歴史学者の政治的断言は、歴史ではない――岡美穂子氏の「現代的視野」発言について

All eyes on 歴史学者の政治的断言。

先に、愛子天皇待望論について書いた。

そこで言ったのは、愛子さま個人の魅力と、皇位継承システムの継続性を混同するな、ということだった。

愛子さまが素晴らしい。国民に愛されている。女性天皇なら現代的で美しい。だから天皇に。

この流れは、一見すると優しい。だが、構造としては浅い。愛子さまというキャラクターの魅力を、国民感情にとって気持ちのよい制度変更へ直結しているからである。

それは読みではない。消費である。

今回扱う岡美穂子氏の発言も、同じ構造に見える。

歴史を読むのではなく、歴史を現代政治のために消費している。

山口一男氏から岡美穂子氏へ

この件は、もともと山口一男氏の発言から見始めた。


山口氏は、岡氏の「日本史上、最悪の政権の一つであるとはっきり言えますね」という趣旨のポストに乗り、自身も「日本を代表する社会学者の一人」「文化功労者」であることを前置きしながら、高市政権を「戦後最悪の政権」と断じていた。

山口氏の場合、問題は、統計・EBPM・社会科学の語彙をまとった政治的断言だった。

彼は数字を扱う。実証を語る。ジェンダー平等、WLB、生産性、少子化を語る。だから一見すると、スピには見えにくい。だが、問いの設定、評価軸、競合仮説の扱い、そして政治的断言への飛躍を見ると、かなり危うい。


数字は嘘をつかないが、嘘つきは数字を使う。

山口氏の問題は、この線に近い。スピの混ぜ方が巧妙なのである。

一方で、岡氏の発言はもっと露骨だ。

歴史学者。通史の漫画監修。恩師たちから叩きこまれた情報。今上陛下のお気持ち。血税。女性蔑視へのカウンター。現代的視野。

そうした権威・情緒・道徳語彙が、一つの政治的断言へ流れ込んでいる。

これは、かなり分かりやすい。

ドスピである。

岡氏の発言の問題

岡氏は、Xで次のような趣旨のことを述べていた。

自分は歴史学者であり、通史の漫画も監修している。高市政権は日本史上、最悪の政権の一つであるとはっきり言える。腐敗した悪政の上に、皇統問題に汚れた手を突っ込んでいる。今上陛下がお気持ちを表明された以上、国民は臆すことなく政権を批判すべきである。彼らを養っているのは我らの血税である。

政治的意見として、政権を批判すること自体は自由である。

大学教員が政権批判をしてはならない、という話ではない。歴史学者が現代政治について発言してはならない、という話でもない。

問題はそこではない。

問題は、歴史学者という肩書を前に出し、通史の漫画監修という実績を置き、そのうえで「日本史上、最悪の政権の一つ」と断言していることである。

日本史上、というなら、比較対象は何か。

古代の政争か。院政期か。南北朝か。応仁の乱期か。戦国大名政権か。徳川幕府か。幕末か。明治政府か。大正デモクラシー期か。昭和戦前期か。軍部主導の戦時体制か。敗戦直後か。戦後の各政権か。

