心理学はどこでスピるのか――EQ、MBTI、多重知能理論、精神分析

All eyes on 心理学スピ。

前に、「スピるとは何か」という文章を書いた。

そこでぼくは、「スピる」とは、現実の制度・身体・責任・因果を飛ばして、抽象的で大きな意味や理念に逃げることだ、と定義した。

これは、占い、波動、引き寄せ、前世、魂、宇宙といった、いかにもスピリチュアルなものだけを指す言葉ではない。

むしろ問題は、もっとまともそうな顔をして現れる。

政治の言葉でスピる。
教育の言葉でスピる。
経営の言葉でスピる。
心理学の言葉でスピる。

今回は、その心理学版である。

心理学そのものを否定するつもりはない。むしろ、ぼくは心理学を重視している。信じられる心理学の成果はある。

IQ。
Big Five。
心理的安全性。

これらは重要だと思っている。
IQとBig Fiveは個人差を扱う。心理的安全性はチームの発話条件を扱う。対象は違うが、どれも測定・予測・介入・制度設計へ接続できる点で、信じられる側にある。

ただし、信じられる概念はたいてい冷たい

IQは冷たい。
Big Fiveは冷たい。
心理的安全性も、本来はかなり冷たい。

なぜなら、これらは人を気持ちよくしてくれるための言葉ではないからである。

測る。
比較する。
予測する。
反証する。
制度や配置や評価に戻す。

そういう言葉である。

逆に、優しい心理学語彙ほど危ない。

人間力。
共感力。
心の知能。
あなたらしさ。
本当の自分。
タイプ。
無意識。
隠れた才能。

これらは気持ちいい。

だから疑った方がいい。

信じられる概念は冷たい。

優しい心理学語彙ほど、測定・予測・反証・増分妥当性・制度設計から逃げた瞬間にスピる。


EQはどこでスピるのか

まずはEQである。

ぼくはすでに、EQについて動画でかなり詳しく扱った。

そこで言ったことを、ここで全部繰り返すつもりはない。

簡単に言えば、EQとは、EI、つまりEmotional Intelligenceを商業的に再パッケージした概念である。

元になったEI研究には、それなりに真面目なものもある

特に能力型EIは、感情を扱う能力を測ろうとする試みである。MSCEITのようなテストは、少なくとも自己申告の「ぼくは共感力があります」よりは誠実だろう。

だが、それでも問題は残る。

感情に正答はあるのか。
コンセンサス採点とは何を測っているのか。
多数派と同じ感情判断をすることが、本当に能力なのか。
IQやBig Fiveを超えて、どれだけ現実の成果を予測できるのか。

そこは厳しく問われる必要がある。

一方、日本で流通しているEQは、そういう慎重な研究概念としてのEIではない。

もっと雑である。

「IQよりEQ」
「これからは心の知能指数」
「成功する人はEQが高い」
「共感力が大事」
「感情をマネジメントできる人が優秀」

こういう話である。

これは心理学というより、人間力信仰である。

EQがスピるのは、感情や対人能力を重視するからではない。

感情を読むことは大事だろう。
自制心も大事だろう。
他人の気持ちを推測する力も大事だろう。
場面によっては、対人能力が職務成果に関係することもあるだろう。

それはそうである。

問題は、そこではない。

問題は、それを「知能」と呼び、「IQに代わるもの」として売り、「人間力」や「共感力」や「心の知能」という気持ちのよい物語に変換することである。

IQは冷たい。

IQが高い人間と低い人間がいる。
複雑な課題を速く学習できる人間と、そうでない人間がいる。
抽象的な問題を処理できる人間と、できない人間がいる。

これは冷たい。

だから社会は、そこから逃げたがる。

EQは、その逃げ道として機能した。

「IQだけではない」
「人間に本当に大事なのは心だ」
「共感できる人こそ優秀だ」
「感情を扱える人が成功する」

こう言われると、救われた気になる。

しかし、ここで本当に起きていることは、冷たい測定から優しい物語への逃避である。

EQは、測定・予測・増分妥当性の問題を、「人間力」という曖昧な語彙へ溶かす。

だからスピる。

多重知能理論はどこでスピるのか

EQの仲間に、多重知能理論がある。

Howard Gardner(ガードナー)のTheory of Multiple Intelligencesである。

多元知能論と呼ばれることもあるが、日本語では多重知能理論と呼ばれることが多いようなので、ここでは多重知能理論とする。

多重知能理論の主張は、ざっくり言えば、知能は一つではない、というものだ。

言語的知能。
論理数学的知能。
空間的知能。
音楽的知能。
身体運動的知能。
対人的知能。
内省的知能。
自然認識的知能。

人間の能力は多様であり、IQテストで測られるような言語・論理・数学的能力だけが知能ではない。

一見すると、よいことを言っている。

実際、教育思想としてなら、意味はある。

学校の成績だけで人間の価値を決めるな。
言語や数学が得意でない子にも、別の能力がある。
音楽、身体、対人、空間認識、自然観察にも価値がある。
教育はもっと多様な能力を見ろ。

