ行く。見えないまま、搾取される。見えないまま、犯罪被害に遭う。見えないまま、精神疾患を抱える。見えないまま、引きこもる。見えないまま、自己責任として処理される。

これは社会の失敗である。

測定は、こういう子どもたちを切り捨てるためにあるのではない。むしろ、切り捨てないためにある。本人の困難に名前をつけ、支援へつなぎ、職業教育へつなぎ、福祉へつなぎ、医療へつなぎ、生活へつなぐためにある。

測定しなければ、人間は傷つかないというわけではない。

測定しないことで、人間はもっと深く傷つくことがある。

なぜなら、測定されなかった困難は、本人の人格の失敗として処理されるからである。

お前は努力が足りない。お前は空気が読めない。お前はだらしない。お前は勉強ができない。お前は仕事ができない。お前は自己分析が足りない。お前はコミュ力がない。お前は選択を間違えた。

そう言われる。

だが、本当にそうなのか。

認知特性の問題かもしれない。発達の問題かもしれない。知能の問題かもしれない。家庭環境の問題かもしれない。福祉接続の問題かもしれない。職業適性のミスマッチかもしれない。教育制度が見なかった問題かもしれない。

測定とは、それを本人の人格から制度の問題へ戻すための道具である。

14. 測定しない社会は、優しい社会ではない

測定を忌避してはいけない。

測定をしない社会は、優しい社会ではない。測定をしない社会は、測られなかった人間を自己責任で処理する社会である。困難に名前がつかなければ、支援へ接続されない。適性が見えなければ、進路は家庭の情報力、自己分析ごっこ、学力偏差値、体面、偶然に支配される。

もちろん、測定は危険である。数値は暴力になりうる。検査はラベリングになりうる。能力測定は差別に使われうる。進路指導は固定化に使われうる。

だからこそ、測定は、支援と再接続の制度として設計しなければならない。

小学校段階では、支援への入口として測る。中学校段階では、第一次接続のために測る。高校段階では、再接続のために測る。測定結果は、固定身分ではない。本人を縛る烙印ではない。次にどの支援へつなぐか、どの教育へつなぐか、どの職業世界へつなぐかを考えるための公的情報である。

義務教育を本当に義務として引き受けるなら、国家と社会は子どもを見なければならない。

読めるか。書けるか。数えられるか。考えられるか。話を理解できるか。生活できるか。働けるか。支援が必要か。福祉へつなぐべきか。職業教育へつなぐべきか。さらに学術教育へ進めるべきか。

それを見ることから逃げて、「自由」「個性」「多様性」と言うだけなら、それは教育ではない。

それは放置である。

15. 義務教育を、国家と社会の成員形成責任として引き受ける

義務教育の義務は、親が子どもを学校へ行かせる義務だけではない。

それは、国家と社会が、子どもを社会参加可能な成員へ形成する責任である。

この責任を引き受けるとは、国家が子どもの内心を支配することではない。思想を統一することではない。道徳を注入することではない。むしろ、そうした国家教育への警戒は維持されなければならない。

だが、警戒だけでは足りない。

国家を縛ることは必要である。個人の自由を守ることも必要である。しかし、国家と社会が子どもを放置してよいわけではない。自由な個人は、自然に生えてくるわけではない。公共世界の成員は、偶然に形成されるわけではない。

教育は、その形成を担う制度である。

だから、義務教育には測定が必要である。支援が必要である。職業教育への接続が必要である。福祉への接続が必要である。15歳での第一次接続が必要である。18歳での再接続が必要である。早期発見、第一次接続、後期修正、再挑戦可能性が必要である。

近代公教育は、この問題をどこでも完全には解けていない。

だから、日本で必要なのは、どこかの国の制度をそのまま輸入することではない。近代公教育が抱える失敗を見たうえで、日本にすでにある制度を、子どもを放置しないための測定・支援・接続・再接続の制度へ組み直すことである。

これをしない社会は、子どもを自由にしているのではない。

子どもを放置している。

だから、国家と社会は、子どもを見なければならない。

放置を自由と呼ぶな。

測定を選別と呼んで逃げるな。

義務教育を、親の義務だけに閉じ込めるな。

Word up.

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