何をもって「最悪」とするのか。

戦争か。内乱か。飢饉か。圧政か。財政破綻か。腐敗か。法制度の破壊か。皇統問題への介入か。外交安全保障か。民衆被害か。制度的持続性か。

その比較基準が示されないまま、「歴史学者」として「日本史上、最悪の政権の一つ」と断じるなら、それは歴史ではない。

政治的感想である。

それ自体は自由だ。だが、歴史学者の権威をまとうなら、話は別である。

「血税」論法の粗さ

岡氏は、政権批判の文脈で「彼らを養っているのは我らの血税である」という趣旨のことも述べている。

この言い方にも違和感がある。

もちろん、選挙で選ばれた政治家や政権担当者は、公的説明責任を負う。税金で支えられている以上、国民から批判されるのは当然である。

だが、その論法を採るなら、公的資金に支えられた国立大学の研究者もまた、公的説明責任から自由ではない。

これは「大学教員は政権批判をするな」という意味ではない。

逆である。

税金で支えられた学術権威が政治的断言をするなら、その断言にも説明責任がある、という意味である。

「血税」を言うなら、血税で支えられる側の学術権威もまた、概念区分、根拠、比較基準、論証責任を免れない。

政権には血税を理由に説明責任を求める。だが自分は、歴史学者という肩書と通史監修という実績を置けば、比較基準なしに「日本史上最悪級」と言える。

それは通らない。

「現代的視野」ポスト

さらに岡氏は、別のポストで次のように述べている。

「現代の男女平等社会の実現等々の理由で、女性天皇を支持しているわけではなく、日本史研究でその道の碩学であった恩師たちから叩きこまれた情報を基に考えているに過ぎないが、男系男子限定思想が少なからず女性蔑視と相乗する現状を考えると、結局カウンターとして、現代的視野も入らざるを得なくなる」

この発言は、かなり重要である。

第一に、「恩師たちから叩きこまれた情報」は、一般向けの学術的根拠ではない。

恩師が碩学であったことは、そのまま論証にはならない。どの史料か。どの論文か。どの学説か。どの議論か。どの概念区分か。そこを示して初めて、検証可能な議論になる。

「恩師から叩きこまれた」は、学問の記憶としては意味があるかもしれない。だが、公の場で現代政治と皇位継承問題を論じる根拠としては、権威依存である。

第二に、「現代の男女平等社会の実現等々の理由で、女性天皇を支持しているわけではない」と言いながら、「男系男子限定思想が少なからず女性蔑視と相乗する現状」を理由に、「カウンターとして、現代的視野も入らざるを得なくなる」と述べている。

これは、単純な矛盾とまでは言わない。

歴史研究に現代的問題意識が入ることはある。歴史を現在から読み直すこともある。現代社会の問題意識が、過去を見る視線を変えることもある。

それ自体は否定しない。

しかし、それならば、これは純粋な歴史学的結論ではない

歴史研究の知見と、現代ジェンダー政治への応答を接続した立場である。

であればなおさら、概念を切り分ける必要がある。

女性天皇。
女系天皇。
男系女子。
男系男子限定。
皇位継承制度。
女性蔑視的言説。
現代の男女平等。
国民感情。
愛子天皇待望論。

これらは同じではない。

男系男子限定論の周辺に、女性蔑視的言説が混ざることはあるだろう。そこは否定しない。しかし、女性蔑視的言説があることと、皇位継承制度としての男系男子限定をどう評価するかは、論理的に同一ではない。

それを同じものとして扱えば、制度論が道徳論に溶ける。

歴史が現代政治に溶ける。

そして最後には、「女性蔑視へのカウンター」という大きな正義の物語が、皇位継承論を呑み込む。

それは歴史ではない。

後付けは否定しない

ここで誤解してほしくない。

ぼくは、現代の視点で歴史を読むこと自体を否定しているわけではない。

後世の概念で過去を読み直すことは、普通にあり得る。歴史小説はしばしばそれをやる。批評もそれをやる。歴史学でも、現在の問題意識から問いが立てられることはある。

たとえば垣根涼介の『信長の原理』は、織田信長にパレート法則的な発想を重ねる。もちろん、信長がパレート法則を知っていたわけではない。完全に後付けである。

だが、その後付けは小説として機能している

なぜなら、それが後付けであることを引き受けた上で、人物造形と物語構造の中で昇華されているからである。

問題は、後付けそのものではない。

問題は、後付けを後付けとして扱わないことである。

現代的なジェンダー意識を歴史に接続するなら、その接続は接続として示すべきである。どこまでが史料から言えることなのか。どこからが現代的価値判断なのか。どこからが政治的応答なのか。そこを分けるべきである。

それを分けずに、「歴史学者」「通史監修」「恩師から叩きこまれた情報」「今上陛下のお気持ち」「血税」「女性蔑視へのカウンター」をまとめて現代政権への弾劾に流し込む。