そういう主張としては、分かる。

だが、ここに罠がある。

それは本当に「知能」なのか。

知能と呼ぶなら、測定の土俵に乗る必要がある。

測れるのか。
信頼性はあるのか。
妥当性はあるのか。
相関構造はどうなっているのか。
一般知能gとどういう関係にあるのか。
それぞれの「知能」は独立しているのか。
教育や職務成果を予測するのか。
介入によって伸ばせるのか。

こうした問いに答えなければならない。

ところが、多重知能理論は、心理測定の土俵に正面から乗ることを避けてきた。

ここが本質的な問題である。

もしそれが、教育思想ならよい。

人間には多様な能力がある。
学校教育は狭い能力だけを評価しすぎている。
もっと多様な才能に目を向けるべきだ。

これは教育論である。

しかし、それを「知能」と呼ぶなら話は変わる。

知能という言葉は、測定と予測の概念である。

測定を拒否しながら「知能」と名乗るなら、その言葉は科学的構成概念ではなく、尊厳配分のための道徳語彙になる。

「勉強ができない子にも別の知能がある」
「運動が得意なのも知能」
「音楽が得意なのも知能」
「人間関係がうまいのも知能」
「みんな違って、みんな知能」

これは優しい。

だから疑うべきである。

音楽能力に価値がない、という話ではない。
身体能力に価値がない、という話でもない。
対人能力に価値がない、という話でもない。

価値はある。

だが、価値があることと、それを「知能」と呼ぶことは別である。

ここを混同すると、知能概念が溶ける。

多重知能理論は、IQという冷たい一元的序列への反感から、知能を増殖させる。

その増殖は、教育的には優しい。

だが、心理測定としては甘い。

知能という冷たい概念を、才能と尊厳の物語へ変換する。

そこにスピがある。

MBTIはどこでスピるのか

次にMBTIである。

これはもう、かなり分かりやすい。

人間の性格に違いがあることは事実である。

外向的な人と内向的な人がいる。
計画的な人と行き当たりばったりの人がいる。
感情を重視する人と論理を重視する人がいる。
新しいものが好きな人と安定を好む人がいる。

そこまではよい。

問題は、それをタイプ物語にしてしまうことである。

「あなたはINTJです」
「あなたはINFPです」
「あなたはENTPです」
「このタイプはこういう強みがあります」
「このタイプはこのタイプと相性がいいです」
「このタイプはこういう職業に向いています」

これは気持ちいい。

なぜなら、自分を説明してくれるからである。

人は、自分についての物語を欲しがる。

自分は何者なのか。
なぜこう感じるのか。
なぜ他人とうまくいかないのか。
なぜこの仕事が合わないのか。
なぜこの人と相性が悪いのか。

MBTIは、それに答えてくれる。

しかも、ちょうどよく褒めてくれる。

あなたは変わっているのではありません。
あなたはこのタイプなのです。
あなたにはこういう強みがあります。
あなたが疲れるのは、このタイプだからです。
あなたが人と違うのは、このタイプだからです。

これは優しい。

だから流行る。

しかし、心理測定として見れば、Big Fiveの方がはるかにまともである。

Big Fiveは、人間の性格を連続量として扱う。

外向性が高いか低いか。
協調性が高いか低いか。
勤勉性が高いか低いか。
情緒安定性が高いか低いか。
開放性が高いか低いか。

人間は、タイプに分かれるのではない。

多くの性格特性は連続的に分布する。

これは冷たい。

「あなたはこのタイプです」と言ってくれない。
「あなたの外向性はこの程度です」と言う。
「あなたの勤勉性はこの程度です」と言う。
「あなたの情緒安定性はこの程度です」と言う。