それは、読むことではない。

消費することである。

歴史を読んでいるのではない。

歴史を、現在の政治的情念の燃料として消費している。

天皇のお気持ちを政治に使うな

岡氏の元ポストでさらに気になるのは、「今上陛下がお気持ちを表明された以上、国民は臆することなく政権を批判すべし」という趣旨の部分である。

これはかなり危うい。

天皇の発言やお気持ちを、政権批判の動員根拠として使うことは、象徴天皇制の政治利用に近づく。

天皇は政治的権力を持たない。そこに象徴天皇制の構造がある。

権威と権力を分ける。
天皇を政治権力の外に置く。
だからこそ、天皇は象徴であり続ける。

この構造を重く見るなら、天皇のお気持ちを、自分の政治的主張の補強に使うべきではない。

政権批判は、国民が自分の責任で行えばよい。

歴史学者が政権批判をしたいなら、自分の論証でやればよい。

そこに天皇のお気持ちを持ち込む必要はない。

むしろ、持ち込んではならない。

皇統問題を語るなら、なおさらである。

スピ判定

ここまで来れば、判定はかなり明確である。

岡氏の発言は、歴史学者による歴史的議論というより、歴史学者の権威をまとった政治的スピである

スピるとは、現実の制度・身体・責任・因果を飛ばして、抽象的で大きな意味や理念に逃げることである。

今回で言えば、飛ばされているのは、具体的な制度論であり、概念区分であり、比較基準であり、史料的根拠であり、象徴天皇制における権威と権力の分離である。

そして飛び先にあるのは、歴史学者の権威、通史監修の肩書、恩師の権威、天皇のお気持ち、血税、女性蔑視へのカウンター、日本史上最悪という大きな断言である。

これは、きれいなスピの構造をしている。

山口一男氏のスピは、数字と社会科学の形式をまとっていた。だから見えにくかった。

岡美穂子氏のスピは、もっと分かりやすい。

歴史の語彙で現代政治を殴る。

恩師の権威で自分の立場を補強する。

女性蔑視へのカウンターとして現代的視野を入れる。

天皇のお気持ちを政権批判の動員根拠にする。

血税を持ち出して道徳的優位を取る。

そして、「日本史上最悪の政権の一つ」と断じる。

これは歴史ではない。

ドスピである。

歴史学者の政治的断言は、歴史ではない

最後にもう一度確認する。

岡氏が政治的意見を持つことは自由である。
政権を批判することも自由である。
女性天皇を支持することも自由である。
現代的視野を歴史研究に接続することも、それ自体はあり得る。

だが、歴史学者としての肩書を置き、通史監修という実績を置き、恩師の権威を置き、天皇のお気持ちを置き、血税を置き、女性蔑視へのカウンターを置き、そのまま現代政権を「日本史上最悪の一つ」と断じるなら、それは批判される。

歴史と現代を接続するな、とは言わない。

雑に接続するな、と言っている。

読むなら読め。

消費するな。

歴史学者の政治的断言は、歴史ではない。

Word up.


追記:「民が騒がしいから降りてきた」

この記事を公開した後、さらに象徴的なポストを見た。

山口一男氏が、「肩書を誇示」「権威主義」などの批判に対して、自分は米国大学教授としてソトから発言しているのではなく、日本の社会政策に関わってきた者として、ウチから危機意識を持って発言したのだ、と説明していた。

それに岡美穂子氏がこう被せていた。

「私がXに来た頃、『民が騒がしいから降りてきた』と言って炎上した時に比べたら、全然平気ですよー」

これである。

あまりにも分かりやすい。

「民が騒がしいから降りてきた」。

この言い方には、専門家・知識人が上にいて、一般市民が下にいるという構図がある。上にいる者が、下で騒いでいる民のために、わざわざ降りてくる。

それこそ権威主義ではないのか。

もちろん、冗談や自虐のつもりなのだろう。だが、山口氏が「権威主義」批判に弁明している文脈でそれを持ち出すなら、話は別である。

肩書を置く。
専門家性を置く。
危機意識を置く。
そして、民が騒がしいから降りてくる。

これは、彼らが批判されている構造そのものではないか。

民主主義において、政治的正当性を持つのは、上から降りてくる専門家の危機意識ではない。騒がしい民衆の側である。

その当たり前を忘れたところに、岡氏の発言の危うさがある。

いいなと思ったら応援しよう!

kj aka ルサンチMAN よろしければチップお願いします。AI批評の各種経費に役立てます。