冷たい。

だから信じられる。

MBTIは逆である。

連続量をタイプに変換する。
測定を物語に変換する。
個人差を自己神話に変換する。

そこがスピる。

もちろん、MBTIを雑談や自己紹介の遊びとして使うなら、それほど問題はない。

血液型占いの少し高級なものとして楽しむなら、まだ分かる。

だが、それを就職、採用、配置、チームビルディング、リーダーシップ、相性診断に使い始めると危ない。

なぜなら、タイプ物語が現実の評価や配置に入り込むからである。

「この人はこういうタイプだから」
「このタイプはリーダー向きだから」
「このタイプはこの仕事に向かないから」
「このタイプ同士は相性が悪いから」

こうなると、遊びでは済まない。

MBTIは、Big Fiveという冷たいモデルから逃げて、タイプ神話へ戻る。

だからスピる。

精神分析はどこでスピるのか

精神分析は、少し扱いが違う。

ぼくは、精神分析を完全に無意味だとは思っていない。

思想史としての精神分析。
文学批評としての精神分析。
人間理解の語彙としての精神分析。
臨床文化としての精神分析。

これらには、巨大な影響がある。

フロイトを読まずに二十世紀思想を語るのは難しい。
無意識、抑圧、転移、反復、欲望といった語彙が、人間理解や作品解釈に力を持ってきたことも否定しない。

問題は、それを科学として扱うときである。

精神分析がスピるのは、無意識が背後世界になるからである。

本人が否定する。
それは抵抗である。

反対の行動をする。
それは反動形成である。

同じ失敗を繰り返す。
それは反復強迫である。

親子関係がうまくいかない。
それは幼少期の抑圧である。

権威に反発する。
それは父への葛藤である。

恋愛で同じ相手を選ぶ。
それは無意識の欲望である。

何でも説明できる。

そして、何も反証できない。

これは強い。

強すぎる。

強すぎる説明は危ない。

科学的な概念は、反証される可能性を持つ。
測定される。
外れる。
修正される。
捨てられる。

精神分析は、そこから逃げやすい。

なぜなら、否定すら材料にできるからである。

「私はそんなことを思っていない」と言えば、「だからこそ抑圧している」と言える。

「それは違う」と言えば、「抵抗している」と言える。

「証拠はない」と言えば、「無意識だから見えない」と言える。

この構造は、かなりスピである。

精神分析は、文学や思想として読むなら面白い。

しかし、それが人間理解の万能鍵になった瞬間、無意識という背後世界を使ったドスピになる。

心理学スピ診断レシピ

ここまで、EQ、多重知能理論、MBTI、精神分析を見てきた。

それぞれ違うものに見える。

だが、スピる構造は同じである。

測定から逃げる。
予測から逃げる。
反証から逃げる。
増分妥当性から逃げる。
制度設計から逃げる。
そして、優しい物語へ行く。

心理学スピを見分けるには、次のように問えばよい。

その概念は測れるのか。

測れるとして、その測定は信頼できるのか。

その概念は、現実の成果を予測するのか。

すでにある強い概念、たとえばIQやBig Fiveを超えて、何かを追加で説明するのか。

介入すれば、実際に成果は変わるのか。

その効果は、宣伝文句に見合うほど大きいのか。

人間を連続量ではなく、気持ちのよいタイプ物語に押し込めていないか。

能力、性格、価値、尊厳、道徳を混同していないか。

制度、配置、評価、職務設計の問題を、個人の内面へ押し込んでいないか。

反証できない背後世界を作っていないか。

この問いを通らないものは、心理学ではなく、心理学風のスピである。

心理学は冷たいところから始めるべきだ

心理学は、本来かなり冷たい。

人間には能力差がある。
性格差がある。
予測できる差がある。
変えにくい差がある。
配置を間違えれば失敗する。
制度を間違えれば壊れる。
チームの発話コストが高ければ、優秀な人間がいても機能しない。

これが現実である。

だが、人はこの現実を嫌う。

自分には別の知能があると思いたい。
自分は特別なタイプだと思いたい。
本当の自分はまだ見えていないと思いたい。
無意識に本当の理由があると思いたい。
IQよりも大事な心の知能があると思いたい。

分かる。

だが、分かることと、信じてよいことは違う。

優しい言葉は、人を慰める。

しかし、慰めることと、現実を測ることは違う。

心理学が測定・予測・反証・制度設計から逃げた瞬間、それは心理学ではなく心理学スピになる。

EQは、人間力へ逃げた。
多重知能理論は、測定から逃げた。
MBTIは、タイプ神話へ逃げた。
精神分析は、無意識という背後世界へ逃げた。

信じられる概念は冷たい。

優しい心理学語彙ほど疑え。

Word up.

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